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農耕土着民族の末裔に 「宇野(浩二)さんとの魚釣」
井伏鱒二
『井伏鱒二文集 第2巻 釣の楽しみ』所収
ちくま文庫





血、について考えている。
先祖から連綿として受け継がれてきた「血筋」のことである。
私自身のこの身体に、流れている血。
私事ではあるが、唐突ながら今回、私の家のことを少し書いてみたい。

「私は平家の末裔です」
「うちは武田氏の末流にあたります」
という人が、たまにいるが、あれは妙なものである。「末裔」などという言葉には、なにやら胸躍る、ロマンチックな響きが宿るが、しかしその言葉の内実を丹念に腑分けすると、実体はないに等しい。
平家の末裔を例にとる。
平家の公式の滅亡が12世紀末の壇ノ浦の戦いとして、以来8世紀、800年が過ぎている。100年あたり3代ずつ代替わりしていれば(少ない見積もりであるが)、24代。1代くだるごとに半分になっていった平家の「血」は、24代後の今日の「末裔」に至って、わずか2の24乗分の1、すなわち、
「1,677万7,216分の1」
でしかない。パーセントでいえば、
「0.00000596%」
である。
残りの99,99999404%は平家でない人の血なのであり、つまり「平家の末裔」といいながら、彼らは実質「平家の末裔ではない」ということになる。
いや、そんな計算をしなくとも、日本の家の場合、子どもに恵まれなければ平気で他家から養子を迎えるのが通例であるから、現在の「平家の末裔」には平家の「血」が一滴も流れていない、ということだってありうる。

遠い昔の平家の人々、あるいはその子や孫ならば、あるいは須臾のはかなさに終わった栄華を懐かしみ、あるいは仇敵・源氏への憎しみに燃えていたかもしれない。だが現在の「平家の末裔」たちは、そんな先祖たちの熱い思い、深い苦悩とは無縁のところにいるのではないか。
たとえば平家の末裔の娘が、ある日、父に向かって、
「パパ、今度紹介したい人がいるんだけど」
「どういう人なんだい」
「ミナモトくんっていうんだけど」
「‥‥その人は、もしや‥‥」
「そう、源氏の末裔なんだって」
ということがあったとしても、
「くわーっ」
と逆上した挙句、
「源氏の者め、わしの娘に手を出しやがって!」
と、家宝の刀を握り締めて、おもてに飛び出す、ということは、まずないであろう。
「ほう、そうか。うちは平家の末裔だからなあ。釣り合いがとれて、ちょうどいいんじゃないか」
などと理解を示す方が、余程ありうる話である。
現在の平家の末裔にあって、平家の「血」とは、その程度のものでしかない。

いや、何も平家の末裔に難癖をつけているわけではない。
わが身に引き比べて、
「何と、気楽なことか」
と思うだけである。
私自身は、先祖から受け継いだその「血」に、今ひどく悩まされているのである。
話を、私の家のことにもどす。私の父、母である。
むろん、父が平家の末裔で母が源氏の末裔、というわけではないが、それと似たようなものであるといっていい。
父が伝えるところによると、父は、
「騎馬民族の末裔」
そして母は、
「農耕土着民族の末裔」
なのである。

実質は平家と遠いところにあるような「平家の末裔」と違い、こちらは単なる形だけではない。明らかに、父の中には騎馬民族の、母の中には農耕土着民族の「血」が、息づいている。
父が述べるところによると、それはたとえば、サアこれから出かけよう、という場合などに、色濃くあらわれる。
父の方は、
「パッと出かけられる。準備なんて、ないようなものだ。だから、騎馬民族。ことあらば、サッとテントを畳んでドドッと移動する騎馬民族の血を引いているのだ」
対する母の方は、
「いつまでも用意に時間がかかる。荷物も多い。つまり、移動を前提としない生活を営む、定住者である農耕民族の血を引いているのだ」
一泊の旅行でも、騎馬民族の末裔たる父の荷物が着替えのパンツ1枚であるのに対し、農耕土着民族の末裔たる母の荷物は大きなバッグにも収まりきらない。(この仮説によると、たとえば「初デートに出かける前の十代の女子」などは、ほぼ間違いなく農耕土着民族の末裔、ということになるではないか、という疑問を持つかたがいるかもしれないが、おそらくその通りなのだろう。)

そんな、騎馬民族の末裔たる父と農耕土着民族の末裔たる母の間に生まれたのが、私である。
私自身は、では、何の末裔と称するべきか。
子どものころは、これはもう疑いようもなく、騎馬民族の末裔である、と胸を張ることができた。同じ騎馬民族の末裔どうし、父と一緒になって、農耕土着民族の末裔たる母が出かける用意を終えるのを待っていたものである。
しかし大人になった今、ふと気づくと、ああ、なんてことだ、どうやら騎馬民族よりも農耕土着民族の血が勝っているらしいのである。

証拠がある。このごろ、
「出かけるときに、時間がかかる」
のである。ああ、これが農耕土着民族の証ではなくて、何であるか。
そのことを特に意識するのは、季節でいえば春と秋である。暑くもなく寒くもないこの時期にかぎって、出かける前に、
「えーと、何を着ていこうか」
と、さんざん迷ってしまう。
「今日は暑くなるかなあ」
「案外、肌寒いかなあ」
「何着ていけば、ちょうどいいかなあ」
「これ1枚だと会社の中で寒かったりして」
「これだと雨が降ったときに困るしなあ」
「この上着は昨日着たんだっけ」
「仕事先のあの人と打ち合わせだから、あんまりてきとうなかっこうはダメだよなあ」
「あー、でもタバコくさいところに行くから、これを着てきたくはないし」
などと大いに逡巡してしまうのである。
春と秋といえば農耕においては、田植えや種蒔き、あるいは収穫というきわめて重要な季節である。この時期において、かくのごとく農耕土着民族的な振る舞いが顕著になるとは、おお、私の中に流れる血がなさしめるわざに違いない。

いや、けっして、農耕土着民族が嫌だというわけではない。しかし、私はいちおう、騎馬民族の末裔として、育ってきたのである。ところが、この年になって、いきなりのこのあからさまな農耕土着民族の末裔ぶり。
「女として育てられてきたのに、実は男だった」
というようなものである。
里見八犬伝の犬坂毛野も、このように苦悩したのであろうか。
性同一性障害のように、「民族の末裔同一性障害」などというものは認められないのであろうか。
今、私は、アイデンティティ崩壊の危機を迎えている、といっても過言ではない。

以上、無用のことながら私事について書いてみたが、そろそろ本の紹介をせねばなるまい。
今回は、農耕土着民族の血のざわめきに悩む私にとって、ひとつの理想を指し示すような作品を挙げてみたい。
ちくま文庫から出ている『井伏鱒二文集』。その第3巻「釣の楽しみ」に収められている、
「宇野(浩二)さんとの魚釣」
である。
周知のように、井伏の釣り随筆にはかねてより定評がある。子どものころの司馬遼太郎も、夢中になっていたという(注1)のだが、この作品自体は、特筆すべきほどのものではない。文庫本でわずか5ページほどの、作品というより小文である。
しかし、これに出てくる宇野浩二が、もうたまらなくステキなのである。農耕土着民族の末裔には、ある種の澄んだ憧憬を抱かせる。

戦後何年かのある日、《釣を実地を知りたいから連れて行ってくれと云う》宇野浩二が、井伏と一緒に海釣りに出かける。
ある社の編輯記者によると、
《「宇野先生が釣をされたことは、宇野先生としては空前絶後の壮図だったでしょう」》
なのだそうである。
すなわち、釣りに関して宇野はまったくのド素人。超素人。素人と呼ぶことすら、はばかられる。
農耕土着民族の血を受け継いだ、たとえば私どものような者であれば、出かける前になって、
「えーと、えーと、何着てこう」
「海の上は、寒いかな」
「日が照って暖かいかな」
「これにしようかな」
「いや、でも濡れるといけないし」
「えーと」
「えーと」
と、大いに思い悩むは必定というシチュエーションである。

宇野先生は、どうだったか。
井伏鱒二の格好は、こうである。
《当日は朝から曇っていたので、私はセーターに厚手のジャンパーを着て行った。》
常識的である。(注2)
ところが、宇野浩二ときたら。
《宇野さんは和服にインバネスを着てソフトを被り、黒繻子の股引に白足袋をはいていた。》
もちろん、
《誰が見ても、海に出る釣師の服装ではない。戦後、この手の服装は陸でも珍しい。》
そんな格好をして、平然としている宇野浩二。
「あ、ヤバ。間違った格好、してきちゃったかも」
などと焦ることなど微塵もなく、山の如く動じざる宇野浩二。
《船頭に手をとってもらって船に乗ると、しずかに天幕の苫のなかに入り、きちんと座蒲団の上にかしこまるのだ。》
ああ、農耕土着民族の末裔として、この境地に憧れない者がひとりとしていようか。

周囲の者も、そんな超然とした姿を前にしては、黙らざるを得ない。
《船頭はそれを見て腑に落ちないような顔をした。宇野さんに一もくも二もくも置いたというように見えた。》
《この威勢のいい船頭も、インバネスの宇野さんには最初から最後まで何も云わなかった。》
農耕土着民族の血が騒ぐままに、海釣りに何着ていこうかさんざん迷ってしまった私は、恥じ入るほかない。

ちなみに、その後の宇野の行動も、ふるっている。
《宇野さんは寒そうにインバネスの袖を掻き合わせ、釣とは関係のない森鴎外の作品について話しだした。『山椒大夫』と『阿部一族』について話した。》
《宇野さんは二尾か三尾か釣ると、後は糸を海に放りこんだままにしてインバネスの袖を合わせ、先輩作家の作品についてまた話しだした。》
《桜井さんも私もそれには構わず釣の方に身を入れた。‥‥(中略)‥‥。それでも宇野さんは鴎外や徳田秋声の作品について話しつづけていた。》
さすが、「文学の鬼」である。
みんなが全然相手にしないのも、いい。和服姿の文学の鬼が釣り船に乗ってみんなに相手にされないでいる、というさまが、いかにも絵になっている。

「あわわ、あわわ、何着ていこう、あわわ、もう時間がない」
と焦る朝などに、この宇野浩二の姿を思い浮かべると、束の間、心が平静にかえる。
あ、だからといって、宇野浩二を見習って和服着ていくわけにはいかないのだけれど。





(注1)
司馬遼太郎「井伏さんのこと」(文春文庫『以下、無用のことながら』所収)には、
《‥‥「ユーモアクラブ」という、半同人制らしい商業雑誌をみつけ、井伏鱒二という名を知った。この邂逅は、芥川龍之介の「杜子春」の中の少年が仙人に会うようなはなしだと自分ではおもっている。》
とある。
ちなみに今回は、ちょっと司馬遼太郎っぽい感じで書いてみました。なかなか難しいです。

(注2)
そういえば太宰治「富嶽百景」でも、太宰と井伏がふたりで三ツ峠に登る際、井伏は《ちゃんと登山服着て居られて、軽快の姿》だったのに対し、太宰は《私には登山服の持ち合せがなく、ドテラ姿であった。茶屋のドテラは短く、私の毛臑は、一尺以上も露出して‥‥云々》とある。
[2006.5.7]









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