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オシラーのみなさんに | 「これからの栗拾い」 (『夜のある街で』所収) 荒川洋治 みすず書房、1998、\2,625 |
おっぱいとおしりは、どちらも、 「お」 の字が頭についていて、よく似ているけれど、その実情は大いに異なっていることをご存知だろうか。 おっぱいにおける「お」の字の場合、それを取り去ると、 「っぱい」 ということになり、何やらよくわからなくなってしまう。ところが、おしりから「お」を取り去っても、 「しり」 になるだけなのであり、その意味するところは変わらないのである。 これは、おっぱいの「お」の字が「おやじ」「おかぼれ」「おとこまえ」と同様、単語を構成する不可欠な要素としての役割を与えられているに対し、おしりの「お」は「おこと」「おさかな」「おかあさん」のように、丁寧の意を表すため、もしくは親しんでやさしくいうために事物や動作に冠する、いわゆる接頭語でしかない、ということによる。 したがって、一般的に、おしりの「お」は必ずしも必要欠くべからざるものとは認められていない。むしろ、おっぱいとはっきり区別するためにも、おしりに「お」をつけるのはよくない、シンプルに「しり」と呼ぶべき、という議論も一部ではなされているという。 「だがしかし」 と、オシラーはいうのである。 あ、オシラーというのは、おしりファンのことです。正確にいうと、一部のおしりファン。世間一般の、いわゆるおしりが好きな人たちとは一線を画しているおしりファンなのであります。 ワタクシは別にオシラーというわけではありませんが、あ、だからといって、おしりが嫌いかアンチおしりかと問われると、問い詰められると、詰め寄られると、 「えーと、えーと」 と目を泳がせずにはいられませんが、あ、でも、日本全国、いや世界中の真正おしりファンをさしおいて、ワタクシなんぞが「おしり好きです」などと放言するのはまったくの身の程知らずというか、いや、あの、えーと、そんなことはどうでもいいのであって、とにかく、 「おしりの「お」の字は大切だ」 と、オシラーは主張するのである。 しりとおしりでは、全然違うではないか、と。 そう、ここ、この「お」の字についてにこだわりこそ、オシラーが、世間のあまたのおしりファンと一線を画するゆえんなのであり、さらにいえば、世間のあまたのおしりファンよりもオシラーが「形而上的に」すぐれている、とオシラー自身が主張する際の論拠となっているものなのである。たった一文字だからといって、ないがしろにするようなことは、ゆめゆめあってはならぬのだ。 では一体、おしりは、しりとどのように異なるのか。 「試みに、おしりという言葉を、口にしてみよ」 と、オシラーはいうのである。 おしり。 しりの二文字に、単に「お」をつけるだけ。たったそれだけの操作なのに、にわかに、あのおしり特有の丸み、やわらかさ、存在感が、際立ってくるではなかろうか。 「お・し・り」 そう口ずさむだけで、われわれは、えもいわれぬ温かな気持ちに包まれる。ほっこりと心が安らぐ。 おそらくこれは、おっぱいファンが、つらいとき、悲しいときに、 「おっぱい」 と口ずさむだけでちょっと幸せになれる、というのと、似たようなものではなかろうか。あ、いや、あの、これもですね、ワタクシは別におっぱいファンというわけではないので、いや、ファンではないのか嫌いなのかアンチおっぱいなのか、どうなのか、エッ、エッ、と問われると、問い詰められると、詰め寄られると、 「えーと、えーと」 とまたしても目を泳がせてしまわざるをえないのですが、ま、とにかく、そういうわけなのであって、これがおしりではなく、単なるしりであったとしたら、 「しり」 と口ずさんだところで、 「あ、そう」 と、言葉はむなしく響くばかり。「しり」という言葉には、するするっと抜けて、どこかに消えてしまうような、安定感のなさ、存在感の薄さしか感じられないのだ。 おしりと、しり。素人目には同じとしか思えない両者の間には、真正なるオシラーの目にだけに見える、深く大きな断絶が、懸隔があるのだ。オシラーにとって、「お」のない「しり」は、点睛を欠いた画竜、魂を欠いた仏像のようなもの。言葉としてのおしりの本質は、おしりの「しり」よりもむしろ「お」のほうに宿っているといっても過言ではないのである。 あ、念のためにいっておきますとですね、「過言ではないのである」などと、そのように、オシラーが思っている、ということですよ。ワタクシではなく、オシラーの人たちが、そう思っているのです。ワタクシはオシラーではないので、そのあたり、よくわかんないのですが。 まあとにかく、そんなわけでオシラーは、 「しり」 という言葉にはまったく興奮しないのであるが、たとえば、東北地方の民家で祀られている、 「おしらさま」 には、ほのかな親しみを感じてしまう。 かつて子どもだった頃は、それが何かはわからないぬに、 「オシロスコープ」 という言葉に、そこはかとなく惹かれていた。 「おしうり」 にも、なんとなく愛しいような惜しいような気持ちを抱いてしまう。 神様なんて信じないけれど、古代エジプト神話に出てくる、 「オシリス神」 だけは、ちょっと敬いたい。 娘が生まれたら、名前は、 「しおり」 にする、と決めている。 一方で、当然ながら、「シリウス」や「シリンダー」には、何の興味も沸いてこない。 それが、愛すべきわれらがオシラーの姿なのである。 世間一般のいわゆるおしり好きが、「おしり」ではなく「しり」でも、それどころか「ケツ」でも「おいど」でも「臀部」でも「ヒップ」でも何でもいい、どうせ同じものなんだからさ、などと達観している(オシラーの言葉を借りていえば、形而下にとどまっている)のとは違い、オシラーは「おしり」という言葉、奇跡的な文字の連なり、いろは47字からわずかに選ばれし3文字がつむぎだす妙なる音楽的な響きに、どうしようもなく魅せられてしまうのである。 ワタクシは残念ながらオシラーではないので、そのあたりの機微はよくわかんないのだけれど、とにかくオシラーは、そうなのである。 と、以上、長々とオシラーの気持ちを代弁してしまったのだが、このコラムの本題はもちろん、本の紹介である。そんなオシラーのみなさんには、どんな本がおすすめなのか。 おしりに関する基本的な文献のひとつに、東海林さだおの「ケツについての分別」(文春文庫『ショージ君の男の分別学』所収)がある。人体の表側と裏側を比べてみると、さまざまなものがくっついる表側に対して、裏側は「もう悲惨といっていいくらいなにもない」。 《だが! その荒涼とした裏側に、厳然と、悪びれず、静かに豊かに堂々とその存在を主張しているものが一つだけあった。 それがケツなのだ! なにもない貧しく淋しい荒野にただ一つ、豊かに聳える巨大な二つの山塊! ‥‥ 小ざかしく、チマチマと散開する表側のもろもろのものを、すべて烏合の衆とも思わせてしまう朴訥、沈黙の巨塊! その量感、奇をてらわぬそのデザイン。 そのいずれをも、ぼくは好ましくいたわしくいとおしく思うのである。》 などと、世間一般のいわゆるおしりファンならば、思わず激しく首肯してしまう内容なのであるが、しかしなあ。いかんせん、「おしり」ではなく「ケツ」なのである。せっかくのおしり礼賛も、これではまるで台なしだ。風情も何もあったもんじゃない。と、オシラーはいうのである。オシラーにとって、「おしり」と呼ばれないおしりは、おしりではないのだ。 それでは、ケツでもヒップでもない、おしり関連の文献にはどんなものがあるかというと、 ・山田五郎『百万人のお尻学』(講談社+α文庫) ・池田満寿夫『お尻の美学』(講談社) ・ジャン・ゴルダン『お尻とその穴の文化史』(作品社) といったあたりが、よく知られたところである。が、ま、この程度なら、何もオシラーではないワタクシなんぞがことさら取り上げずとも、オシラーならば誰でもご存知であろうし、また先の「ケツに関する考察」に比べると、これらはいささか輝きに欠ける。 「われわれが求めているのは、こんなものではないんだ!」 などと、真正なるオシラーのみなさんに怒られそうだが、いや、待ちなさい。そんなオシラーのみなさんにもあまり知られてはいないのではないか、という素敵なおしりエッセイを見つけてしまったのだ。 詩人の荒川洋治のエッセイ集『夜のある町で』(注)所収の「これからの栗拾い」。 これである。 その冒頭が、いいのだ。すばらしい。ここだけ見ても、どうしてタイトルが「これからの栗拾い」なのかわからないと思うが、それについては実際に本書を手にとって確かめてもらうとして、ここにはその冒頭部分だけを引用したい。まさにオシラーのための、オシラーによる、オシラー宣言である。オシラーのみなさんはもちろん、オシラーではない人も、ぜひ声に出して朗読してみよう。 《あんまり、おぼえていてほしくない。 女性のお尻が好きだ、と書いた。 ぼくはたしかにそうなのである。お尻のほうから、見るだけでなく、あれこれするのが好きなのである。なんというのか希望が夢がふくらんでくるのである。お尻で前途が輝いてくるのだ。女性のお尻は、若いのに限るが、すべすべして気持ちいいし、さわられたお尻のようすは無視と応答がこもごもあって、よい。道を歩いていくお尻を、うしろから見るのだっていいものだ。全部が女性のお尻であったらと、この世界に対して思う。》 ああ、実に、すがすがしい。胸の中をさわやかな風が吹き抜けていくような気がする。 こんなに素朴に、そして力強く、おしりが好きだ、といえるなんて。これが、魂の自由、というものなのか。 思わず空を仰いで目を閉じ、「全部が女性のおしりである世界」を想像してしまう。 ああ‥‥。 おしり、おしり、ああ、おしり‥‥。 と、オシラーのみなさんは思うのではあるまいか。 ワタクシはオシラーじゃないので、よくわかんないのだけれど。 |
(注)本書に収められている「キュロット問題」というエッセイも、たいへん男心にうったえるところがある。いや、むしろ女性のみなさんにこそ読んでもらいたい一編である。 |