本読みホームページ





鉄道マニアを撲滅したいあなたに 『時間のなかの子供』
イアン・マキューアン
真野泰訳
中央公論社、1995、\2136





鉄道が好きで好きでたまらぬ男性一般を指して、
「てっちゃん」
もしくは、
「テツ」(注1)
という。あるいは、鉄の元素記号からとって、
「Fe(エフイー)」
ともいう。いずれも蔑称、賎称である。
「わっ、見ろよ、アイツ、てっちゃんじゃねーの」
「きゃっ、やだ、ホント、やあねえ」
「やーい、テツ、テツ」
「石投げてやろ」
というふうに使用する。

何も知らない無垢なかたなどは、たかが鉄道が好きであるというくらいでなにゆえそのように蔑まれねばならぬのか不思議に思うかもしれない。
「鉄道好きな男の子なら、中学生のときに、いたわよ。別のクラスだったけど。たしかアサマさんか誰かの知り合いだったんじゃないかなあ。旅行の計画立てるときに、相談したって言ってたけど。別に悪い人じゃなかったと、思うわよ」
と、そう言うかもしれない。
いや、しかし、それはあなたがかのてっちゃんもしくはテツあるいはFe(まだるっこしいので本稿では以下「テツ」に統一したい)であるところの少年と、所詮「友達の友達」などという希薄な関係以上に踏み込まなかったから言えることなのだ。
あなたがテツの友達、ときどき飲みに行くような、一緒に旅行にでも行くような、仲のよい友達であったならば、そんなことは口が裂けても言えぬに相違ない。

なにしろ、ひどいのだ。
テツどもときたら、本当にひどい。
電車に乗ろうものなら、真っ先に先頭車両のいちばん前に駆けつける(いわゆる、「かぶりつき」である)。運転席の斜め後方あたりに陣取って、眼鏡の奥のその瞳がひたむきに見つめる先は、車掌さんの後ろ姿か窓の向こうに迫り来る景色か、あるいは彼方の一点へと収束していくまっすぐなレールであるのか。皆目見当がつかぬが、とにかくそこを動こうとしない。隣でチビッコがうーんと背伸びをして窓をのぞこうとしていても素知らぬ顔。一緒に旅行をしていても、会話も何もへったくれもない。
何らかの事情で先頭車両に乗れなかった場合も、あまりかわりがない。彼らは窓の外を見つめたまま、微動だにしない。話しかけても、黙ったまま、あるいは生返事だ。
いや、何も言わないなら、まだいい。ときには、同行者に向かって、
「お前も窓の外を見ろ」
と強要すらする。
「せっかく電車に乗ったのだから、窓の外の流れゆく景色を見たまえ」
と主張するのだ。
同行者がうとうとまどろもうものなら、叩き起こして、
「寝るな寝るな、もったいない」
と叫びだす始末。(注2)
旅行前に相談するのは可としても、連れ立って旅行に行くものではない。
いや、旅行計画についてアドバイスを求めるのも、往々にして考えものだ。
こちらは目的地までの安価で楽しいルートを探しているというのに、
「む、いかん、それでは山田線を3駅乗り残してしまうではないか。もったいない。どうせそこまで行くのなら、ここをこう回って、こうしてこう乗り換えれば、ほらね」
「えーっ、大丈夫? それってけっこう遠回りじゃないの?」
「いや、大丈夫。いま時刻表見るから。えーと、ここをこう乗り換えて、こうして、こうして、ここで10分の待ち合わせで、えーと‥‥、な、ここ見てみろ、23:18着。その日のうちに旅館に着ける」(注3)
あの、一般人には、それって苦行だよ‥‥。

ところで、ひと口にテツといっても、いくつかのカテゴリーに分類できる。
よく夕方のニュースなどで「ふだんは閑散としている駅も、今日は多くの鉄道ファンで賑わっています」と紹介されるときに出てくるのは、カメラを下げた鉄道写真派だ。
切符やら車掌さんの制服やら吊り革やら、とにかく鉄道に関するグッズを集めまくる収集派というのもいる。
それから、なんだかよくわからぬが、クモハやら200系やらトッポウやら、わけのわからぬ用語を口走っては喜ぶ知識派。(注4)
NゲージだかZゲージだか何だかよく知らぬが模型を買い集めてはレールの上を走らせ、「ドイツのメルクリン社は最高だ」などとつぶやいてる鉄道模型派。
そして、とにかく乗って乗って乗りまくり、すべての鉄道完乗を目指すのが、乗りつぶし派である。
社会的には、収集派のテツがたまに停車中の列車から運転席の座席を盗み出してしまったりしてローカル紙の片隅を飾ることもあるが、以上申し述べてきたところからも明らかなように、これらの中で最もタチの悪いのが、ほかならぬ乗りつぶし派である。
先に挙げたように、同行者の迷惑になるばかりではない。そもそも、人として、ダメである。心意気からして、間違っている。
たとえば、友人のS君などは、多摩の高尾山のケーブルカーに乗って、ケーブルカーの終点で降りると、山頂に向かうことはおろか、そのあたりを散歩することもなく、同じケーブルカーに乗ってまた山を下り、
「ようし、これで高尾山ケーブルカー、乗りつぶしたぞ。ぐふふ」
と満足してしまったりするのである。
高尾山山頂の立場はどうなる、と言わざるを得ない。かりにも高尾山神社として、いにしえから人々の信仰を集めている高尾山である。その高尾山に対する、あまりに不遜な態度といえはしないか。もしくは、大自然に対する冒涜といってもいい。ちっぽけな人間の分際で、こんな行為が許されていいものだろうか。
それなのに、こうしたエピソードは、彼らテツの間ではひとつの伝説となり、
「鉄の意志を持つ男」
などと称賛されてしまうのだ。何ということだ。こんな反社会的、非道徳的な行いが、許されていいものだろうか。

乗りつぶし派をはじめとするこうしたテツ各派が、それなりに一致団結しているのもいまいましい。たとえば各派のテツが互いに反目しあい、群雄割拠の派閥抗争の揚げ句に潰しあいをしてくれるのなら、こちらとしても溜飲が下がるが、どうやらそういうわけでもない。
あるテツは乗りつぶしをメインに写真と模型を片手間におこない、またあるテツは実際にはほとんど乗ることはないが模型とグッズ収集に精魂を傾けるなど、それぞれのテツが好き放題に鉄道好きを追及しているのだから、まったく始末に負えない。
そうして、友人のK君のように、これまで乗りつぶしを気軽に楽しんでいたくせに、ひとり暮らしになった途端、広い部屋を持て余して、テツ仲間を呼びつけては家中をはいつくばって玄関先まで鉄道模型のレールを張り巡らせて、
「いやあ、いまもしお隣さんが回覧板なんか持ってきてドアを開けちゃったら、どういう顔をして挨拶しようかと思ったよ。わはは」
などと、何の関係もない私にわざわざ電話してきたりするのである。
それでもって、久しぶりに赴任先から東京に里帰りして、せっかくだから夜は飲みにでも行こうかということにしたら、
「ちょっとその前に買物に行ってくるから」
と言い出して、何かと思っていると、飲みの席で、
「ふふふ、これを手に入れてしまった」
と、取り出したのが、くだんのドイツのメルクリン社のZゲージの鉄道模型で、先頭車両と客車2両で、
「2万円もしてしまった」
などと嬉々として話し出すのだ。まったく、どうにかしてくれ。

と、ことほどさようにテツどもに悩まされ、はらわた煮えたぎり、かくのごときテツどもなぞ、いっそのこと一網打尽に撲滅してほしい、巷のテツどもを何かの客車にでも乗せて、地獄の底か無限の宇宙の果てにでも送り出してほしい、と常日頃思っているあなた。これを読んでみなさい。
イアン・マキューアン『時間のなかの子供』である。
幼い娘を誘拐されて失ったある一組の夫婦の、崩壊と再生の物語。第1章、スーパーで娘がいなくなってしまうシーンは、幼い子どもを持つ親の人は夜眠れなくなっちゃうんじゃないかというような、そんな作品である。
で、そんな小説のどこが、テツを撲滅したい人におすすめしたい点なのかというと、ひとえに次のシーンがあるからなのだ。主人公スティーヴンが、別居している妻ジューリーのもとへ向かう途中、少年時代を回想するくだりである。

《子供のころに一度、彼はもっと大きな橋の上に父と一緒に立ち、列車が通過するのを待っていたことがある。遠くへ逃げてゆくレールを見つめていた彼は、「なぜレールは遠くなると一本になるの?」と聞いた。父は、わざと厳しい、真面目くさった目をして彼を見下ろし、それから目を凝らして、かなたの、問いと答えの合流地点を見やった。‥‥(中略)‥‥。スティーヴンの父は地平線から目を戻して説明した。列車は遠ざかるにつれてだんだん小さくなっていく。そこでその小さくなった列車が走れるように、レールのほうも合わせるのさ。そうしなければ、脱線してしまうからね、と。その直後に急行が、橋を揺らしながら二人の足もとを走り抜けた。当時のスティーヴンは驚くばかりだった。物と物との複雑な関係、無生物の利口さ、深遠なる調和。それらが相まって、列車が縮小するのに従いレールのゲージも寸分違わず狭まってゆくのだ。列車がどんなスピードで疾走しようとも、レールは間違いなく対応するのだ。》

どうであろう。
常日頃、常住坐臥、テツを憎みテツを忌み、隙あらばやつらめを殲滅したいと、殲滅し塵へと埃へと分解し路傍のドブにでも流してしまいたいと思っているあなたなら、きっと心に響いたはずだ。心の琴線が、ビビーンと震えたに違いない。
「そう、そうなのよ! ああ、もし列車とレールがこのように遠ざかるにつれて小さくなっていくとしたら、塵よりも埃よりも小さな極小の存在へ、量子と量子の間の目に見えない無限の中へと小さく小さく縮まっていくとしたら、どんなに素敵なことかしら! それだったら、どんどんどんどんテツどもを目の前の電車に乗せて送り出し、やつらは電車に乗れて嬉しい、あたしは貴様らがゼロに向かって限りなく小さくなっていくのが嬉しい、双方にとって嬉しいうえにテツが一掃できて万万歳!だというのに‥‥」
そう思ったあなたは、しかし、ぜひともここで本を伏せ、続きを読むのはよしたほうがいい。
さもないと、たいへんなことになる。生き恥をさらすことになるかもしれぬ。

物語の最終章、スティーヴンは、もう一度、妻のもとを訪れる。
いや、駆けつける、というべきか。3時間後の電車まで待つのももどかしく、保険業務の列車なら何とかなるのではと思い立ち、関係者以外立ち入り禁止の札を無視してどんどん構内に入っていき、子どもの頃は気後れしてどうしても声をかけることができなかった運転士さんに話しかけ(この場面は、そっけないけれどかなり感動である。思わずうるうるしてしまった)、すべてのテツどもが憧れる列車の運転席に乗り込んで、
《横よりも前方を見てるほうが、どれほど楽しいか知れなかった。土手やら住宅の裏庭やらをではなく、何マイルも続く鉄のリボンがくるくると飛び込んでくるのを、また、線路ぞいの諸設備がカーブしながらあわや衝突というコースで迫ってきて、最後の最後で正確に測ったぎりぎりのところを飛び去ってゆくのを、見る。スピードを増しつつ南ロンドンを走るうちに雪が降り始め、前方を見つめるスティーヴンの喜びをさらに高めてくれた。》
というのだ。
ここを読んで、ほんのわずかでも、
「電車のいちばん前に乗るのって、いいかも」
と思ってしまったら、そしてそう思ってしまった自分に気づいてしまったら、テツ撲滅論者として、これ以上の屈辱はない。



(注1)「テ」にアクセント。
(注2)脚色してあります。が、これはテツの話ではないけれどバスが好きで好きでたまらぬ知人のB氏は、バスに乗っているときにうとうとしていた同行者を揺り起こして、
「寝るなっ、もったいない」
と本当に言いました。
(注3)あなたがテツである場合、「山田線」「3駅乗り残し」「10分待ちあわせ」「23:18着」という言葉を手がかりに、旅行ルートを推定しようと思ったかもしれませんが、残念でした、いいかげんに言葉を並べただけです。ルートを仮想して書いたわけではありません。もうちょっと他のことに頭を使いましょう。
(注4)こうした知識の体系を、テツの人は好んで「テツ学」と呼んでいます。いやですね。
トビラページに戻る あいうえお順読書ガイド目次ページに戻る
top back