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美少女フィギュアに見る日本美の真髄
2001/07/15










『エヴァンゲリオン』を機にマニアックなアニメの存在が社会的にも認知されつつある現状においてなお、それらアニメやゲームのキャラクターを立体化したフィギュア、なかんずく「美少女フィギュア」に対する世間の風当たりは強い。
「やだ、ヘンターイ、あんなのつくって、何が楽しいのかしら」
というのが一般の(とりわけ若い女性の)反応であるし、綾波レイ1/4スケール水着バージョンを所持しているのがばれようものなら、
「えーっ、あんたって、そーゆーヒトだったのお?」
と汚らわしいものでも見るような目つきをされることは確実なのである。

美少女フィギュアを取り巻くこうした否定的な雰囲気が醸成されてしまった原因は、ひとえにそれがアニメやオタク文化という閉鎖的な文脈のなかでしか論じられてこなかったことにある。日本文化一般から切断され隔離された結果、「なにやらわけがわからぬもの」という負の烙印を押されてしまったのだ。
しかし美少女フィギュアは、アニメやオタクだけのものではない。それ以前に彫像なのである。以下、本稿は日本の彫像史全体の流れを視野に入れつつ、そのなかに美少女フィギュアを位置づけ考察する試みである。それによって既存の美少女フィギュア論に一石を投じることができれば幸いである。

さて、周知のように日本の彫像は大きく五つの分野からなっている。すなわち、
(a) 仏像
(b) 近現代彫刻
(c) 土偶・埴輪
(d) 工芸
(e) 人形
である。仮に美少女フィギュアをこれら五つのうちいずれかに組み込むことができるとすれば、誰もがまず考えるのは(e)人形であろう。オタク青年小田久男21歳彼女ナシなどが朝起きて机のうえのアイリス1/8スケールにむかって、
「お・は・よ・う! アイリス! 今日も一日がんばるよー」
と話しかけている情景を思い浮べると、(a)〜(d)では違和感がありすぎるではないか。一見したところ美少女フィギュアは人形以外の何ものでもない(ただし一説によると埴輪は古代におけるフィギュアだという。ある博物館員はお気に入りの埴輪を「ボクのキューティーハニー」と呼んでいるそうだ)。

しかしながら、実は美少女フィギュアはその本質において決定的に人形とは相容れない。人形とは、本来的な字義からして、また凶事を移し負わせる呪物としてのルーツからいっても、あくまでヒトガタ、すなわちわれわれ自身を象ったものである。
しかるに美少女フィギュアとは、つまるところアニメやゲームのキャラクターの立体化以外のものではない。人形は精巧になればなるほどわれわれ生身の人に近づくが(幕末〜明治の人形師・松本喜三郎の生き人形などはその粋であろう)、美少女フィギュアの延長線上に存在するのは二次元のキャラクターであって人ではない。つまり美少女フィギュアは定義上、ヒトガタたる人形とは根本的に異なるものなのだ。美少女フィギュアは決して「オタクのための人形」ではないのである。

では人形でないとすれば、いったい何であるのか。それとも日本彫像史に美少女フィギュアを位置づけるというこの試み自体がそもそも誤りなのか。そこで注目すべきが、美少女フィギュアを特徴づける次の二点である。
一つは、一般にそれが非可動の固定されたものであるということだ。GIジョーのような、全身24ヶ所の関節が自在に可動、あなたのお好みのあーんな格好まで思いのままに表現可能! あっあっそんな恥ずかしいことさせちゃイヤ‥‥といったものは、ごく一部にすぎない。
もう一点はポーズである。固定されたポーズとして選ばれるのは、アニメやゲームの一場面あるいはポスターなどを直接・間接の典拠とするそのキャラクターの定番ポーズなのであり、その意味で美少女フィギュアは「立体化された絵」といってもよい。裸にエプロンのラムちゃん、などといった製作者(または購買者)の欲望に沿ったオリジナルなアレンジが加味されることはほとんどなく、この点は多くの美少女モノ同人誌がキャラクターに卑猥なことばかりさせているのと対照的である(このことからも、美少女フィギュアがオタク文化の視点からのみではとらえられないことは明らかだ)。

さて、これら二つの特色をふまえたうえで、もう一度、先の(a)〜(d)に美少女フィギュアを照らしあわせてみよう。すると思いもかけなかったものが浮かび上がってくることがわかるであろう。
そう、(a)仏像である。
生身の人とは異なるものを象り、定番の固定されたポーズをとる「立体化された絵」。そのような特徴を兼備した彫像は、仏像をおいてほかにない。鎌倉時代の慶派を最後に、近世の円空や木喰五行などの若干の例外を除いて美術史のうえからほとんど姿を消してしまっていた仏像彫刻。美少女フィギュアとは実は、そんな仏像の現代における復活、あるいは転生した姿だったのである。

そう考えると美少女フィギュアに対する先のような禁欲的とも呼べる態度にも納得がいくだろう。真宮寺さくらやセーラームーンのフィギュアに恥ずかしいポーズをとらせないのは、たとえばそれが宮崎駿アニメのキャラクターならばありうるように、
「だ、だめだーっ! ししし神聖なる宮崎アニメを、ぼ、冒涜するなんて! ‥‥うぅ、ごめんよ、クラリスぅ、ちょっとだけエッチなことを考えちゃったボクを許してぇ」
というわけではなくて、美少女フィギュアという存在そのものが、前世の姿である仏像に由来する聖性を無意識のうちにまとっているからにほかならないのだ。
そして当然のことながら、美少女フィギュアに受け継がれているのは聖性のみにとどまらない。仏像彫刻が内包していた日本的美の底流とでもいうべきものも、美少女フィギュアには脈々と息づいているのである。

仏像とはいうまでもなく、仏の像である。そこに顕れた美は「仏の美」である。
だが、ここで注意してもらいたい。その「仏の美」は、現実の「人の美」を反映したものではないことを。仏とはあくまで仏なのであり、どれほど人に似ていようとも、究極的には人と異なる存在なのである。
実際の仏像を見れば、一目瞭然であろう。たとえば東大寺の大仏を、平等院鳳凰堂の薬師如来を思い浮かべてみるといい。髭があるのに体つきは女性的にふくよかで‥‥といった男女融合した中性的な存在であることがおわかりだろう。ひとびとによって「仏」と観念されたものの姿は、人の肉体を超越した存在なのであり、その意味で仏像とは、人と異なる何ものかを写し取った像といえるのだ。

そして、美少女フィギュアにおいても、それとそっくり同じことがいえるのではないか。
美少女フィギュアに顕現された美とは何か。それは現実世界のかわいい女の子の美では決してない。美少女フィギュアの美少女とは、あくまでアニメやゲームのキャラクターなのであり、現実の女としての肉体を備えてはいないのだ。
そうである以上、美少女フィギュアの美もまた、人に似ながらもやはり究極的には人と異なる何ものかを写し取ったものについての美といえよう。すなわち、仏像の美も美少女フィギュアの美も「人の肉体とは異なる何ものか」というフィクションのうえに構築された美なのであり、その意味で仏と美少女とは構造的に等価なのである。

この美についての「フィクション性」について、もう少し掘り下げておこう。
われわれが仏の像を「美しい」と感じるとき、それは現実の人の肉体と比較して「人より美しい、まさっている」と思っているのではない。そもそも仏が人と異なる何ものかである以上、そんな比較は無意味である。われわれは、仏を仏としてそれ自体の中に独自の美を見出しているわけである。(それはたとえば、古代ギリシャの神々が、人の肉体のあり得るべき到達点として観念されていたこととは対極的であろう。かの神々たちは、人の肉体の究極の理想としての完全な筋肉美を備えることで、人を超越していたのだ。)
これと同じ「美の見出し方」の図式が、美少女フィギュアにも当て嵌まる。美少女フィギュア愛好者は、現実の人の肉体との比較のうえで美少女フィギュアに美を感じているのではない。美少女フィギュアを美少女フィギュアそれ自体として、そのものの中に美と愛を見出しているのだ。たとえば無表情で細身で髪の短い綾波レイに対して、
「オレは綾波にすべてを捧げるんだ!」
と豪語する鈴河好夫24歳の実際の女の子の好みが、
「童顔で可愛くって触るとぷにゅぷにゅしててセーラー服がよく似合っちゃったりなんかして明るくっておしゃべりで甘えんぼさんで髪は長くてストレートで‥‥」
だったりするわけである。

さらに仏と美少女は、「美」そのものの具体的な内実を共有してすらいる。
古代ギリシャの神々が人の生身の肉体の徹底的な肯定とその精錬の果てにあるものとすれば、仏の美は逆に、現実としてある生きた肉体の否定のうえに成り立つものであるといってよいだろう。
如来像がなぜあのようにでっぷりと太っているのかというと、その豊満さによって肉体を蔽い隠しているからである。仏にとっては、肉体の否定こそが超越を意味する。豊潤な脂肪に包まれることで、男女の別も年齢も、肉体にまつわるすべての業(ごう)も、無化されるのだ。
ところで、仏と称されるものは、こうした如来だけでない。悟りを開き完成され行き着くところまで行ってしまった如来のほかに、いまだ未完成の修行者としての菩薩も存在している。この菩薩を如来と区別するためにも、あるいはたぶん全部が如来のように豊満になって仏像界がデブの楽園と化してしまうのを防ぐためにも、菩薩は如来とは異なる肉体否定の方向性を打ち出す必要があった。
いわゆる菩薩像を思い浮かべてもらいたい。広隆寺や中宮寺の半跏思惟像、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像‥‥。どうであろう。そこに見出されるのは、肉体の生々しさを削ぎ落とし純化した、ほっそりとたおやかな姿ではないか。完成の極みにある如来像に対して、未完成の極限、いわば「完成された未完成」とでもいうべきこの菩薩像の姿、それはまさに、
「少年」
の姿であるといえるのではなかろうか。(ただし、本質として仏が男女の別を超越している以上、この「少年」は「男」を含意しない。あくまで完成された大人の対極としての「少年」であり、男女の別があらわになる以前の存在である。)
一方、美少女はどうであろうか。一般的にいって美少女フィギュアの素材として好まれる美少女キャラクターは不必要におっぱいが大きかったりして、そのあたりが、
「やあだあ、顔と頭は幼くても、からだは成熟した女がいいのね。ヘンターイ」
と往々にして判断されるゆえんなのだけれども、それは先入観に基づく偏見というものであろう。実際にはそれら美少女は胸以外は全体的に華奢で細身で、むしろ少年といってもいいくらいである。そう、ここでもまた、
「少年」
なのだ。
現実世界とは異なる世界に存在する美少女は、決して成熟した女の肉体を模倣しているわけではないし、それを指向しているのでもない。「美少女」は「美女」になることのないまま「美少女」それ自体として完結しているのであり、仏の菩薩がそうであったように、未完成のまま完成しているのである。そしてその「完成された未完成」の極限として観念されるものの姿は、「少年」なのである。
すなわち、美少女フィギュアも仏像も「未完成の美」の究極として「少年の美」を設定しているのだ。両者の基底には少年を理想とする(より正確にいえば、生々しい人の肉体に理想を求めないがゆえに結果的に人を超越した少年に撞着せざるをえない)日本的な美意識が存在しているのである。

さらに付言すれば「未完成」に美を見出だすこうした感覚は、たとえば歪んだ茶碗や散り際の花に美しさを感じる意識と通底するものであって、それは彫刻美術の枠を超えて、日本の美的感覚全体を特徴づけるものなのである。
かくのごとく美少女フィギュアには妙なる日本の美の真髄が秘められているのであり、ともすれば伝統的な観念を失いがちな現代人たるわれわれは、綾波レイ1/6スケール制服バージョンなどをつくりまた愛でることによってこそ、そうした日本的な美的感覚を確認し涵養し再生産しうるのではなかろうか。

以上、この論考をきっかけとして、今まで美少女フィギュア愛好者に対して、
「やだあ、ヘンターイ、キモチワルーイ」
と思っていたかたがたが考えを改め、
「まあ、偉いわ。真実の日本の美を追求しているのね」
という気持ちになってくだされば、望外の喜びである。



(注)正直言ってアニメ方面もフィギュア方面もよくわからないので、誤りがあったらごめんなさい。文中、仏像についての知見に関しては、橋本治『ひらがな日本美術史』(新潮社)を参考にしてます。

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