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疑うことを知らないあなたに 『愛と死』
武者小路実篤
新潮文庫






今さら言うまでもないことだが、
「人を疑うこと」
は、よくないことである。何でもかんでも疑ってかかるものではない。
たとえば、せっかくタケダくんが、
「今日のクミコ、きれいだね」
と言ってくれたとしても、
「えっ、何、いつもそんなこと言わないのに、今日にかぎって、きれいだ、なんて‥‥、もしかして、もしかして」
などと疑って、
「ねえ、ちょっと、何か、隠し事があるんじゃない?」
などと詰め寄るような人は、そのうち嫌われてしまうに違いない。
たとえ世間の荒波の中ではうまくいかないことがあろうとも、人を疑わない純粋な心を、いつまでも持ち続けたいものである。

が、ここにひとつ、必ず疑ってかからなくてはならないものがある。
真実の仮面をかぶりつつ、大っぴらに虚偽をばらまいているものがある。
海千山千の猛者でさえ、ころりと騙されてしまうというものがある。
何か。
もちろん、これである。
小説である。
とくに、いわゆる、
「文学作品」
などと呼ばれて崇め奉られている奴、それが怪しい。

「小説の中には、現実以上に、真実が秘められている」
などということが、世間では、まことしやかに囁かれている。それこそが小説の存在意義、小説を読む意味である、と思っている人も多い。
だが、はたして、そうか。
まあたしかに小説の中には、いくばくかの真実が込められていることも多かろう。小説を通して、人と社会の真実に気づいた、という青少年も少なくはないであろう。
とはいえ、どちらかというと真実よりは虚偽のほうの含有率が高いのではないか、というのが私の考えである。
たとえば、小説の中では、しばしば男と女が、
「ひょんな事から」
知り合って、そのまま想い合うようになったりするが、これってどうなのか。
たいていの小説は、その知り合ったきっかけよりも、想い合った挙げ句の感情の高まりやら痴情のもつれやら別れやらのほうに主眼が置かれているので、つい看過してしまうのだが、冷静に考えてみるとどうにも納得ができない。その、
「ひょんな事から」
って、いったい何なのだ。

太宰治に「チャンス」という作品がある(注1)。太宰らしいバカな笑いが満載で、大好きな一編なのであるが、ここにも同じようなことが書いてある。(虚偽の多い太宰の小説中では、めずらしく人の世の真実に迫った言である。)
《よく列車などで、向い合せに坐った女性と「ひょんな事」から恋愛関係におちいったなど、ばからしい話を聞くが、「ひょんな事」も「ふとした事」もありやしない。はじめから、そのつもりで両方が虎視眈々、何か「きっかけ」を作ろうとしてあがきもがいた揚句の果の、ぎごちないぶざまな小細工に違いないのだ。》
「ひょんな事」
「ふとした事」
「妙な縁」
「きっかけ」
「もののはずみ」
などといったことから、なんだかよくわからないうちに、
《所謂「恋愛」が開始》
されるようなことは、断じてない、というのだ。
《心がそのところにあらざれば、脚がさわったって頬がふれたって、それが「恋愛」の「きっかけ」などになる筈は無いのだ。》

うむ、やはり、そうなのだ。
どう考えても、
「ひょんな事」
などというものは、作家が捏造した虚構に違いない。ナマの真実を押し隠す偽りの言葉なのだ。
「小説の中には、現実以上に、真実が秘められている」
というお題目を隠れ蓑にして、奴らめ、目立たぬところでこっそりズルをしてるのだ。まったく、油断も隙もありゃしない。

同様に、
「いつしか」
「いつの間にやら」
「ふと気がつくと」
などという一連の表現があるが、これらも曲者だ。
なんだか知らぬうちに、
「いつしか二人は深い仲になっていたのだった」
などということが、ままあるものであるが、その「いつしか」っていうのは、何なのだ、エッ。
そういう場合の「深い仲」というのは、これはもう、
「ひとつ釜の飯を食らう仲」
「肩を組んで歌を歌う仲」
「居酒屋で失恋話に朝まで付き合ってくれる仲」
といった意味ではなくて、まあ有り体にいえば、ベッドの上で組んずほぐれつ上になり下になりというか、まっヤダ、ワタシ上になったことなどございませんわ、というか、まあそういう方面の深い仲であることに違いないわけであるから、そうしたコトの性質上、どう考えても、
「深い仲になる以前」
「以後」
と、キッパリ区別されてしかるべきものなのであり、したがって、
「いつしか」
などというあいまい極まるものが介在する余地などどこにもあろうはずがない。
それなのに、である。あたかも空の雲が徐々に形を変えるように、日一日と季節が移り変わっていくように、滑るような流れるようななめらかさでもって、
「いつしか深い仲になっていたのだった」
などと、よくもまあ、いけしゃあしゃあと言えたものだ。こんな欺瞞に満ちた言い草はない。どの面下げて言いおるのだ。この、恥知らず。おととい来やがれ。

こんな表現が大手を振ってまかり通っているから、世の善男善女、なかんずく疑うことを知らぬ無垢でまっすぐな少年少女などが、
「僕も私も、大きくなったら、いずれ好きな人ができて、いつしか深い仲に‥‥」
などと夢見たまま、いつの間にやら大きくなって(深い仲になるのとは違って、大きくなるのは本当にいつの間にやらである)、ふと気がつくと(この場合も本当にふと気がつくのである)周りの友達などはそれぞれに深い仲であるところの相手を見せびらかしたり隠し持っていたりするようになっており、
「エッ、エッ、なんでなんで、どうしてワタシだけ独りなの‥‥」
と、いきなりうろたえる羽目になってしまうのだ。
現在、そうやってうろたえている最中であるかたは、まあしかたがないので奮励努力してもらうとして、これから将来うろたえることになるかも知れない諸君は、小説なんぞにうかうかと騙されてしまわないようにせねばなるまい。透徹した目でもって、つねに猜疑の念を抱きつつ小説を読む術(すべ)を、ぜひとも身につけねばなるまい。

ということで、武者小路実篤『愛と死』である。
武者というと何となく、
「友情」
「真実一路」
「真理先生」
という感じで、そのうえカボチャやナスだったりもして、
「相田みつをか武者小路か」
などと並び称されたりと、もうとにかく、実直素朴、清純誠実、飾らず衒(てら)わず、装わず繕わず、青い空の下あの山の向こうまで一直線、というのが世間一般の評価であり、たとえ一編も読んだことがなかろうと、
「武者さんなら、信用できる」
と、みんな何となく考えている。この『愛と死』も、素直にまっすぐに、飾らず衒わず、清らかな愛情の美しさを、また死を乗り越えて生きる人間の崇高さを高らかにうたいあげた名編、ということになっている。
が、はたして本当にそうなのか。
「そうなのか、って、キミ、そんなこと、当たり前でしょ」
と、疑うことを知らないあなたはおっしゃるであろうが、しかしそんなことを言っているから、まんまと引っかかってしまうのだ。奴らの思う壺になってしまうのだ。
透徹した目と猜疑の念をもって、もう一度この作品を読んでみなさい。もし『愛と死』が、あなたの言う通り「素直にまっすぐに、飾らず衒わず、清らかな愛情の美しさを、また死を乗り越えて生きる人間の崇高さを高らかにうたいあげた名編」であるとしたら、「僕」が洋行に発つ前日に、将来を誓い合った夏子と湘南へデートに出かけることにしたときに、《九時に東京駅》で待ち合わせて、それでいきなり、
《湘南のある海岸の宿屋の離れに自分たちを見出したのはそれから二時間ほどのちのことだった。》
というのは、どうしたわけなのだ。エッ、どうなんだ。

これが本当に「素直にまっすぐに、飾らず衒わず、清らかな愛情の美しさを、また死を乗り越えて生きる人間の崇高さを高らかにうたいあげた名編」であるとしたら、こういう場面に湘南のデートときたら、当然、波打ち際なんぞで二人とも裸足になって、
「待てー、夏子ー」
「早く早くぅ、村岡さぁん」
「ははは」
「きゃっきゃっ」
というような、明るい日の光の中、きらめく水飛沫、ということになるはずではないか。
それが、何としたことだ。
真っ昼間から、
「ある海岸の宿屋」
しかも、
「離れ」

エッ、おい、これのどこが、素直にまっすぐに、飾らず衒わず、清らかな愛情、というのだ。「僕」は、
《当分二人は逢えないと思うので、出来るだけ美しい気持ちのいい思い出を残したいと思った。》
なんて一見神妙らしいことを言っているが、この「美しい気持ちのいい思い出」が意味するところは、
「陽射しの中ではじけるような彼女の笑顔」
などという素直でまっすぐなものではなく、
「白昼の奥座敷の暗がりで打ち震える白い裸身」
という方面の「美しい」であり、なおかつ、
「ああ、青い空、爽快な潮風、すばらしい、気持ちがいいなあ」
といった清らかなものではなく、
「はあはあ、むふう、うぐっ、むひー、気持ちがいい」
という方面の「気持ちのいい」である、そういうものであるところの「思い出」であることは明々白々ではないか。
しかも、よく見てもらいたい、宿屋の離れに自分たちを、
《見出した》
である。出た。「見出した」。
例の「いつしか」「いつの間にやら」「ふと気がつくと」の一党ではないか。この「見出した」の中には、
「なんだかよくわからないけど、気がついたらここにいたんだ、僕たち」
というような、あの欺瞞に満ちた「いつしか」感、無垢を装った狡猾さが凝縮しているではないか。
疑うことを知らないあなたなどはついうっかりと騙されてしまうだろうが、よく考えてみれば、まさかつむじ風とともに天狗にさらわれて連れてこられたんじゃあるまいし、「見出した」などと言っておきながら、「僕」が確固たる意志と周到な用意と歴然たる下心をもって夏子をここに同道してきたことは、掌を指すがごとく明らかだ。
そのうえ、《九時に東京駅》で《二時間ほどのちに》宿屋というからには、当時の交通事情をかんがみるに、どこにも寄り道せず、湘南の海岸をのんびり散歩もせず、いわんや波打ち際で追いかけっこなど考えもしないまま、一直線にこの宿屋を目指してきたに相違ない。こんなことに一直線でどうする。

さて、いかがであろう。
これでもあなたは、『愛と死』が、「素直にまっすぐに、飾らず衒わず、清らかな愛情の美しさを、また死を乗り越えて生きる人間の崇高さを高らかにうたいあげた名編」というのか。ここに見られるのは、素直さでもなく飾り気のなさでもなく、また清らかさでも崇高さでもなく、ひとえに欲望を持て余す青年男子の鬱屈とした思い、そして偽りと策略に満ちた振る舞いではないか。(注2)
さらに付け加えると、「僕」ばかりではない、これに続く夏子の挙動も疑惑に満ちている。
血気盛んな「僕」が、欲望に駆られて《半分もう夫になった気で勝手に遠慮なくふるまって》も、
《しかし夏子は接吻以上は僕に許そうとしなかった。
「帰っていらしてから」あぶなくなると夏子はそう言った。》
おい、これは何だ。
この大人びた態度は何であるか。
ちょっと前まで彼女は、人前で宙返りして得意がっていたお子様だったはずではないか。いつの間に、こんな世慣れた物言いをするようになったのだ。だいたい、「あぶなくなると」って、何だよ、おい。

と、かくのごとく小説、とくに文学作品の中には、世間的に流布しているところの真実以上に、むしろ虚偽と欺瞞があふれているわけである。文学史上、最も飾り気のない作家のひとりである武者小路実篤の作品からしてこうなのであるから、他の作家、他の作品においてをや、である。疑うことを知らないあなたも、少しは目が覚めたであろうか。

ところで、この『愛と死』のその後であるが、せっかくの「僕」の緻密な策謀も夏子に軽くいなされてしまったので、二人は接吻と、それ以上のもうちょっとのあぶないこと、に及んだばかりで帰路に就く。そうして翌日出発した「僕」の帰国を待つことなく、夏子が病死したことは周知の通りである。
末尾、
《今でも夏子の死があまりに気の毒に思えて仕方がないのである。しかし死せるものは生ける者の助けを要するには、あまりに無心で、神のごときものでありすぎるという信念が、自分にとってはせめてもの慰めになるのである。
それよりほか仕方がないではないか。》
などと、諦観に達したような悟りきったような言葉で結んでいるが、しかしこの告白も眉唾ものだ。「僕」の本音は、どうせ、
「こんなことになるんだったら、あのとき有無を言わさず押し倒しておればよかった」
といった卑しい後悔でしかなかったのではあるまいか。
「そ、そんなことはないよ、違うよ、そんなこと言っちゃダメだよ」
と、この期に及んでまだ抵抗するような、疑うことをまだ知らぬかたがいるやもしれぬが、黙りなさい。
研究者にすらあまり知られていないことであるが、表題『愛と死』は、ひとつのアナグラムなのである。
「AI TO SHI」のアルファベットを並べ替えてみるといい。
ほら、どうであろう。
そう。
それが、「僕」の本音なのだ。
まあいやらしい。「O H SITAI」。「オーッ、Hしたい」。





(注)この文章は、以前に設けていたのだけどつまんないのでとっぱらった書評コーナーに載せていた「『愛と死』の疑惑」を元にしています。ところで、ときどき漫画家なんかに余白のところに「BGMは○○」とか何とか書いている人がいるので、ちょっとそのマネをしてみると、この文章の下書きをわーっと書いた日は、川上弘美『溺レる』(文芸春秋、1999)を読んで、森博嗣『今夜はパラシュート博物館へ』(講談社ノベルス、2001)を読み始めたところ(この中の「ゲームの国」という短編にアナグラムが出てくる)でした。われながら、思考回路が単純でなさけない。

(注1)『津軽通信』(新潮文庫)所収。太宰の作品は「暗」「明」「バカ」の三種類に分けられる(私の持論である)のだが、この作品は「バカ」系を代表するもののひとつである。

(注2)疑うことを知らない読者のかたがいるかもしれないので念のために言っておくと、『愛と死』は、そんな作品であるからこそ、つまり単なる「素直にまっすぐに、飾らず衒わず、清らかな愛情と生死の真実を、また死を乗り越えて生きる人間の崇高さを高らかにうたいあげた名編」じゃないからこそ、ステキでおもしろい名編なのである。


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