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人間国宝女子高生
2001/05/20










「花にたとえれば、しらゆりのような‥‥」
それが、かつての女子高生の正しいありかたであった。
 しっとり、可憐で、はかなげで、それでいて芯は意外にしっかり強く、きりりと真一文字にひきむすんだ唇は花びらのごとく、白い頬をぽっと桜色に染めて、まさに、
「清廉、貞潔」
 セーラーカラーを涼しげになびかせながら、チリリーン、と澄んだベルの音とともに、軽やかに自転車を走らせていく女子高生の後ろ姿を、白のランニングシャツに野球帽の少年たちは、ぽっかり口を開けて見送ったものだ。
 お母さんに内緒で、こっそりお父さんに問い質してごらんなさい。
「実は、わしも‥‥」
ひそかに近所の女子高生のおねえさんに憧れていたのだ、と白状するであろう。
 それも、色白、ほっそり、胸うすく、目ぱっちり、おさげ髪の、
「しらゆりのような‥‥」
おねえさんであった、というに相違ない。

 かつて貧しき日本にあって、女子高生、それは、
「さわやかな春の風」
の代名詞だった。木々の芽があたたかな春風を待ち望むように、だれもが女子高生に憧れていた。透きとおった慕情を抱いていた。慎ましやかな暮らしの中で、人々は女子高生の中に、夢を、そして希望を見出していた、といってもいい。その意味で女子高生とは、人々にとっての、
「魂の救済」
であった。
「天使の福音」
であった。いや、日本社会全体の、
「良心」
そのものであったといってもよいだろう。

 それが、今はどうだ。
 あー、嘆かわしい。
 まったく、けしからん。
 なんだ、あれは。エッ。
 コラッ、そんな下品に、男とイチャイチャするなっ。
 うわっ、こんな場所に、ぺったり座りこんじゃイカンっ。
 わっ、なんだ、その、短いスカートは。エッ。
 わっわっわっ、こ、こ、こら、そんな、電車の中なんかで靴下かえたり、するんじゃないっ。
「なに、あのヒト、さっきからこっちばっか見てえ。サイアクう、ヘンタイじゃねーの?」
 ぐわっ、うるさい、だまれ、私はだなあ、高邁なる訓導と啓蒙の精神をもって‥‥。
「ゲーッ、ホントお、やっだあ、まだこっち見てるう。なにアレ? アブないヒト?」
 わっ、だから、違うってば、あのね、ちょっと、聞きなさいってば‥‥。
「ちょっとお、オッサン、なんか、あたしたちにい、用でもあんのお?」
 わっわっ、違う、違います、誤解です、そんなんじゃないですって。
 わひっ、ごめんなさい、ごめんなさい。
 あっ、いたい、いたい、やめて。
 すんません、すんません。
 いたい、ごめんなさい、ゆるして。
 ホントに、もうしませんから、おねがい。
 いたい。いたい。
 ‥‥。
 うーぐぐぐ。
 ぐやじー。
 と、かくのごとく、最近の女子高生は、ひどいのだ。

 もはや彼女たちは、「女子高生」の名に値しない。
「觚(こ)、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや」
 かつて孔子は天を仰いでこう慨嘆したと『論語』にある。「觚」とは本来、稜(かど)のある器物のはずであったが、孔子の時代には、すでに稜のないものになっていた。そんなものをどうして同じ「觚」と呼べようか、というのである。
 今のわれわれには、そんな孔子の気持ちが、痛いほどよくわかる。
 現在、「女子高生」と呼ばれている存在に、もはや昔日の正しい女子高生が備えていた、女子高生が女子高生たるべき、
「魂」
は、ない。
「精神」
が、抜け落ちているのだ。そこにあるのはもはや、稜のない「觚」と同様に、有名無実、形骸のみの抜け殻、紛い物でしかない。

 ああ、かつてのしらゆりのような、あの女子高生は、真の正しき女子高生は、もう日本には、いないのか。絶滅してしまったのか。
 あるいは、絶滅の危機に瀕しながらも、いまだどこかで人知れず、ひっそり生き残っているのか。
 生き残っているとすれば、生存数はどのくらいか。
 分布域はどのあたりなのか。
 トキやイリオモテヤマネコの保護も大切だが、昔ながらの正しい女子高生にこそ、国による手厚い保護が必要ではないのか。
 正しい女子高生は、日本の良心なのだ。伝統の粋、日本美の真髄なのだ。
 古来より連綿と続く日本の文化の集大成、それが正しい女子高生である、といっても過言ではないのだ。
 換言すれば、正しい女子高生、それは、
「日本の魂」
である、ということなのだ。
 正しい女子高生の絶滅は、大和魂の衰亡に直結する。
 正しい女子高生なくして、日本は、ない!
 これではイカン!
 日本が危ない!
 今こそわれわれは、立ち上がるべき、否、立ち上がらねばならぬのだ!

 ということで、私はここに、
「人間国宝女子高生」
の指定を提言したい。しらゆりのように正しく清らかな女子高生を、重要無形文化財保持者、いわゆる、
「人間国宝」
として認定し、保護しようというのである。
「えっ、ちょっと、それは、行き過ぎでは‥‥」
などとほざくではない。文化財に指定しないとしたら、どうすればいいというのだ。
「そりゃあもちろん、学校で監督し、育成すれば…」
 ばかもーん! 貴様の目は節穴か? くだらぬことを言うでない!
 混乱し、疲弊し、頽廃した教育現場に、正しい女子高生の育成が委ねられるわけがないではないか。
「38歳ハレンチ教師、学校の女子更衣室で隠し撮り! 自宅からビデオテープ3000本押収!」
とか、
「オオタっ、ゆるしてくれ、先生は、実は、教師としてではなく、男として、おまえのことが‥‥」
とか、
「あーん、だめですう、ここは教室ですう‥‥」
とかいった学校のどこが、はかなく、もろい、しらゆりのような女子高生が育つにふさわしい環境と言うのだ。
 ゆえに、人間国宝女子高生の指定という、国による直接介入が、必要なのだ。いや、今のわれわれには、これ以外に、正しい女子高生を守り育てる術は残されていないのだ。
 それにそもそも、法が定めるところの「文化財」の定義を、キミは知っておるのか。
 文化財保護法によると、「文化財」とは、
「わが国の正しい歴史、文化の正しい理解のため欠くことのできない、将来の文化の向上発展の基礎をなす貴重な国民的財産」
なのである。
 どうだ。この定義からすれば、正しい女子高生こそが、そこらへんの仏像や寺院よりもはるかに言葉通りの意味で、「文化財」であることは明らかではないか。正しい女子高生抜きにして、日本の正しい理解はない。女子高生のありかたが乱れては、将来の文化の向上発展は無きに等しい。
 法の示すところにおいても、女子高生の保護育成こそが今日の緊急課題であることは、明明白白だ。その意味で、人間国宝女子高生こそは、正しい女子高生を守る最後の牙城、
「女子高生千早城」
「女子高生スターリングラード」
なのだ。

 そんなさしせまった事情を背景に、密命を帯びた文化財調査員たちが、日本全国津々浦々に派遣されるわけである。
 しかしながら、正しい女子高生の探索は、困難をきわめることだろう。
 彼女たちが、日本のどこにいるのかは、わからない。
 都会にはびこる雑草に紛れ、ひっそりと命脈を保っているのかもしれない。
 深山幽谷の奥で、だれ知らぬままに、静かに孤高の大輪を咲かせているのかもしれない。
 文字どおり、木の根草の根わけて、しらみ潰しに探し出さねばならぬのだ。調査員たちが背負う使命は、大きく、重く、そして、つらい。
 目指す女子高生に影のごとくつきまとい、夜道で痴漢と勘違いされ、お巡りさんのお世話になることも多々あろう。
 外見は非の打ち所のない立派な正しい女子高生に、胸を躍らせつつ名前を尋ねてみると、
「黒須樹里亜」
などといった、およそ日本の正しい伝統とは合致しない、AV女優のような派手な名であることが判明し、絶望に打ちひしがれることもあろう。
 正しい女子高生探求の旅、それは現代における、
「聖杯探索」
「賢者の石の探求」
「アルゴ号の黄金の羊毛を求める旅」
とでもいうべきものなのである。
 それほど、しらゆりのような日本の正しい女子高生とは、得難く、また尊いものなのだ。

 なにしろ、しらゆりなのだ。
 しらゆりのように、美しく、はかなく、たおやかで、そして気高い。
 しらゆりの花が、そのまま人へと化身したような、姿と心をもつ存在なのだ。
 人にして、人にあらず。
 しらゆりにして、しらゆりにあらず。
 人と花のあいだ、現実と夢のあわいに浮かぶ、一瞬のきらめき、天使の奇跡。それが、正しい女子高生なのだ。
 ああ、なんと神秘的な、そして、なんとすばらしい存在なのだろう‥‥。
 たとえば、色白ほっそり、しなやかな手足、肩から腰にかけてのラインはようやく柔らかな女らしさを予感させ、触れただけで壊れてしまいそうに薄く華奢な撫で肩。
 白魚の指に桜貝の爪。黒目がちのつぶらな瞳、切ないほど長い睫毛、控えめに小さくて可憐な唇。細くもなく太くもなく流麗にすっきりとした眉には、見る者が思わず、
「きゅん」
と胸をときめかせてしまうような一抹の哀愁が漂う。
 みずみずしい若い肌には日の光に繊細な産毛が輝き、漆黒の髪はさらさらのストレートで、そこにチラリとのぞく薄桃色のかわいらしい耳はガラス細工のようにいとおしく、うーむ、想像しただけでドキドキしてしまうなあ。
 でもって、制服はもちろん、クラシックな紺のセーラー服。ブレザー不可、チェック柄不可。プリーツの入ってないスカートも許しません。そのスカートは安心の膝下丈、ルーズソックスなんてもってのほかです。
 中学生のころの粗野で子どもっぽい雰囲気は影を潜め、かわりに生まれはじめたしっとりとした落ち着きは、それでもまだ大人の女の域に達せず、十代特有の清楚でほのかな色気が肩のあたりに漂って、まさに、
「はらり‥‥」
と春風に舞うひとひらの花弁のごとき優美さとあやうさを秘める。
 大人に憧れて、大人になりきれず、健気でウブで純真で、おしゃべりで寂しがりやでおせっかいで潔癖で、へんなところで妙に一本気で、ときにはちょっと男の子のことが気になっちゃったりなんかして、
「まあ、だめよ、わたしったら、お・ま・せ・さ・ん!」
と、だれも見ていないのにひとり頬を染めて、あー、いいですなあ。ぐふふ。
 くわえて、いうまでもなく顔はすっぴん、下着は純白、アクセサリーは一切なしの自然体。少女らしい、なんだか乳くさいような、あのなんともいえない肌の匂いが、はあはあ、むふう、もう、たまらぬ。

 あ、いや、言っておきますけど、以上のことは、私個人の趣味とか嗜好とか、そういうわけでは、ありませんからね。
 人間国宝女子高生にふさわしい資質とはいかなるものかについての一例を、あくまで客観的、機械的に、リストアップしているだけですよ。
 これらをはじめとして、数百項目にものぼる選定基準が設定されている、ってことなんですよ。
 そうして、文化財調査員の厳正にして緻密な査定のもと、その膨大なチェック項目のすべてにおいてAA評価がなされた女子高生のなかから、さらに選りすぐりの者が、毎年0〜若干名、晴れて「人間国宝女子高生」として指定されるのである。
 考えるだに気宇壮大、天も照覧、鬼神も唸る、世界に誇るべき偉大な試みではないか。
 年に一度、国会で発表される、
「本年度の人間国宝女子高生報告」
は日本中の耳目を集め、国会中継の視聴率はうなぎのぼり、各新聞はこぞって号外を発行し、テレビでは特番が組まれ、交通は麻痺し、人心は擾乱し、犬は吠え、鳥は騒ぎ、寝たきり老人も跳ね起きて、もうなんだかたいへんなことになってしまうのだ。その日は、
「女子高生記念日」
として、日本の麗しき伝統と文化を祝う新たな祝日になってしまうかもしれない。

 ただし、人間国宝女子高生の指定は、あくまで正しい女子高生の保護が目的である。マスコミはそのあたりのことをよくわきまえねばなるまい。
 なにしろ、和歌山県新宮市在住の一ノ瀬琴子16歳が人間国宝の指定を受けて、その日のうちに大々的な記者会見、
「趣味は何ですか」
「あ、はい、‥‥テニスと、編み物です‥‥」
「好きな男の子はいますか」
「‥‥(真っ赤になってうつむく)」
などという感じだったのが、あれよあれよという間に人気沸騰、1ヵ月後にはテレビのバラエティ番組のレギュラーとなり、3ヵ月後にはドラマのヒロインに抜擢され、半年後にはミリオンセラーのミュージシャンとの仲が取り沙汰され、そうして1年後くらいに、
「あの人間国宝が脱いだ!」
となってしまっては、ぜんぜん正しくないではないか。つかず離れず、控えめでさり気ない報道が望ましい。
 また逆に、あまりに厳重な保護も、間違いのもとだ。
 たとえば、常時4名の学芸員が前後左右につきしたがって万一の場合に備えていたりするのは考えものだ。
 眠っている間や授業中、食事中はもちろんのこと、学校帰りに友達と内緒でパフェを食べちゃったり、サッカー部の先輩をネット裏からこっそり応援していたりなんかしているときに、常に傍らに地味なスーツを着た中年眼鏡男が腕を組んで見張っていては、いかに正しい女子高生といえど、耐えきれるとは思えない。
 ついには、キーッと錯乱し、発作的に行きずりの男に身を任せたりなんぞしてしまうかもしれぬではないか。そうなっては、元も子もない。
 やっぱり、つかず離れず、控えめでさり気ない保護管理が望ましい。

 人間国宝女子高生には、こうした細やかな配慮と保護が、絶えず必要なのである。とはいえ、
「正しい伝統を守るためには、やっぱりたいへんなコストがかかるんだなあ」
などと、あきらめるには及ばない。
 行政側にも、充分なメリットがあるのだ。
 話が下世話になって申し訳ないが、実のところ、人間国宝女子高生は、古代アイヌの面影を残す「御ケンプヌシ踊り」の伝承者・渡島軍兵衛さん(85歳)などを百万人束にしても比較にならないほど、正直いって、
「金になる」
のだ。常に資金繰りに苦しむ国の文化事業も、これを契機に息を吹きかえすであろうことは疑いない。
 たとえば、文化庁監修のビデオシリーズ「美しい日本の伝統・人間国宝」の、
第1巻「西宮まゆみの一日」
第2巻「結城みさお、17歳の夏休み」
第3巻「高沢鮎子の修学旅行日記」
なんてのには、発売1ヵ月前から予約殺到である。
「人間国宝ポスター」
「人間国宝ブロマイド」
「人間国宝トレーディングカード」
「人間国宝写真集」
「人間国宝フィギュア」
「あの人間国宝が着てるのと同じセーラー服」
なども続々と商品化され、サッカーくじと並ぶ文部科学省の独自財源になることは疑いない。
 おまけに総務省郵政事業庁あたりも、
「人間国宝女子高生記念切手シリーズ」
を発行して、ちゃっかりお相伴に与ることになるだろう。

 各界の識者が集う、
「日本文化の将来を考えるシンポジウム」
のような硬派のイベントも、特別ゲストとして人間国宝・高城雪子16歳などが出演すれば、にわかに押すな押すなの大盛況となること請け合いだ。
 やがては、
「女子高生博物館」
などが設立されるにおよび、
「歴代人間国宝女子高生が着用していたセーラー服」
「若杉あかね1/1スケールフィギュア」
「桂木ゆみ、高校時代3年間の日記」
などが展示され、日頃は出無精のお父さんたちも、
「子どもの教育のために‥‥」
と称して、率先して来場することになるだろう。そうしてミュージアムショップで、
「子どもの教育の参考にしたいので‥‥」
と称して、「高沢鮎子のセーラー服のレプリカ」「結城みさお1/6スケールフィギュア」などを、いそいそと買い込むことになる。
 さらに、中学の社会科の授業で、日本の伝統について調べよう、といった課題が出ると、男子生徒の8割は、
「オレ、人間国宝女子高生について調べるから‥‥」
ということになり、そうしたニーズの高まりに応えて、学習参考書にも、
「今年度の人間国宝女子高生のすべて」
が完備され、中学受験向けには、
「女子高生自由自在」
動物図鑑や昆虫図鑑などの図鑑シリーズには、
「女子高生図鑑」
学研「ひみつシリーズ」の、
「女子高生のひみつ」
といった、子どもが読んではいけないようなタイトルの本が出て、もうなんだかそろそろいいかげんよくわからないことになってしまうのだが、まあとりあえず、子どものうちから日本の正しい文化に親しめるのはよいことであり、
「将来の文化の向上発展の基礎」
として、「人間国宝女子高生」は、その本来の趣旨を正しく全うするわけである。
 いやあ、なんともすばらしいではないか。
 正しい女子高生に、栄光あれ!
 しらゆりのような女子高生、バンザーイ!
 日本の未来は、女子高生だ! ワーイ!
 というところで、それでは皆さん、ごきげんよう!

 ‥‥と思ったのだが、あ、いや、あの、念のために言っておきますとですね、これはまあ、一種のフィクションというか、そういうものでありましてですね、私個人としては、別に、あの、女子高生が好きとか、そういうわけではないんですよ、いや、ホント。ぜったい、断言しますよ。え? それにしては女子高生の理想像の描写に力が入っていたって? いや、違います、あんなの、別に、そんなことないですって、ホント、だから、あの、んーもう、ホントですって、セーラー服とか、別に、そんな、あー、だから、あの、信じてくださいよう。第一ですね、私、どっちかというと、年上のほうが、あ、いや、そういうことではなくて、とにかく、あの、ね、ホントに、あ、ちょっと、待って、待ってください、あの、ホントですから、あ、あの、待って、見捨てないで‥‥。




(注)露悪的な内容ですが、念のために言っておきますと、私はホントに女子高生好きではありません。いや、もう、ホントですって、ね、あの、だから、あ、待って‥‥。


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