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北村薫の《私》に対抗したい人に | 「震動する家」 フョードル・ソログープ (『筑摩世界文学大系』所収) |
夙に知られたことであるが、北村薫の《私》シリーズの《私》に関しては、賛否両論がある(注1)。 いや、「両論」といっても、ほとんどが「賛」で、ときどき「否」がいる、という程度であるから、たとえて言えば、大学のサークルなどの触れ込みで、 「男女半々」 というので意気込んで入部したら名簿に載ってるのは男女半々だけど実働部員は大きく偏っていた、というようなもの、というか、いや、ぜんぜん適正なたとえではないような気がしてきたが、まあとにかくそのような具合の「賛否両論」であって、しかもそのうえ、「賛否」双方の意見が必ずしも噛み合っているわけでもない。 というのも、一般に「賛」派の人が、キャラクターたる《私》の性格に対して、 「こんな透き通った感性を持ちたい」 「こんな彼女が欲しい」 「娘がこんな子であったら」 といった共感や愛情を寄せているのに対し、「否」派の人は「この《私》の性格が嫌い、共感できない」というよりも、それ以前に《私》というキャラクターの造形のありかた自体に対して、いまひとつ納得していないからである。 曰く、 「できすぎ」 「こんな女の子いるわけがない」 「なんだかつくりものめいていて気持ち悪い」 「だいたいこんな、本好きの男子が夢見るような女の子を考え出すなんて、作者の趣味がチラチラ垣間見えるようでいやらしい」 「それになんだ、この娘は魂魄だけで生きているのか。身体というものが感じられないではないか。それでなんだか知らぬが何もないままに、いつの間にか大学卒業しちゃって、《うーむ、世の中というのは、なかなかうまくいかない》などと他人事のようにうそぶくヒロインだなんて、エッ、何だよ、それ」 「そんないかにも透き通ったようなことばかり並べているから、たまに身体を書くと『盤上の敵』みたいな、たいへんなことになる」 云々というのである。 私自身の意見はどうかというと、まあ私自身といっても書き手である私とこの文中の一人称である「私」とが一対一の整合性を持っているかどうかは正直言って別な話なのであって、これら一連のコラムを読んで、書き手たる私のことを、 「まあ、女子高生が好きなのね」 「脚フェチなのかしら」 「縄ファンなのだわ」 と思われても、えーと、それはちょっと、あの、違うのですけど‥‥、と言わざるを得ないというそういう状況の中で、果たしてここでいう「私」の言葉がどれほど書き手たる私の心の真実を反映したものであるかについては一応留保の態度をもって接してもらいたいということを一応申し述べておきたいのであって、こんなことを回りくどく言うのは、反《私》派であると表明した瞬間に、 「まあ、ひどい人だわ」 「《私》のすばらしさがわからないなんて」 「根性ねじくれてるんじゃないの」 「品性下劣よ」 「そんなこと言う人は、どうせ幼女とかが好きなんでしょ」 「いやだわ」 「ヘンタイ」 「もうこんなサイト来るのよしましょう」 「そうしましょう」 ということになりかねないからであるので、《私》が北村薫ではないのと同様に、ここでの「私」も必ずしも書き手の私とは同一ではないとその場合は思ってもらいたいのであるが、とにかくそんなわけで、こうしてうじうじと並べ立ててきた言葉が暗に示すように、私自身の意見は、どちらかというと、「否」のほうである。 まあもちろん、大急ぎで言い訳を付け加えると《私》シリーズ自体は大好きなのであり、ときどきはパラパラめくって玉のような文章を愛でては溜め息をもらすのであり、玖保キリコ『シニカル・ヒステリー・アワー』のしーちゃんが大きくなったらこうなるに違いない江美ちゃんと、こんな娘さんにちょっときついことなど言われてみたい感じの正ちゃんにはゾッコンホレホレなのであるが、どうにも《私》ばかりは、いただけないのである。 いただけない理由に関しては、一般的な「否」派の人の意見とさして異なるところはないのでまあ深くは追及しないでもらいたいのであるが、加えてもうひとつ、どうしても述べておかねばならぬ点がある。世間に向けて公表し、白日のもとでその是非を問いたい点がある。 いや、是非を問うとかそういう問題ではなく、これはもう誰が見ても、たとえ「賛」派の人、《私》の性格に対して好意を寄せている人たちであっても、眉をしかめて非難せずにはいられないという、そういう点なのである。しかも、にもかかわらず、誰もが見なかった振りをして、あえて口をつぐんでいるという、そんな欺瞞に満ちた点でもあるのだ。 それは、どんな点であるのか。 賢明な諸君なら、もうおわかりであろう。 そう、そうなのである。 《私》が、《私》のやつめが、 「小憎らしい本読みである」 という事実なのである。 いや、小憎らしい、では甘すぎる。 「憎たらしい」 である。それどころか、 「ぐぎー、こいつめ、ぐぞー、くぬやろ、今に見ておれ、目にもの見せてくれるわっ、きええっ、げっげっ、ぐぎゃおー」 と思わず錯乱してしまうほど、憎んでも憎んでも憎みたりない本読みである、ということなのだ。 世間のもの知らずの高校生男子などは、 「あーあ、ぼくにもこんな彼女がいたら、本の話とかできるのに」 などと鼻の下をのばして騙されているのかもしれないが、この《私》ときたら、本当に、本当にひどいのだ。本読みの風上にも置けぬ。身近にこんな人間がいたら、思わず殴り倒してしまうに相違ないのである。 なにしろ、たとえば、 《先生は、そこで私にいった。 「君なんかはどう、菊池さんのものは?‥‥(中略)‥‥長編も読んだ?」 「『真珠夫人』を読みました」 天城さんが、微笑んでいった。 「今時、千人に聞いても読んでないわよ」》(注2) うぎー、私も読んでない。生意気なやつめ。うぐー。 あるいはたとえば、 《手近にある幸田露伴の『頼朝』で見ると、》(注3) って、ちょっとアンタ、『頼朝』なんて作品、知らぬぞ。どこで読めるのだ。何が《手近》なのだ。うぎー。 さらにたとえば、岩波文庫のフロベール『ブヴァールとペキュシェ』、1997年のリクエスト復刊なんてまだ先のことで当時は古本屋さんでもめったにお目にかかれなかったはずのこの本を、 《去年の夏、文庫本で読んだのが『ブヴァールとペキュシェ』。》(注4) などと、平気でつるつると読んでいたりするのである。うがが。しかも、 《これは、読むずっと前から、奇怪極まる崩壊の劇であるような予感がしていたせいで、肩すかしをくったような拍子抜けの感があった。》 なんていう不遜な感想つき。ぐわわー。 そしてそしてさらに極め付きは、むーぐぐ、口に出すのも憤懣やるかたない、ソログープ。フョードル・クジミチ・ソログープ。 《国別に編まれた名作集で読んでいたが、今年の冬、更に文庫本の個人短編集を読み、完全にその虜となった。》(注5) などとさらりと書いてあるが、ななな、なんだとー! 文庫のソログープといえば、まあ古いものならもしかしたら他にあるかもしれないが、私の知っている限りでは岩波文庫の『かくれんぼ/白い母 他2篇』しかないのであり、しかもこの本はどうやら1937年に出たあとは改訳版も何も出てないわけで、つまり戦前のものがあるばかりなのであって、今手に入れようとすれば神保町で大枚はたくしかないものなのであり、そんな本を手に入れようものなら、 「わーい、ソログープの短編集だ、わーいわーいわーい」 と転がりのたうちまわって喜ぶべきものなのであって、そういう本を、 《更に文庫本の個人短編集を読み》 などとタイトルさえ出さずにひと言で済ませてしまうとは、きききキミね、そそそそんなことをしてね、いいとでもね、エッ、ぼぼぼぼボクはだね、あのね、ぬぬぬ、ぐぐぐ、ぬーぐぐぐ、ぐわおおおおお。 はあはあ。 どうであろう。ああ、ひどいではないか、憎たらしいではないか。これまで《私》にぼーっとなっていた諸君も、少しは目が覚めたのではあるまいか。 この、なんとも憎らしい《私》を、なんとかぎゃふんと言わせてやりたい、と思っているかたは、私ならずとも多いであろう。 残念ながら作中人物である以上、読者の都合でぎゃふんと言わせるわけにはなかなかいかないのであるが、しかしせめてこの《私》を出し抜くことくらいはできないものか、《私》が見落としたようなマイナーな作品を、つるりと読んでしまえないものか。と、そう虎視眈々と機をうかがっている人もいるのではなかろうか。 そんな人に、ぜひともおすすめしたい。 これである。 ソログープ「震動する家」。 筑摩書房の『筑摩世界文学体系』の中に、ソログープの作品としては唯一編選ばれている作品である。 お話は、とても簡単。表を馬車が通ればガタガタ震動してしまうような家に住むロシアのごく普通の夫婦の、不安だけどそれなりに楽しくないわけでもない日常の断片、といった感じで、寓話としてはたいへんわかりやすい佳品である。 この作品のミソは、『夜の蝉』の中で《私》が、 《総てが落日の光の中にあるような暗い甘美さは、一読忘れ難い。》(注6) と評している幻想的なソログープ像とは、完全に趣を異にしていることである。何も知らずに読んだら、これがソログープとは気づかないに違いない。知ったところで、「あ、名前が同じなのね」と思ってしまうくらい。 「レフ・トルストイとA・K・トルストイ(もしくはアレクセイ・ニコラーエヴィチ・トルストイ)のようなものか」 と、それほど印象が異なる。 となると、ソログープをして《総てが落日の光の中にあるような暗い甘美さ》と概括している《私》の念頭にはこの「震動する家」は含まれていない、ということがいえるはずである。すなわち、北村薫はどうかは知らぬが少なくともこの時点で《私》は「震動する家」を読んでいないに違いないのである。 《私》シリーズがこの先どこまで続くのかはわからぬが、ソログープなんていうマイナーな作家が再び登場することは考えられないわけで、そうなると今後《私》がソログープの「震動する家」を読んだ、などという記述は絶対に出てこないだろう。《私》はこの作品を読まないまま終わるのだ。 よっしゃー。 がーははは。 勝った。 私は「震動する家」読んだぞ。お前は読んでないだろう。 ケッ、悔しかったら、読んでみろってんだ。 げひゃひゃひゃひゃ。ざまあみろ。 などと、所詮たかが小説のキャラクターでしかないものに対して本気になってムキになって熱くなってしまっているあたり、よく考えてみると、はじめに述べた、 「こんな女の子いるわけない」 という否定論とは矛盾するではないか、と思わないでもなく、なんとなく北村薫の術中にはまっているような気がしないでもないが、まあ、そこはそれ、あれだ、あれ。読んだもの勝ちだ。 勝てば官軍、なのだ。 |
(注1)ここでは便宜的に「《私》シリーズ」と呼んでおくが、語り手の《私》と噺家の円紫師匠のやりとりを通して、日常の中にひそむ些細な謎、それにまつわる哀しみを描き出す連作。文章表現の巧みさに脱帽。 (注2)『六の宮の姫君』(創元文庫、1999、¥480)より。p42 ちなみに、この『真珠夫人』は2002年春の昼メロになったおかげでかなりメジャー化。文庫も新潮と文春から発刊されて、誰でも手に入れることができるようになった。めでたいことである。 (注3)『朝霧』(東京創元社、1998、¥1,400)所収「山眠る」より。 (注4)『秋の花』(創元文庫、1997、¥480)より。 (注5)『夜の蝉』(創元文庫、1996、¥480)所収「朧夜の底」より。ちなみに、同じ短編内に言及がある『北洋船団 女ドクター航海記』は、作中に、 《歩きながら読んだ記憶がある。平らなところだけでなく、確か階段の上がり下りまで目は活字を追っていたと思うから、熱中の度合いが分かる。》 とある通り、ホントにメチャンコおもしろいのでおすすめである。集英社文庫から出ていたが、たぶん絶版。どこかからまた出ていたような気もする。 (注6)そんな幻想的なソログープに興味がでてきた人には、次の作品あたりが比較的手に入りやすいであろう。 「小羊」(『新・ちくま文学の森5 こどもの風景』筑摩書房)、「赤い唇の客」(『現代ロシア幻想小説』白水社)、「光と影」(『ロシア怪談集』河出文庫)。どの作品も、どこか死の匂いが漂う昏さが魅力である。ちなみに、その後、2001年のリバイバル出版で『かくれんぼ/白い母 他2篇』がリリースされ、私も今回はちゃんと手に入れることができ、《私》に対して少々溜飲が下がった。もちろん、現在の時点ではおそらくすでに新刊書店にはないであろう。 |