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熱しやすく冷めやすい人に | 「邪宗門」 芥川龍之介 『地獄変/邪宗門/好色/藪の中』所収 岩波文庫ほか |
世間的には、 「鉄のような心の持ち主」 というと、 「何者にも妨げられぬ確固たる人」 「一度決めたことを最後までやり抜く人」 「志操堅固な人」 ということになっている。 しかし、よく考えてみると、おかしいではないか。騙されている気がする。 「鉄のような」 という語は、それ自体が必ずしも「固い」ということを含意しない。 単に、 「鉄のようである」 といっているわけなのであるから、もしかしたらそれは、 「鉄のような色である」 「鉄のような密度である」 「鉄のような電気伝導度である」 「鉄のような地殻存在率である」 ということであるかもしれないではないか。 そして、なかんずく、 「鉄のような比熱である」 といった場合、それはつまり、約0.11cal/g・℃の比熱である、ということなのであり、そうなるとそれは石やアルミニウムなどよりはずいぶん小さな比熱を持つ、ということなのであり、要するにわかりやすく言えば、 「熱しやすく冷めやすい」 ということになるのだ。 それって、 「確固たる」 「最後までやり抜く」 「志操堅固」 と反対ではないか。おかしいではないか。鉄の女サッチャーは、移り気な女だったとでも言うのか、エッ、どうなんだ、どうしてくれるんだ! と詰め寄ると、 「えーと、その場合の鉄は、実は同位体で…」 などと、わけのわからぬ理屈を持ち出してくるから、自然科学というやつは厄介だ。 「わかりやすく言えば、中性子の数が違うんです」 などと言われてしまったら、はあそうですか、と引き下がるしかない。 まあそれはさておき、そんな鉄のような比熱の心の持ち主たる熱しやすく冷めやすい人におすすめしたいのが、この作品。 芥川龍之介「邪宗門」である。 熱しやすく冷めやすい人というのは、そのカーッとなりやすい性質上、えてして大作、大長編に挑戦しがちである。 ドストエフスキーを読むとなったら、比較的手軽な『貧しき人々』などではなく、いきなり『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』、トルストイなら『クロイツェル・ソナタ』ではなく『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』というわけだ。 しかしながら、熱しやすく冷めやすい人とは同時にまた飽きっぽいため、読んでいるうちにどうでもよくなって、途中で投げ出してしまうことも多い。したがって、熱しやすく冷めやすい人が通った後には、 「殺人を犯す前のラスコーリニコフ」 「浮気をする前のアンナ」 「まだ未亡人になっていないスカーレット」 などが、屍となって累々と横たわることになる。 だが、そんな人でも「邪宗門」なら大丈夫だ。 平安京を舞台とした一大伝奇ロマン! 貴族の若殿が想いを寄せる儚げな姫君には、妖しいヒミツが!? 折しも帝都には愚民どもを惑わす摩利の教がはびこり人心は紊乱! 新聞小説として連載されたこの作品は、序盤から芥川としては破格の大長編を予感させ、伏線張りまくりのストーリーと予期せぬ展開に思わず手に汗握ってしまい、ああ、ついに邪教の頭目・摩利信乃法師と帝都仏教連合の大激突、幻魔大戦の勃発か! おお! というお話である。 で、この作品のどこが熱しやすく冷めやすい人におすすめなのかというと、他ならぬその「おお!」のところで終わってしまうからで、有り体に言ってしまえば、そう、未完なのである。 これがたとえば水のように比熱が大きく熱しにくく冷めにくい人には、そろそろおもしろくなってきたところで突然の幕切れとなってしまい物足りないこと甚だしいだろうが、熱しやすく冷めやすい人にとっては、このくらいがちょうどいい。 それでもどうしても物足りない! ここでは冷め切れなかった、という場合は、石川淳『至福千年』(注)あたりを読むといい。適当なところで熱も冷め、累々と横たわる屍の山の上に、新たに、 「正気を失わないままの与次郎」 などが付け加わることだろう。 |
(注)石川淳『至福千年』(岩波文庫、\600)。幕末の江戸を舞台に、千年王国の実現を企てるアナーキスト加茂内記や穏健派マリヤ信仰教団の松太夫らが繰り広げる秘術乱れ飛ぶ幻魔大戦!
おお、この人も死んじゃうのか!という激しい展開が魅力です。 |