本読みホームページ





やおい少女の
ステップアップのために
『悪霊』
ドストエフスキー
新潮文庫







私なんぞはあまりよく知らぬのだが、ちょっと大きめな書店に行ったりすると、いつの間にやら、
「耽美小説コーナー」
「ボーイズラブコーナー」
が拡大していたりして、びくびくすることがある。
本を探して俯いて歩いていたら、知らず知らずのうちにそっちのコーナーのただ中に来てしまっていて、ふと気がついて、
「わー、違うんです違うんです、たまたま迷い込んでしまっただけなんです」
と、誰にともなく言い訳したくなる気分に駆られたりするのだが、そんなことを言うとそちらのファンの人には失礼だよね、やっぱ。

しかし、ときどき思うのだが、あのコーナーの前に立って本を物色しているそちらのファンの人に対しては、どのような態度をとっていいのだろうか。たとえば、本棚の角を曲がったらいきなりボーイズラブコーナーで、そこには15才くらいの色白でショートカットでセーラー服の女の子が、ほんのり頬を染めつつ、真剣なまなざしで手に取った本をチェックしていたとしたら、どうすればいいのだろうか。

これが「ハーレクインコーナー」であれば、
「なんだかちょっと気恥ずかしいんだけどなあ…」
という曖昧ながら好意的な視線を送ることができるし、あるいは「アダルトコーナー」であれば、
「まったくもう、好きなんだから」
という、まあ好意か嫌悪かは人によって見解のわかれるところだろうが、とりあえずひとつの姿勢をもって対処することができる。

しかし「耽美小説」となるとなあ、さあ困った。
「ぐふふ、幼い顔して、お前さんも、好きものですなあ」
ということではなさそうだし、かといって、
「恋に恋してるのね、きゃっ、ウブウブ〜」
というわけでもないし、それにまた、
「見てはいけないものを見てしまった…」
と、人間の暗部に触れてしまった焦りを感じつつ、あわてて目をそむける必要があるとも思われない。
そのあたり、うーむ、どうしたらいいのだろう。

などという話はさておき、そんなボーイズラブ系ノベルの主立ったところはことごとく読破しつくして、
「そろそろワタシも背伸びをしたい年頃なの…」
という少女に、ぜひとも読んでいただきたいのが、これ。
ドストエフスキー『悪霊』である。

あ、そこで目をこすってるあなた、見間違いじゃありませんよ。もう一度よく見てくださいよ。
ドストエフスキーですよ。
あの、ロシアの、文豪の、罪と罰の、ドストエフスキーですよ。
名前の最初のところの「ドス」のあたりがいきなりおっかなくて、
「これがひらがなで"どす"だったら、ちょっと京都風で好感が持てるのに…」
といわれたりして、とにかく名前を聞いただけで手はブルブル、足はガクガク、「ドス」のところでいきなり、
「ごめんなさいごめんなさい」
と謝ってしまって、おかげで「ドス」以下の部分がいまひとつ覚えられなくて、
「ドスコフスキー」
などと、作曲家と混ざった妙な名前で覚えちゃってる人もいたりして、あるいは高校の夏休みにがんばって『罪と罰』にチャレンジしたんだけれども、結局あの詰まった活字に3ページくらいで挫折して、ラスコーリニコフよりも先に罪悪感にさいなまれちゃったりしてる人もいるという、そのドストエフスキーですよ。

そんなおっかないドストエフスキーをここに持ち出してしまうのはどうかと思ったりもするのだが、しかしまあしかたがないのだ。
なにしろ、『悪霊』。
これがどうも、なんというか、いやー、てれるなあ、アヤシイのである。
物語は2人の青年、ニコライ・スタブローギンとピョートル・ヴェルホーベンスキーを軸に展開されていく。
あ、そこで、長いカタカナ名にくらくらしてるあなた、しっかりして。
で、そのニコライっていうのが、絶世の美青年なのね。頭もよくてお金もあって、もう何でもできちゃう。
ピョートルをはじめ、そのほかシャートフだとかキリーロフとかナントカスキーとか有象無象は彼のことを英雄として、神のごとく信仰しちゃうのね。
でも、ニコライにはそれが、苦痛でしかないんだよね。僕はふつうの人間なんだ、ほら、こんなに弱いんだよ…。ということを言いたいのだけど、でも彼の中に英雄を見ているピョートルとかは、それを許さないわけね。君は俺の英雄なんだ、神なんだ…、ああ…。
というその葛藤と反発、友情と嫉妬、愛憎と幻滅は、青年たちを破滅的な方向へと駆り立てていき、
「信じてくれ、僕の、ほら、このありのままの姿を見てくれ…」
「だめだ、違う、そんなのは俺のニコライじゃない、ああ、ニコライ、俺のニコライ…」
ということで、まあ私なんぞはよくわからないのだけど、そっちの方面が好きな人にはちょっともうたまらぬ設定なのである。

「この作品においてドストエフスキーは人間の魂を徹底的に悪と反逆と破壊の角度から検討し解剖しつくした」
ということなのだそうだが、そんな本質的なことには関わりなく、ドラマチックなストーリー展開を勝手な妄想でさらにドラマチックに仕立て上げながら読んでしまった人も多いのではないか。
これをきっかけに、
「ドストエフスキーって、名前の最初のところの"ドス"ってのがこわかったけど、でも、ふふふ、意外に…、きゃっ」
ということになれば、それはそれでよいのではなかろうか。

などと偉そうなことを書き連ねてきたが、もしかしたら、この『悪霊』って、そちらの方面では常識も常識、大常識のコモンセンスであって、これをモチーフにした小説やらマンガやらはあふれるほどあって、
「言っておきますけど、あたしは『悪霊』から、やおいに入ったんですからね」
ということだったりするかもしれないなあ。
もしそうだったりしたら、ごめんなさい。あやまります。
いやはや、やおいの世界は奥が深い。
トビラページに戻る あいうえお順読書ガイド目次ページに戻る
top back