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ストーカーのあなたが
初心を忘れないために
『黒髪 他2篇』
近松秋江
岩波文庫






10年くらい前までは、
「ストーカー」
といえば、
「あ、あの、ストルガツキー兄弟の…」
などといわれていたものである。(注1)
「コアなSFマニアなのね…」
と思われるのがふつうだったわけだ。
あるいは、
「実は俺、ストーキングしてるんだ」
と告白しようものなら、
「ギャッ、ハダカで外を歩いたりしてるのね!ヘンタイ!」
なんて、ストリーキングと間違えられてヘンタイ扱いされてしまうのが関の山だったのである。
ストーカーにとってはまことに生きにくい、暗黒の時代が続いていたといえるだろう。

翻って、現在はどうか。
みなさんご存知のように、今や猫も杓子もストーカー。右を向いても左を向いてもストーカー。新聞や雑誌、TVをはじめ、マスコミはこぞってストーカーをもてはやし、幼児から老人まで、日本中ストーカーを知らぬ者はいない。
一過性のブームかと思いきや、日に日にストーカー事件は増加の一途なのだそうで、もはや一日としてストーカーという言葉に接しない日はないほどだ。長らく社会の日陰で細々と生きてきたストーカーは、ここにいたってついに立派な社会的地位を獲得し、さらには時代の寵児として、ストーカーにあらずんば人にあらず!といっても過言ではないほど、全盛を謳歌しているのである。

もうストーカーは、コアなSFマニアにも露出マニアにも間違われることはない。威風堂々、胸を張って、
「俺はストーカーだ!」
と生きていける時代になったのだ。

しかしながら、そんな時代であるからこそ、忘れてはならないことがある。歴史の教訓が示すように、驕れる者は久しからず、なのである。いい気になってマスコミに踊らされていると、いつの間にかストーカーの王道を踏み外してしまいかねない。
大学のときに同じ学科だった滝川ミズホさんの部屋に盗聴器を仕掛けたりゴミを漁ったりして、時代の先端を行くストーカー行為に明け暮れているあなたも、しばし足をとめ胸に手を当てて、慢心を戒め初心に立ち返る必要があるのではないか。

そんなときに読むべき本が、これ。近松秋江『黒髪』である。
近松秋江といえば、日本ストーカー史における中興の祖、ストーカー界の古典的カリスマとして、かつては熱烈な支持を得ていた文人・私小説作家である。最近の若手のストーカーの人は知らぬだろうが、昔のストーカーが胸のポケットに入れていた「ストーカー手帳」には、その3ページ目の「ストーカー憲章」の次のところに、この近松秋江の「御近影」が載っていたものだ。

そんな近松の集大成ともいうべきこの『黒髪』(さらにいえば、『黒髪』『狂乱』『霜凍る朝』のいわゆる〈黒髪三部作〉。これらは大正11年に発表された)に余すところなく描かれた、盗聴器も電話もない時代の素朴かつ正統なストーカー行為とそれにかける燃えるような情熱。ストーカーが当たり前になってしまった現代のわれわれが、ともすれば見失いがちであるところの、
「ストーカーとはかくあるべき!」
という原点を、それは思い出させてくれることであろう。

なにしろ、まず、ストーキングの相手が祇園の女なのである。玄人なのだ。本気で相手にしてくれるはずないではないか。手っ取り早く素人相手に軟弱なストーキングを楽しんでいる近頃の若者とは、根本のところで心の持ちようが違う、といってもいい。
そんな玄人の女に、ホントは嫌われていることにまったく気づかず、女のあとをつけまわし、探し歩き、訊ね廻り、ついに突き止めた女の実家の前に立って、耳をすませて中の声を聞こうとし、窓の格子の中に手を突っ込んで窓ガラスを開け、格子につかまって磨りガラスの上の透明なところから中の様子をのぞこうとし、門の脇に隠れて家人がちょっと外に出た隙に家の中に入り込んでしまうという、ああ、なんという地道な、そして胸躍るストーカー行為であろうか。盗聴器などを使って手軽に済ませているあなたは、ガツンと一発殴られるような思いを味わうに相違ない。

行為ばかりでなく、心に秘める思いも、並ではない。女にかかわるすべての人間が憎らしくなって、
《「できることなら、薄情な京都の人間の住んでいるこの地を人ぐるみ焦土となるまで焼きつくしてやりたい」》
《「いっそ自分の名も命も投げ出して、憎いと思う奴らをことごとく殺してやろうか、残らず殺すことさえできれば殺してやるんだが」》
なんて思ったりして、おお、あと一歩でストーカー殺人、それどころか八つ墓村的皆殺しである。
まさにストーキングに命をかけているのだ。
「いやあ、最近、ストーカーにハマっちゃって」
などと軽々しく放言しているあなたなどは、ぜひともこれを読んで心を入れ替えてもらいたい。

しかしまあ、『黒髪』に描かれた、そうしたストーカー行為やストーキング心理というのは、もしかしたら枝葉末節に過ぎないのかもしれない。この私小説の真にすばらしい点は、もうとにかく語り手の「私」がなさけなくてなさけなくてしかたがないことなのである。哀れなほど滑稽なほどなさけなくてカッコワルイ。
この手の私小説には、結局何だかんだといいつつも、語り手の「フフン」的ポーズ、気取りがほの見えるのだが、『黒髪』はもうひたすら徹頭徹尾カッコワルイ。どうにか格好をつけようとしているところまで見事に描写されていて、それがまたカッコワルイったらない。
まさに、カッコワルサの極北、とでもいうべきであろうか。女弟子の使った掻巻に顔を押しつけてくんかくんか匂いを嗅いだとか、姪を孕ませてしまってどうしようかウジウジ悩んだとか(注2)、そんな日本小説史を彩る絢爛たるカッコワルサの歴史は、ここでひとつの頂点に達したといっていいのではないか。そうした意味で近松秋江は、時代を拓くストーカーだったのである。

現在、ストーカーの大衆化が進んでいることは、それはそれで評価すべき点であるだろう。しかしそれは同時に、ひとつひとつのストーキングの質の低下を招きかねないものであることも、忘れてはならない。
近松秋江『黒髪』は、これからのストーカーが歩むべき道について、大切な指針を与えているのではないか。そんな気がしてならないのである。


(注1)A・B・ストルガツキー『ストーカー』(深見弾訳、ハヤカワ文庫、1983)
ちなみに、ここが本読みではなく映画ファンのサイトであったら、
「あ、あの、タルコフスキーの…」
というところであろう。
ただし、この「ストーカー」は「密猟者」の意味。謎の宇宙人が遺していった遺物を密かに持ち出して売り払って金儲けをしている人たちのことである。

(注2)いうまでもないと思うけど、田山花袋『蒲団』と島崎藤村『新生』である。

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