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レオナルド・ディカプリオの ファンのかたに |
『すべての美しい馬』 コーマック・マッカーシー 黒原敏行訳 ハヤカワepi文庫、2001 ¥880 |
どちらかというと自慢すべきことではないのだが、 「落ち着きのない本読み」 である。 あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、この小説を3章読んだら、あのエッセイを4編、つねに何冊も読みかけの本を抱えて、まことに落ち着きがない。 真面目な本読みの人には、たまに、 「信じらんなーい」 とあきれられたりもするのだが、これが性分なのだから、しかたがない。 別にあきて挫折したわけでもない本が、読みさしのままいつの間にか本棚の片隅に埋もれてしまうこともしばしばで、でも何かの拍子にふとその本が目に留まると、 「あ、そういえば、これ途中までしか読んでなかったんだっけ。どこまで読んだっけ」 とパラパラめくって読み出して、結局また3章くらい読んでそのままになる、ということも多い。 そんなわけで、テレビよりも本が好きなのである。 などというと、話がつながっていないように思えるが、だって、ほら、テレビって、自分が観てなくても勝手に話が進んじゃうから、本と違って、てきとうなところで、 「えーと、ちょっとほかの番組を…」 と中断して、2、3日してから、 「じゃあ、この前の続きを…」 などということが、できないでしょ。それが不満なのだ。 ビデオに録ればいいじゃん、というご意見もおありかもしれないが、しかし録画なんぞしようものなら、ぜったいに観ないに決まっている(録画した番組は観る気が失せる、というのはたぶん「カウフマンの法則」とか何とか、生理学的に定式化されているはずだ)。 映画にしても、映画館であの暗い中に閉じこめられてしまえば観念して終わりまでちゃんと観るけれど、ビデオを借りてくる、ということになると、1本をはじめから終わりまで落ち着いて観ることなどなかなかできるものではない。たいていは、 「あー、この映画、けっこうおもしろいのね。じゃあ今日はここまで。続きはまた明日にでも」 ということになり、返却する当日になって、 「ああ、しまった、これ、あと30分くらい、残ってた」 と、あたふたすることになる。 7泊8日、などといわれたところで、毎日が休みではないのだから、1週間の間にビデオ1本観るというのは、けっこうたいへんなのだ。 と、結局何がいいたいのかというと、そんなわけで、私、実は『タイタニック』って、観たことないんです。 などと言ったところで、まあこのホームページはハリウッド映画ファンのためのものではないので、別にたいしたインパクトのある告白ではないのだが、ともあれ、あの一世を風靡した映画、観てないのです。 なぜかというと、まあ一応それなりの理由があって、つまり、その、 「長い」 これに尽きる。 だって、ほら、ビデオ2巻。船が沈没するだけの話のはずなのに。長すぎる。 まあ観ていないのだから確かなことは何も言えないが、これがたとえば、 「船があわや沈没しそうになって、でも助かった」 という話であれば、「あわや沈没しそうになる」のハラハラと「助かった」のハラハラという行って帰っての往復分の楽しみがあって、その長さも少しは納得できるのだが、 「沈没して、終わり」 というのではなあ。これではまるで、 「空港がテロリストに占拠されて、終わり」 のハードアクション、 「禁じられた不倫の愛が成就して、終わり」 の悲恋物語、 「殺人事件が起きて、終わり」 の推理もの、などと同じことではないのか。解せぬ。これでは観る前から気持ちが萎えてしまうといっても、あながち非難されることではないだろう。 ということで、つまりこのことからも明らかなように、私は別にレオナルド・ディカプリオのファンでも何でもないのだが、まあそれはそれとして、このコーナーは趣味別嗜好別懇切丁寧に本のガイドをすることを旨としているのだから、さもレオナルド・ディカプリオのファンのような顔をして、レオナルド・ディカプリオのファンにすすめたい本を紹介しよう。 コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』である。 1949年のテキサス。16歳の主人公ジョン・グレイディは、親友のロリンズと語らって、国境を越えてメキシコへ。途中、年下の少年も加わって、愛馬を駆って荒野を超えて。 そうして行き着いた牧場で、ジョン・グレイディとロリンズは牧童として雇われるが、しかし…。 などと書くと、なんだかどこにでもありそうな西部劇のような感じなのだが、いや、もう、ちょっと、あんた、一度読んでみないさいよ、ホント、んーもう、これぞまことの、 「アメリカ小説!」 といった感じの小説なのである。そうなのである。 骨太、荒削りで、どこまでも広がる荒々しい自然を背景に、ときには暴力の嵐吹き荒れ、ときには切ないほど詩的で繊細な情景に心震え、そして何より、カウボーイ小説なのだ。これがアメリカ的でなくて何といおう。 そのうえ、訥々とした語り口が生み出す映像的な美しさも絶品。読みながら、頭の中で映画のように物語が展開されるであろうことは間違いない。 で、そんな頭の中で上映される映画の中では、主人公のジョン・グレイディの役柄には、何となくレオナルド・ディカプリオ、それもまだ少年だったころのレオナルド・ディカプリオがしっくりと当て嵌まるような気がする(注)。レオナルド・ディカプリオのファンのかたは、これを読みながら、自分だけのレオさまを存分に楽しむとよいであろう。 まあレオナルド・ディカプリオのファンではない私がついついレオナルド・ディカプリオを思い浮かべてしまったのだから、このことにまず間違いはないはずであるが、しかし人の思うことは千差万別、予測のつかないことも多々あるので、 「レオさまだと思って期待して読んだら、リヴァー・フェニックスだった」 「ブラッド・レンフロだった」 「藤田まことだった」 ということがあったとしても、あまり怒らないでもらいたい。 |
(注)ただし、現実のレオナルド・ディカプリオは、成長してブクブク肥え太ってしまってかわいくなくなったので、最近この話は映画化されたそうなのだけど、ジョン・グレイディ役はマット・デイモンになっている。 |