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恋愛でお悩みのあなたに 『論語新釈』
宇野哲人
講談社学芸文庫、¥1,200








「仁」
とか、
「礼」
とかいった、大文字のお題目が正面切って唱えられなくなってから、久しく経つ。とりわけ「仁」のほうなど、ふだんの生活の中では、その「仁」という文字にすら、皇族の名前と「仁徳天皇陵」くらいでしかお目に掛からない。

そんな時代においては、おなじみの『論語』も、いささか肩身の狭い思いをしているのではないか。
何しろ、『論語』ときたら、真っ向勝負の「仁」がテーマ。いかに「仁」たるべきか、「仁」を体現する君子たりうる道とは何か、といったことに、徹頭徹尾こだわっているのだ。
その姿勢たるや、2500年もの間、終始一貫、変わることなく、まあそのあたりのところがまことに潔い!一本気である!と言えなくもないが、しかしながら、
「今さら、仁なんていわれてもねえ…」
と、陰では煙たがられたりしてるんではなかろうか。古典や漢文の教科書の常連として盤石の地位を誇っているかに見えて、実は明日にでもポンと肩をたたかれて、
「キミ、もういいから、明日からは来なくていいから」
などと言われてしまう存在なのではないかなあ。

と思っておられるかたも多いだろうが、だがここで、「仁」という文字にもう一度注目してもらいたい。
「仁」という字はどう書くか。
「人」が「ふたり」と書くではないか。
「仁」をおこなう道とは、人がふたり、ともに生きる道、のことではないか。
すなわち、
「恋愛の道」
「カップル道」
にほかならないのではなかろうか。

仁義礼知信の「仁」は現代ではすでにお払い箱だが、カップル道としての「仁」には、まだまだ需要があるはずだ。
つまり、「仁」に貫かれた『論語』は、現代において、
「恋の指南書」
「恋愛のバイブル」
として、不死鳥のごとく甦った!と言っても過言ではないのではないか。

と思い直して、あらためて『論語』を開いてみると、なるほど、たしかにここには、恋愛についてのABCからXYZまで、ありとあらゆることが詰め込まれている。
たとえば、まず、なかなか恋人ができなくて悩んでいるかたには、自らの体験から、孔子は次のような的確なアドバイスを垂れる。
《子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし。》(注1)
「わしは自分に4つのことを戒めている。カラダめあてに、女の子に近づいたりせん。童顔で、セーラー服がよく似合って、そのくせおっぱいは大きくて、裸にすると「いやんおじさま、えっち」なんていうコじゃないとイヤだ、なんてこともない。ひとりの女にいつまでも固執することもないし、飽きたからってポイと捨てることもない」

すでに恋人がいる人には、
《子曰く、まづ其の言を行うて、而してのち、これに従ふ。》(注2)
「口先ばかりで愛してると言うだけではだめだ、証拠を見せなさい」
と申し述べ、あるいは、
《子曰く、学は及ばざるが如くして、なほ、これを失はんことを恐れよ。》(注3)
「おい、聞いたぞ。やっと、彼女、できたんだって? せいぜい、尽くすんだな。気い抜くと、逃げられるぜ」
と、ざっくばらんに心構えを説く。

彼氏がアフリカに赴任することになってしまったら、孔子に泣きついてみるといい。
《「唐棣(とうてい)の華、偏としてそれ反せり。あになんぢを思はざらんや。室(しつ)これ遠ければなり」子曰く、「未だこれを思はざるなり。それ何の遠きことかこれあらん。」》(注4)
「あーん、センセ、ねえ、聞いてっ。う、う、彼がね、ふえーん、海外に飛ばされちゃうの。それも、どこだと思う? カメルーンだって。どこよ、それ? わーん。わたしたち、もう終わりだわあ」
「おいおい、落ちつかんか。彼のこと、好きじゃないのか?」
「ぐす、ぐす、好き、好きに決まってんじゃない。だから、ふえーん、こんなに悲しいのよう」
「何を言う。終わりだわあ、なんて、愛しかたが足らんのだ。ホントに好きなら、カルメンだろうとカルメ焼きだろうと、関係ない。遠距離恋愛、けっこうじゃあないか。逢いたくなったら、なりふり構うな。思い切って、行っちまえ」
と叱咤激励してくれる。

もちろん、男のほうには浮気を戒めることも忘れない。
《子曰く、三軍は帥を奪ふべし。匹夫も志を奪ふべからず。》(注5)
「うふ〜ん」
「わっ、わっ、なんとも、魅惑的なおしり…、いやいや、いかんいかん、こんなものにたやすく惑わされちゃいかん。ヒップも志を奪うべからずじゃ」

最後に、ふられてしまったあなたにも、慰めばかりではなく、次を見据えた忠告を与えてくれるのが『論語』である。
《子曰く、人の己れを知らざるを患へず。人を知らざるを患ふ》(注6)
「ふえ〜ん、センセ〜、またふられちゃったのぉ。もう、ヒトシのバカバカぁ」
「よしよし、泣くんじゃない。お前が悪いんじゃあ、ないんだよ。こんなに、かわいくて、ピチピチで、いい子で。お前をふるような男は、どうせ、ろくなヤツじゃない。もう気にするな。それよりお前な、もう少し、男を見る目、養ったほうがいいぞ」


(注1)古典的な解釈は「孔子の心には、人が陥りやすい4つのわずらいがない。すなわち意(私意を持って事に臨むようなこと)がない。必(なんでも予定通りにおこなおうとすること)がない。固(一事に固執して融通の利かないようなこと)がない。我(ただ我あるを知って他人を考えないようなこと)がない」(子罕第九)
ちなみに、テキストはすべて、宇野哲人『論語新釈』(講談社学芸文庫)に準拠してます。いろんなところから『論語』は出てますが、少なくとも文庫本の中では、この『論語新釈』が、いちばん注釈・索引が充実していてわかりやすいのでおすすめです。ちょっと高くて重いんだけどね。

(注2)子貢が孔子に君子について尋ねたときの言葉。「君子は言わない先におこなって、おこなってから後に言うものである」(為政第二)

(注3)「学問するには、追っても追っても追いつけないものに追いつこうとするように、絶えず休みなく勉めて、なおその上にこれを失って追いつくことができなくはないかと恐れるようにしなければならぬ」(泰伯第八)

(注4)「唐棣の華〜遠ければなり」の部分は古詩。「スモモの花は無情なものだけれど、ひらひらと動いているところを見ると、情があるように見える。まして私は情のある人であるのだから、どうしてあなたを思い慕わないことがあろうか。ただ、いる場所が遠くに隔たっているから、思い慕っても会うことができないのだ」という意味。その詩を孔子が評したのが次の部分。「この詩の作者は、思い慕うけれど遠い、と言っているが、わしに言わせれば、彼はいまだ思い慕っていないのだ。もし本当に切に思っているのなら、どうして遠いことがあろうか」(子罕第九)
もちろん、恋愛の詩にかこつけて、仁のこと、道のことを言ってるわけである。同様のことは述而篇にもある。《子曰く、仁遠からんや。我仁を欲すれば、ここに仁いたる。》

(注5)「軍隊は強くて敵しがたいものだけれど、その大将は衆人の力をたのむものであるから、これを奪い取ることができる。一方、ひとりの力は微弱なものであるけれど、その志は己の内にあって他力をたのむものでないから、これを堅く守るならば、何者が来てもこれを奪うことはできない」(子罕第九)

(注6)「他人が知っても知らなくても、己を損益することはないのだから、他人が己を知らなくても憂慮はしない。ただ己が人を知らないことを憂慮する。人を知らなければ、善をとって悪を去り、正に従って邪に遠ざかることができないからである」(学而第一)
同じようなことはほかにも、里仁篇、衛霊公篇、憲問篇にも述べられている。
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