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超能力少年に 『フェルマータ』
ニコルソン・ベイカー
岸本佐知子訳
白水uブックス






最近はあまり流行らないが、かつては一世を風靡した、あの超能力。
20〜30代の人であれば、子ども時代に一度くらいは、スプーンを片手に「曲がれ曲がれ‥‥」と念じたことがおありではないか。
端的にはこの「スプーン曲げ」に集約される超能力ブームの立役者といえば、そう、ユリ・ゲラーである。
女性の皆様の中には、「ゆり」という名前の持ち主であったがゆえに、クラスの男子から、
「ゲラー」
などという屈辱的なあだ名をつけられ、
「おいゲラー、スプーン曲げてみろよー」
「げっ、おまえゲラーのくせにスプーン曲げらんねーのかよ」
「いんちきゲラーだ」
「いんちきー、いんちきー」
と理不尽ないじめを受けた忌まわしい過去をお持ちのかたがいるかもしれないが、
「やめて、そんな名前、聴かせないで!」
と耳を塞がずに、ここはひとつ、黙って聴いてもらいたい。

なにしろ、ユリ・ゲラーは、すごいのだ。偉大なのだ。
ややもすれば、彼の業績は、
「超能力でスプーンを曲げることができた」
ということだ、などと誤解されがちである。が、そんなことは所詮、枝葉末節に過ぎない。
スプーンを曲げるくらいなら、超能力さえ使わなければ、誰にでもできることである。私にもできる。そんなもの、言ってみれば、
「手を使わずにスパゲティを食べた」
「目覚まし時計なしで朝6時に起きられた」
「ティッシュ使わずに洟をかんだ」
と、たいした違いがあるわけではない。
ユリ・ゲラーのすごさ、偉大さ、すばらしさは、それよりもうひとつ上のレベルにある。彼が成し遂げたこと、それは、すなわち、人類史上初めて、
「スプーンが曲がることに意味を見出した」
これなのだ。これに尽きる。

ユリ・ゲラー以前には、スプーンが曲がることに、何の意味もなかった。
「タカシっ! このスプーン曲げちゃったの、あんたでしょっ、まったく乱暴な子なんだから! 罰として、お小遣いなしよ!」
とお母さんに叱られるのが関の山。スプーンを曲げるなんて、無能の者がやることであった。
それが、ユリ・ゲラーの登場以降、180度転回してしまうのだ。スプーン曲げはすなわち、「超能力」ということになった。
「ま、タカシ、このスプーン曲げたの、あんたなの? あーれー、まあ、ちょっとお父さん、これ見て、タカシが曲げたのよ。この子、超能力者かも」
などともてはやされる始末。スプーン曲げは、無能から一気に常能どころか超能ということになってしまうのだ。
「スプーンを曲げる」
などという、この一見してどうしようもないことにユリ・ゲラーがかつてない表象を与えたがゆえに、以来、超能力者は簡単にその能力を証明できるようになったのだし、一般の常能もしくは無能の人は、いたずらに「ひー、こわい」などという偏見を抱くことなく、超能力者の能力を確認できるようになったのである。
これが史上稀にみる一大転機と言わずして何と言おう。まさに、
「リンゴが木から落ちることに意味を見出した」
というニュートンにも比肩すべき偉業として称えられてしかるべきであろう。彼我の差は、ひとえに、ニュートンが万有引力というすべてのものが有する力へと一般化したのに対し、ユリ・ゲラーは超能の者が有する力である超能力という方向へ特殊化した、というただそれだけの違いに過ぎないのだ。
「ゲラー」と呼ばれた過去を背負う元少女の皆様も、これをきいて少しは心慰められたのではあるまいか。

まあそれはそれとして、このユリ・ゲラーほどに大きな社会的インパクトを与えられないにせよ、世に超能力の持ち主は多いはずだ。今回は、その中でも特に「超能力少年」の諸君に、1冊の小説をおすすめしたい。
ニコルソン・ベイカー『フェルマータ』である。

当然のことながら、この小説の主人公は、超能力者である。
しかも、かなり強大な超能力者である。なにしろ、時間を止められるのだ。これはすごい。
どのくらいすごいかというと、時間を止めるって、ほら、たしか『ジョジョの奇妙な冒険』のボスキャラの能力だったではないか。ふつうに使えば世界征服も夢ではないのだ。
そんな超絶の超能力者たる主人公アーノ青年が、その能力を駆使してやることといったら、これがまた、すごいのだ。もっぱら、
「女の子の服を脱がす」
これだけなのである。
もっぱら、というのは、これ以外に、
「脱がせてから中身を鑑賞する」
「服を着せる」
ということもするからなのであるが、しかしこの三つ以外には、まったく何もしない。
ある意味、
「なんという克己の精神」
と思わないでもないが、しかしまあこの三つだけでも、一部のかたたちからは、
「やだわ」
「ヘンタイ」
「根暗」
「女性の敵」
「虫ケラにも劣る」
などと、世界征服するよりも非難囂々の憂き目にあうことは目に見えている。
「ふん、こんなサイテー野郎、どうせロクなことになんないでしょ」

しかしながら、さらに肝心なことには、この女の子の服を脱がすことにすべてをかけた超能力者の物語が、最後にすてきなハッピーエンドを迎えてしまうことである。
これはこれでまた、
「うそー」
「信じらんなーい」
「正義はどこよ」
「神はいずこ」
と非難囂々に違いなかろうが、そうなのだからしかたがない。この手の能力の持ち主が、たいていは正義の徒に討ち滅ぼされたり、急速に老化して悲惨な最期を遂げたりすることを思えば、まさに奇跡的な結末と言える。

そしてそれが、超能力少年の諸君にこの作品をすすめる理由でもある。この結末から諸君が得るべき教訓は、もう明らかであろう。
そうである。将来、その能力を使って幸福を得たいのであれば、世界征服など志すのはよしたほうがいい。時間を止められる諸君ならば、もっぱら女の子の服を脱がす程度のことに、サイコキネシスやらテレパシーやら火炎放射やら電撃やらスプーン曲げやら、そこらへんのことしかできない諸君はそれに対応したつまんないことに情熱を傾けるべきである。
ただし、この教訓はむろん超能力少年にのみ有効なのであって、超能力少女をも束縛するものではない。
超能力少女の皆様の場合は、まあ世間には、
「ああ、女王様、ボクを支配してください‥‥」
という人も多かろうから、その人たちの期待に応えるためにも、夢は大きく、世界征服を目指してみるのもまた一興かと思われる。っていうか、期待しています‥‥。








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