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初心にかえりたいあなたに 『にっぽん台所文化史』
小菅桂子
雄山閣出版、1991
(増補1998)





「初心にかえってがんばろう!」
という言葉を、よく耳にする。
皆さんも、これまでの人生の中で初心にかえったことは一度や二度ではないだろう。
「あ、ボク、週に一度は初心にかえってます」
という人も、多いのではないか。
「初心にかえらせたらスゴイよ、オレは」
などと自慢げな人も、いるかもしれない。

が、ちょっと待った。
その初心は、本当に初心か。
諸君がかえっているところの初心とは、真実の初心であるのか。
「初心にかえったかえった」と口では言い、態度でそれを示しているとしても、それがまごうかたなき正真正銘の「初心」であると、どうしていえるのか。
たとえば、仕事でミスをしたときなどに、
「心機一転、初心にかえってがんばるぞ!」
と心に誓うことが、ままあるかもしれぬが、しかしそれは本物の初心なのか。
真に初心に、すなわち入社した当時の新鮮な気持ちに立ち返っているとしたら、次の瞬間に電話がかかってきたりした場合に、
「えーと、社外の人に対しては、社内の人のこと呼び捨てにしちゃっていいんだよな。部長のことをカトウなんて言っちゃっていいんだよな」
と、指さし点呼の慎重確認をするのが当然ではないか。それが初心というものではないのか。

あるいはまた、大喧嘩して破局の一歩手前まで行った挙げ句に思い直して仲直りしたカップルが、
「もう一度、初心にかえって出直そう!」
と明日に向かって瞳をキラキラ輝かせた場合、それがまことの初心であるならば、
「ね、タカコちゃん」
「なあに?」
「手、つなごうか」
「‥‥えーっ、やだ。はずかしい」
「そう‥‥」
「‥‥」
「‥‥」
「モズヒコさん」
「‥‥ん、なに?」
「やっぱ、いいよ。手、つなごうよ」
「ホント?」
「‥‥モズヒコさん」
「タカコちゃん‥‥」
「‥‥(ぽっ)」
「‥‥(ぽっ)」
ということになって、しかるべきではないか。エッ、どうなんだ。

さらにまた、
「あーあ、最近、何読んでもつまんなくてさあ」
というあなたが、
「いっそのこと、初心にかえってみようと思ったんだ」
と手にする本が、なにゆえ夏目漱石であり、また宮沢賢治であり、ディケンズであるのか。
そうして、したり顔で、
「やっぱ漱石はスゲエよなあ。ホント」
などとうそぶくとき、それは本当に初心にかえっているといえるのか。エッ、どうだどうだ。

結局のところ、諸君がふだんかえっている初心は、偽りの初心、まがいものでしかないのだ。
真実の、まことの初心には、程遠いのだ。「初心」なんて遥か彼方、
「二心」
「三心」
「四心」
程度でしかないのだ。
この本を読めば、それがよくわかるであろう。
小菅桂子『にっぽん台所文化史』。
真の初心、初心の中の初心が、ここにある。

本書に引用されている『日用百科全書西洋料理法』(明治30年代後半)の、
「ハムのサンドイッチのつくり方」
を一瞥するといい。
「ああ、これが初心というものであったか!」
と、感動に胸を打ち震わせずにはいられぬであろう。
曰く、
《パンをうすく切り、一枚毎(ごと)の一面にバタを塗り次に蒸ハムの冷えたるものを薄く切り、パン二枚の間に挟む可し》
そして、これだ。
《但しバタ付けたる部を内にす可し》
そう、そうなのだ!
サンドイッチをつくるには、確かにバタ付けたる部を内にせねばならぬ! それこそ基本中の基本、初歩の初歩。そして初心中の初心なのだ。
真に「初心にかえる」というのであれば、ここまでかえらねばならぬのだ。嗚呼‥‥。

ということで、今後諸君が初心にかえるときは、ぜひこの本のこの部分をひとつの指針とすべきであろう。
そうして、たとえば近ごろ何を読んでもつまらぬと感じているあなたなどは、これを参考に真正なる初心にかえり、文字というものを知りそめし幼き日々に、忽爾として身の回りの世界が意味を持って立ち現れてきたあのときに、そして道を歩きながら目に映るすべての文字を読み上げては、
「て・ん・ぷ・ら。と・ま・れ。プ・リ・ン・ト。お‥‥ら・せ。し・ま・す。ビ・デ・オ。ファ・ツ・シ・ヨ・ン・ヘ・ル・ス。‥‥ねえ、ママ、ファッションヘルスって何?」
などと言ってはママを困らせていたあのころに戻ってはどうだろうか。(注)



(注)いつだったか池袋の駅前を歩いていたら、目の前を歩いていた女の子が隣のお母さんにこう尋ねていた。お母さんがこれにどう答えたか、雑踏にまぎれて聞こえなかったのが今でも惜しまれる。ちなみに私もファッションヘルスなるものがどういうものなのかよく知らない。

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