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テロリスト志望の若者に 『ホワイトアウト』
真保裕一
新潮文庫





よく知られているように、物語には、
「フィクション」
と、
「ノンフィクション」
の2種類がある。
フィクションの物語とは、いわゆる虚構の物語のことで、夏目漱石『吾輩は猫である』、山本周五郎『青べか物語』、フィールディング『トム・ジョウンズ』などが、その例である。
ノンフィクションの物語とは、多かれ少なかれ実際にあった事実をつづった物語のことで、沢木耕太郎『深夜特急』、アーヴィング・ストーン『馬に乗った水夫』、ラピエール&コリンズ『さもなくば喪服を』などがある。(注)

「フィクション」「ノンフィクション」というこの区分けは、何も物語のみに限ったものではない。こちらはあまり知られていないことであるが、同じように人間にもやはり、
「フィクション的な人間」
と、
「ノンフィクション的な人間」
がいる。たとえば、源義経について語るとすれば、それはどうしたって、
「京の五条の橋の上で弁慶と対決」
「鵯越の逆落とし」
「勧進帳」
「大陸に渡ってジンギスカンになった」
というようなものにならざるを得ない。一方、その兄の源頼朝はどうかというと、
「いい国つくろう鎌倉幕府、1192年」
とか何とか、そうした歴史的事項の列挙に終始するばかりだ。
その意味で、義経は「フィクション的な人間」、頼朝は「ノンフィクション的な人間」であるといえる。同様にして、楠木正成、豊臣秀吉、西郷隆盛などがフィクション的な人間であるのに対し、足利尊氏、徳川家康、大久保利通などはノンフィクション的な人間ということになる。

さらに場所や施設といったものも、フィクション的なものとノンフィクション的なものに分けられる。
「古寺」「寄宿舎」「廃屋」「蔵」「屋根裏」「奥座敷」「スカートの中」などは、フィクション的である。これらの場所について考えるだけで、にわかに妄想の帆は風をはらみ、
「そのお寺には昔からの言い伝えが‥‥」
「女子寮の屋根裏にひとり忍び込んだ私は‥‥」
「白昼の奥座敷、緋色布団の中で、奥様は私の背中に指を‥‥」
などと、あることないこと、というか、ないことばかりなんだけど、それらがにわかにもやもやと立ち現れて、体は火照り、目はあらぬ方を泳ぎ、口元はしまりなく開いて、
「はあ、はあ」
ということになる。
それに対してノンフィクション的な場所というのは、「市役所」「税務署」「老人憩いの家」「ゴミ焼却場」「火力発電所」「ダム」といったものであって、これらの場所や施設が念頭に浮かんだが最後、にわかに想像の翼はしおれ、
「えーと、明日は燃えないゴミの日だったっけ」
「はあ、給料日まであと1週間か‥‥」
などと、垂れかかった涎をじゅじゅっとすすり上げながら、日常の現実を直視せざるを得なくなるのだ。

ただし、たとえば「学校」などのような場所は微妙なのであって、「小学校」「中学校」というと、
「近年の学力低下について申し述べると‥‥」
と何だかノンフィクション的な態度でもって厳粛に臨む人が大多数なのであるが、これが「高校」、なかんずく「女子高」などであった場合は、
「あ、やだ、先生、いけませんわ。ここは、教室ですわ‥‥」
「お姉さま、もう、あたしあたし‥‥」
などと、フィクション的なあらぬ妄想を膨らませてしまう殿方も多かろうというものである。
またフィクション的な場とノンフィクション的な場は画然としてきっぱり分かれているかというと、そうでもないわけであり、つい先ほど「小学校」に対して毅然とした態度で相対していたはずのかたも、
「男性教師(28)、更衣室で小学3年生の教え子の着替えを盗撮!」
「自宅からブルマ350枚を押収!」
といったニュースに接した途端、
「ぎゃっ、破廉恥ロリコン教師!!」
と、いきなり逆上し、
「どうせブルマ集めただけじゃなくて、あんなこともこんなことも」
「逆上がりの練習をするぞう、とかいって、ああしてこうして」
にわかに妄想の翼が大きくはためき、もう近年の学力低下問題などはどうでもよくなり、突如として小学校は、夢と幻が跳梁跋扈する一大フィクション空間と化してしまうのである。
恐るべし、破廉恥ロリコン教師。見方を変えれば、「破廉恥ロリコン教師」にはそうした、ノンフィクション的な場をフィクション的な場へと転回せしめる力がある、といえるのかもしれない。「破廉恥ロリコン教師」とは、フィクションとノンフィクションをつなぐ者、あるいはボーダーを超越する越境者なのである。

こうした越境者は、学校以外のノンフィクション的な場所/施設にもいる。
火力発電所やダムなどにおいては、それは、「テロリスト」である。
真保裕一『ホワイトアウト』などを読むと、よくわかる。ダムを占拠したテロリスト集団に対して敢然と立ち向かう発電所職員、という「ダイハード」のようなこの話。裏切りあり、逆転ありの、最後まで息もつかせぬ展開で、真冬の冬山の話だというのに体はカッと熱くなってしまうのだが、刊行当時、もっとも話題になったことのひとつは、その目の付け所だった。ダムである。
それまでダムといえば、
「ダムの水力発電はクリーンエネルギー」
「生態系や景観を破壊するダム、建設反対!」
「ぼくのおとうさんは、ダムではたらいています」
などと、どちらかというとノンフィクション的な施設として扱われてきたわけであるが、ここにいたって急遽一転、手に汗握りハラハラドキドキ、血沸き肉躍るアクション巨編の舞台となってしまったのだ。これを可能ならしめたのは、ほかならぬテロリストの存在である。
テロリストがダムを占拠しなければ、主人公の富樫は持てる限りの体力と知力を総動員することもなく、ヒロインの千晶は過去のわだかまりを胸に抱いたまま富樫と出会ってそのまま別れ、殺されてしまったダム職員のかたがたも死ぬことなく業務を続け、平穏な日常のひとこまが繰り返されただけのはずなのだ。テロリストがいなければ、ダムはノンフィクションの場であり続けたはずなのだ。その意味で、テロリストもやはり、フィクションとノンフィクションをつなぐ者なのである。そういえば9.11のテロにしたって、「小説のような現実」「フィクションのようなノンフィクション」だったではないか。

さて、そう考えると、ここでわれわれは重要な事実に気づかざるを得ない。
「A=B,C=B」
であるとき、
「A=C」
である、という単純にして明快、緻密にして隙のない論理の帰結により、今、次のことが明らかになったのだ。
すなわち、
「テロリストと破廉恥ロリコン教師は、同じである」
と。
わっ、そんなそんな。乱暴な。
しかし、その通りなのだから、しかたがない。「テロリスト」は「フィクションとノンフィクションをつなぐ者」であり、「破廉恥ロリコン教師」もまた「フィクションとノンフィクションをつなぐ者」である。となると、整然たる論理が導くところにより、「テロリストは破廉恥ロリコン教師」である、のだ。
「俺はテロリストだ!」
というのと、
「僕、破廉恥ロリコン教師なんだ‥‥」
というのとは、まるっきり同じ、なのである。ビンラーディンだかフセインだか、テロリストの頭目といわれている人も、
「すごい破廉恥なロリコン教師」
みたいなものなのだ。
「ぐひゃあ、ブルマ1万枚収集したんだって!?」
ということなのだ。
現今の緊迫した国際情勢の下、逼塞した社会状況の中、
「俺もテロリストになって‥‥」
「英雄として歴史に名を刻み‥‥」
「この手で世界を変えてやるんだ‥‥」
などと夢見ている若者が、あるいは読者諸君の中にもいるかもしれないが、いかがであろうか、本当にそれでいいのか、ちょっと考え直してみる気になっただろうか。
諸君がテロリストというものにどういう幻想を抱いているのかは知らぬが、端から見れば、それは破廉恥ロリコン教師と同じようなものなのである。
「あいつ、テロリストなんだって」
といわれるのは、
「ぎゃっ、やだ、あの人、破廉恥ロリコン教師なのよ」
と後ろ指差されるのと同じなのだ。
宗教のため、民族のため、イデオロギーのため、自ら犠牲になり肉塊となり塵となる程度の覚悟を備えているとしても、諸君は果たして、
「やーい、破廉恥ロリコン教師。しっしっ、あっち行け」
「ぎゃっ、やだ、ヘンタイ、フケツ、さわらないでっ」
「ちょっと、お父さん、塩まいて、塩」
と罵倒され蔑まれても耐えられるほどの、真に堅牢強固な意志を持っているのか。エッ、どうなのか。

ところで、ここでふと思ったのだが、逆もまた真なり、というわけで、
「テロリストは破廉恥ロリコン教師である」
とはすなわち、
「破廉恥ロリコン教師はテロリストである」
ということでもある。
となると、上に述べてきたことが、今度は破廉恥ロリコン教師に力を与えることにならないか。
「せせせ世間では、おおお俺のことを、破廉恥だの、ろろろロリコンだのというけど、お、お、俺は、テロリストなんだーっ、世界を変えるんだーっ」
と、開き直らせはしないか。
「今まで社会の片隅で生きてきましたが、これからはお天道様の下、胸を張って歩けます」
「破廉恥ロリコン教師の僕に、自信を与えてくれて、ありがとう」
ということに、なりはしないか。
あちゃー、しまった。いや、別に、そういうつもりでいったわけじゃ、ないんですけど‥‥。

あ、そうだ、いいことを思いついた。
前向きに考えてみようではないか。
とりあえずは、まあそうやって、破廉恥ロリコン教師が胸を張って生きるのも、いいということにしよう。自分は破廉恥ロリコン教師である!と日ごろから周囲に喧伝していれば、生徒も親も対応のしようがあるというものだ。暗闇で蠢く破廉恥ロリコン教師よりも、明るいおひさまの下で活動する破廉恥ロリコン教師の方が、まだましではないか。
そうして、破廉恥ロリコン教師が胸を張って生きられる社会となり、なおかつテロリストと破廉恥ロリコン教師が同じであるということになれば、テロリストを志願する若者は、テロリストになるかわりに、破廉恥ロリコン教師になればいいのだ。
そうなれば、テロに傷つき命を落とす人はいなくなり、テロリストになりたかった若者も自信を持って生きる道を見出すことができ、一石二鳥だ。
そうして、10年くらい経ったら、イラクあたりは「悪の枢軸」「ならず者国家」などと呼ばれるような爪弾き者ではなくなって、かわって「破廉恥ロリコン教師の国」ということになって‥‥。
‥‥やっぱり爪弾き者であることには、かわりないか。
っていうか、何が「いいこと思いついた」だよ‥‥。


(注)これらの作品を例示したのは、別に意味があってのことではありませんので、あしからず。ご存じないかたのために注釈しておきますと、『トム・ジョウンズ』(岩波文庫)は、エッ、わっ、そんな、岩波文庫なのに、こんなことしちゃっていいの!?というハチャメチャ野郎のトムがステキな、これぞイギリス小説!という感じの作品。『馬に乗った水夫』(ハヤカワ文庫NF)は、『白い牙』『野生の呼び声』とかで知られるジャック・ロンドンの評伝。いやはや、ジャック・ロンドンを読みたくなります。『さもなくば喪服を』(ハヤカワ文庫NF)は『パリは燃えているか』などで有名なラピエール&コリンズの最強タッグによる、男ならこれを読め!さあ読め!いま読め!すぐ読め!という硬派骨太ノンフィクションです。
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