カツ丼脱構築 |
2001/05/27 |
(1)表象としてのカツ丼 「腹減ったー、ちきしょー、カツ丼食いてえ」 「おばちゃーん、カツ丼大盛り!」 「よーし、今日はカツ丼おごってやっか」 「カツ丼? 遠慮しとく。最近脂っこいものダメなの、オレ。やっぱ年なのかねえ」 現代社会に生きるわれわれにとって、カツ丼とは、とりもなおさずこのようなものである。 「今日はちょっとお腹の具合が悪いから、昼はカツ丼食べよう」 こんな人はいないのである。 元気を持て余している高校生やら、やる気に満ちたサラリーマンやら、脂ののりきった中年男やらが、 「おばちゃーん!」 と大声で注文し、 「わしわしわしっ」 と豪快に食べる。 われわれはカツ丼をそのようなものとして了解しているのであるし、それこそがカツ丼の本質であるとして疑うことはない。 「当たり前ではないか」 と思うかもしれない。 「カツ丼は、そういうもんだろ」 だが、話はそんなに簡単ではない。少なくとも、現在という時代にあっては、そんなに簡単に済ませられる問題ではない。 上に述べたようなカツ丼を取り巻く情況が表しているのは、カツ丼とは単なる料理ではない、ということだ。単なる、トンカツと卵と玉葱と米とどんぶりの集合体、人間が食物として摂取してエネルギーや栄養を取り込む、そのためのもの、なのではない。 カツ丼とは、そこにさまざまな意味やイメージが付与された、ひとつの表象なのである。トンカツや卵、玉葱などに加えて、そうした意味やイメージをひっくるめて、そのすべての総体が、 「カツ丼」 と呼ばれているわけである。それらの意味やイメージが付与されてはじめてカツ丼はカツ丼たりうる、ということなのであり、それは同時に、われわれの認識なしにはカツ丼はカツ丼として存在し得ない、ということでもある。 にもかかわらず、である。 先ほどの、 「当たり前ではないか」 とおっしゃった御仁が端的に示すように、われわれは、あたかもカツ丼がそれ自体として存在するかのように考えているのではないか。カツ丼がまさにこのようなカツ丼であることに何らの疑いをも持とうとすらせず、カツ丼を無批判に享受しているのではないか。 「いかん」 のである。それではダメなのだ。 たとえば生物学的な性差でさえも文化的・社会的なジェンダー規範に基づいて構成されると論じられているような現今の思想的文脈にあっては、もはやわれわれには、カツ丼が社会や言語と無関係にそれ自体として存在するなどという素朴な実在論を抱くことは許されない。現実は言説によって構築されるのだ。 現代のポストモダン的状況、ポスト構造主義の思想的背景を視野におさめたうえで、あらためて、 「カツ丼とは何か」 という問いを発する必要があるのではなかろうか。 (2)ヒエラルヒーとしてのカツ丼 そうしてカツ丼にまつわる一切のイメージ、意味づけを捨象して正面から向き合ってみると、いきなり巨大が疑問が沸き起こってくることを禁じえない。 なにゆえ、 「カツ丼=トンカツの丼」 なのか。 そしてまた、 「カツ=トンカツ」 なのか。 カツにはチキンもビーフもハムもある。メンチもある。串もある。 カツそれ自体は、本来的には「豚=トン」と一対一の対応関係をなしているわけではない。 にもかかわらず、これらチキンやビーフをはじめとする錚々たるメンバーを差し置いて、トンのみが、あたかも自分こそが最もカツたるにふさわしい存在であるかのごとき傲慢さでもって、当然のごとくカツ丼の主役におさまっている。 チキンやビーフは、そうしたトンの横暴に抵抗するどころか、カツとしてご飯の上に搭乗することをあっさりあきらめ、それぞれチキンは親子丼、ビーフは牛丼という方面に活路を見出し得たのをいいことに、戦わずしてトンの前から遁走している。 いや、それ以前に、白身魚やアジやエビやイカやピーマンやナス、これらもカツにしようと思えばできるはずであるのに、なぜかカツではなく「フライ」になってしまう。生まれながらにして、カツたる資格を剥奪されているのだ。 同じ揚げ物として、みな兄弟であるべきにもかかわらず、一方ではカツとしてご飯の上に君臨する者があり、他方ではフライとしてキャベツの隣あたりへと周縁化されている者もある、そんな不平等がまかり通っているのが、現状なのだ。 つまり、ここには、厳然たる階級構造、ヒエラルヒーがあるといっていい。トンを頂点とする、トン至上主義、トン中心主義とでも呼ぶべき構造である。カツ丼とは、そうした料理界のヒエラルヒーを体現するものなのである。 さらに、それだけではない。 カツ丼というと、卵+玉葱+トンカツの丼を多くの人は思い浮かべるであろう。少なくとも、東京を中心/規範とする標準語的枠組みにおいては、この形式が一般的である。 だが一方で、すべてのカツ丼がこの形式におさまるわけではないことも、また確かである。 たっぷしの味噌に浸したトンカツを載せた丼や、キャベツを添えてソースをかけたトンカツの丼も存在するし、それが普通に「カツ丼」という呼称でもって通用する文脈も、また存在する。 だがそれらは、標準語的枠組みにおいては、あくまで「味噌カツ丼」「ソースカツ丼」でしかない。 「えっ、そんなカツ丼もあるの。わはは。ヘンなの」 そんな蔑みの視線を投げかけられてしまうような、言ってみれば二流カツ丼、亜流カツ丼の地位に押し込まれているのだ。 いや、亜流としてでも存在するだけ、まだましである。これらの背後には、 「マヨネーズカツ丼」 「酢味噌和えカツ丼」 「もずくなまこカツ丼」 などなど、ありえたかもしれないがしかし生まれ落ちる前に消え去っていったオルタナティブたち(無惨にも敗れ去った、カツ丼ならぬ「マケ丼」と呼ぶべきであろう)が、無限の広がりをもって横たわっていると言ってよい。 いわばカツ丼とは、卵+玉葱+トンカツを正統としてそれを頂点に戴き、その下に亜流カツ丼が、そして底辺には存在し得なかったマケ丼が位するというヒエラルヒーの表象でもあるのだ。 したがって、カツ丼には、先に述べた「トン中心主義」と、この「卵+玉葱+トンカツ正統主義」という二重のヒエラルヒーが内在化されていることになる。 われわれは、 「カツ丼、うまいうまい」 などと喜んで食べているだけであるが、そこにはこのような料理界における非情なまでの抑圧構造が体現されていることを認識せねばなるまい。カツ丼とは、きわめて政治的な料理なのである。 (3)イデオロギーとしてのカツ丼 それにしても、なぜこれほどまでにカツ丼は無前提にトンのカツでありなおかつ卵+玉葱+トンカツの丼、なのか。 「トンのカツが美味しいから」 「卵+玉葱+トンカツの組合わせが絶妙だから」 などという言明は、もちろん理由にはなりえない。 ヴィトゲンシュタインに端を発する言語論的転回の後を生きるわれわれにとって、そんな素朴に過ぎる説明が意味をなさないことは明らかであろう。認識の後に言語があるのではなく、言語こそが認識を構成する。われわれの感覚は、すでにして言語によって規定されているのだ。 したがって、トンのカツを、また卵+玉葱+トンカツのカツ丼を美味しいと感じるのは、それら自体が本質として美味しいのではなく、そうなるように言語的・社会的に構築されているからに他ならない。「カツ丼にトンのカツが使われているのは、カツ丼のためのカツとしてはトンのカツがいちばん美味しいから」などというのは、自己言及を繰り返しているに過ぎないのであって、トンカツ/カツ丼を美味しいと思うこと自体が、すでにしてトン至上主義/卵+玉葱+トンカツ正統主義の手の内にあると言ってよい。その意味において、われわれは、知らず知らずのうちに「カツ丼イデオロギー」を内在化している、とも言えよう。 それでは、いったいなぜ、カツ丼はトンのカツ+卵+玉葱の丼、なのか。 なぜ、チキンカツの丼ではなく、トンカツの丼なのか。 なぜ、味噌カツの丼ではなく、卵+玉葱+トンカツの丼なのか。 トンのカツ+卵+玉葱の丼であることに、どのような意味があるのか。 どのような理由から、そうなっているのか。 いったい、どうなんだ。エッ。なぜなんだよう。むぎー、知りたい。 しかしながら、結論から言ってしまえば、実のところ、 「そんな理由なんて、ない」 のである。 論理的に「カツ丼=トンのカツ+卵+玉葱の丼」であることの正当性を示すもの、根拠づけるものは、まったくない、のである。 強いて言えば、卵と玉葱だけに、 「たまたまそうなった」 という、その程度だ。 「それはおかしいではないか」 とおっしゃる正義派の人がいるかもしれないが、そういうものなのだから、しかたがない。 そうであるからこそ、つまり論理的な根拠などというものがないからこそ、それは、 「ヒエラルヒー」 なのだ。 「あなたはこれこれこういう正当な理由があるから、あいつより下にいるのです」 というような論理的な説明がすべてにわたって明示されるとしたら、 「はあ、そういうものですか」 というしかないのであって、そこには抑圧などというものはなくなってしまう。 たとえば、これが水と油の関係だとしたら、油が水の上に位置するのは、油のほうが水より比重が軽く、水のほうが油より比重が重い、という論理的かつ科学的な理由があるからで、それゆえにこそ、水は油の下にいるからといって、 「油のやつめ、今に見ておれ」 などと歯ぎしりしたりしないのである。水と油は円満に二層の構造をなすばかりで、そこにヒエラルヒーは存在しない。論理的な理由があれば、抑圧などというものが入り込む余地はない。根拠がないからこそ、そこに権力が介在せねばならないのである。 このように、「カツ丼=トンのカツ+卵+玉葱の丼」であることについての正当な理由・根拠が存在しないことは明らかなのであるが、とはいえ、だからといって話がここで手詰まりになるわけではない。 正当な理由そのものを示すことはできないとはいっても、しかしそれは、 「正当な理由がないというのに、なぜ『カツ丼=トンのカツ+卵+玉葱の丼』なのか」 についての探求を妨げるものではないからだ。 つまり、カツ丼=トンのカツ+卵+玉葱の丼であることを根拠づけるメカニズムは存在しないにせよ、そのメカニズムの存否に関わりなくカツ丼=トンのカツ+卵+玉葱の丼を存立せしめてしまったメタ・メカニズムが存在する、ということである。 では、そのメタ・メカニズムとは、果たして何であるのか。 もうそろそろこれを書いている私自身、何が何だかわからなくなってきているのであるが、しかしここまで来てしまった以上、最後までおつきあいするというのが義理というものであり、なおかつ人情というものであろうから、私もがんばって書くので諸君もがんばって読んでもらいたい。 さて、ヒントは、冒頭にあげた言葉にある。 「腹減ったー、ちきしょー、カツ丼食いてえ」 「おばちゃーん、カツ丼大盛り!」 「よーし、今日はカツ丼おごってやっか」 「カツ丼? 遠慮しとく。最近脂っこいものダメなの、オレ。やっぱ年なのかねえ」 これらが示しているのは、いったい何なのか。 言うまでもなかろう。カツ丼とは男の、しかも働き盛りの男の食べ物である、ということである。カツ丼とは、少なくともその理念型においては、子どもや老人、そして女性が食べるものではない。 これが何を示唆しているのかは、明らかなのではあるまいか。すなわち、カツ丼=トンのカツ+卵+玉葱の丼は、近代の男性中心的な資本主義社会、いわゆる家父長制的資本制と結託しているのではなかろうか。 (4)装置としてのカツ丼 フェミニズムの知見は家族が市場の外部にあることを発見し、労働力としての健全な成人男子が外部の家族から供給されることで近代資本制が成立しているメカニズムを解き明かした。 しかし、その成人男子を成人男子として認定するメルクマール、市場に参与できるか刎ねられるかの踏み絵となるものについての具体的な探求には乏しいようである。 ここに、われわれはそのメルクマールのひとつを発見したといっていい。資本制がそうした参入者を峻別するための機構はさまざまに存在するだろうが、先のセリフからも明らかなように、このカツ丼もまたその一つであることは、疑いない。 たとえば、 「おっ、タカシもカツ丼一人前食べられるようになったか」 この言葉は、個人が市場における労働力たりうるようになったことの序曲として響くのであり、これ以前の子どもは、市場が要求する労働力としての〈人間〉の要件に満たない、文字通り〈人間〉以前の存在でしかないといえよう。 一方、 「おれ、最近、カツ丼食べらんないのよね。どっちかっていうと、蕎麦のほうが‥‥」 これは、その労働力がそろそろ廃棄されるに近いことを表すものであり、もはやカツ丼を食べられない老人は、市場においては〈人間〉以後として見なされうることになる。 もちろん、 「ケイコちゃんは女の子だから、カツ丼じゃないほうがいいわよね、おうどんにする? それとも親子丼とかがいい?」 といわれる存在である女は、はじめから市場に受け入れられない〈人間〉以外の存在でしかない。 このように、カツ丼とは、連続性のある多様な差異を持って広がりうるさまざまな個人たちに対して、冷酷非情なまでの厳格さでもって、市場に適格たる〈人間〉か否かを分別するフィルターとして機能しているのだ。その意味で、カツ丼は近代資本制に組み込まれたギミックであるともいえよう。 そしてこれこそが、先ほどの問いかけ、 「正当な理由がないというのに、なぜ『カツ丼=トンのカツ+卵+玉葱の丼』なのか」 に対する答えである。カツ丼=トンのカツ+卵+玉葱の丼を存立せしめてしまったメタ・メカニズムとは、近代資本制だったのである。 近代資本制において、そのシステムの維持にとって適合的な装置として、必ずしもそれがトンのカツ+卵+玉葱の丼である必然性はなかった。可能性としては、チキンカツ丼、ソースカツ丼、もずくなまこハムカツ丼が、いや、あるいはカツの丼でも何でもない他の料理が現在のカツ丼の地位にあったとしても、何らの不思議はないのだ。 ただ、日本というこの社会において近代資本制が立ち上がるに際し、トンのカツ+卵+玉葱の丼たるカツ丼が、たまたま選び取られたに過ぎない。資本制とカツ丼の間に直接的な因果関係や親和性が存在しないこと、カツ丼と資本制の結合が一回限りの再現性のない出来事だったことは、日本以外のどこにおいても、〈人間〉の峻別装置としてカツ丼が採用されている社会が存在しない事実からも、明白である。 とはいえ、そうして資本主義システムの中で選び取られたカツ丼は、たとえ論理的な根拠がなかろうとも、それゆえにこそ特権的地位を与えられることになった。 俗な言い方をすれば、 「権力の犬に成り下がった」 ということである。 豚なのに犬とは、これいかに。豚が犬になるとは、上がったのか下がったのか果たしてよくわからないのであるが、とにかくそういうことである。 その特権性によって「卵+玉葱+トンカツ正統主義」がイデオロギー化し、さらに「トン中心主義」へと派生していった結果、現在のわれわれがそれを当然とするところの表象が生み出されていくわけである。 (5)幻想としてのカツ丼、その超克に向けて ところで、こうした事実は、トンのカツ+卵+玉葱の丼としてのカツ丼が近代資本制との相互依存的な関係性の中にのみ存在している、ということを示すものである。 近代資本制のシステムに不可欠な存在として装置化されたとはいえ、カツ丼それ自体の中に、そのギミックとしてのメカニズムが本質的に装着されたわけではない。 装置としてのカツ丼は〈人間〉を峻別するとはいえ、カツ丼それ自体は、他の料理から厳然たる区別をもって峻別されているわけではない。峻別されるわれわれの側の認識、近代資本制下に生きるわれわれの日常的な認識が、そしてその認識のみが、トンのカツ+卵+玉葱の丼であるカツ丼をして、他のカツ丼、他の丼、他の料理から区別、析出せしめているに過ぎないのだ。 その意味でカツ丼は、まことに曖昧な、あやふやな根拠しか持たない存在なのである。 「カツ丼とは幻想である」 と言っても過言ではない。もし仮に近代資本制というこのシステムが消滅したとしたら、カツ丼は一瞬にして解体してしまうということを、それは意味している(言うまでもないことだが、もちろんこれは単純な唯名論ではないのであり、カツ丼という食べ物が消え去ってしまうわけではない。カツ丼が、その特権的地位を剥奪され、単なる卵とじ玉葱入りトンカツ丼として、他のカツ、他の丼、他の料理が織りなす背景へと溶け込んでいくということである。) カツ丼の発明は、一説には大正10年に早稲田高等学院の学生中西某が考案したものが周囲の食堂に広まったとも、また大正2年に高畠某が東京で開催された料理発表会で世に問うたのが始まりだともいう。近代以前には存在しなかった料理なのである。 もちろんそれは、カツ丼が近代資本制のもとにあってこそ初めて成立しうる料理であったからに他ならない。 江戸時代にも、可能性としてはトンのカツ+卵+玉葱の丼は存在し得たかもしれない。しかし仮にそれが存在したとしても、そのトンのカツ+卵+玉葱の丼は、現代のわれわれがそういうものだとしている「カツ丼」としての表象をまとうことは不可能であったことだろう。 その意味でカツ丼とは、すぐれて近代的な料理なのである。 以上、われわれは、カツ丼が単に料理界の権力構造を体現するものであるばかりではなく、その根本のところで近代資本主義社会という人間社会の構造に根差したものであることを論じてきた。 ただ、注意してもらいたいのは、カツ丼をそのメカニズムの一部として利用している近代資本制というものが、何らかの実体をもって存在しているのではない、ということだ。近代資本制の秩序は、われわれが日々行っている差異化の実践、そのダイナミズムを通じてのみ維持されているものなのである。 背広姿のサラリーマンなどが何気なく、駅前の日の出食堂などで、 「おばちゃーん、カツ丼一つ」 などというとき、その営為の中に、知らず知らずのうちに、資本制の権力構造を物質的に再生産しているのだと言えよう。 だが、そうであるからには、カツ丼イデオロギーからの脱却、脱カツ丼、カツ丼の再構築への試みもまた、やはりそうした日々の営為の中で実践するしかない。 とすると、たとえば最近ときどき見かける、吉野屋のカウンターで牛丼をつついている女の子の存在などは、新たな時代の訪れを示す微かな予兆なのかもしれない。 |