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ボランティア精神旺盛な貴女に 『カエルの鼻』
石居進
八坂書房、1997
¥2,060







「あなたには私がいないとダメだから、結婚してあげるわ」
ということで、しずかちゃんはのび太のお嫁さんになったのであるが、これに憧れている男性は世に多い。
「いいなあ、ぼくもしずかちゃんみたいな女の子に、こんなふうに言われてみたい」
などと、指をくわえてのび太を羨んだりしているわけである。

世の中というのは広いものであって、一方で、しずかちゃんを羨んでいる女性も数多い。
「うらやましいわ、あたしも、のび太みたいな男の子に、ああいうこと、言ってあげたい」
というのである。
「ダメダメだけどかわいらしい男の子の、面倒を見てあげて、そばにいてあげて、守ってあげたい!」
と、愛情というよりは慈悲と慈善の力によって、ダメダメな男の子を自分の思い通りに更生させ、真人間に仕立て上げたくてしかたがないという、そんなボランティア精神にあふれる女性が、巷で腕を鳴らしていると聞く。

しかし、そうした娘さんが、持ち前の行動力を駆使して、血眼になって理想の「面倒を見てあげたい男の子」をさがしても、やはり世の中とは広い。単なるダメダメ男なら、それこそ星の数ほどいるであろう。だが、その中でキラリと光る、思わずボランティア精神を、
「きゅんっ」
と喚起してくれるような男の子など、そうそうお目にかかれるものではないのだ。

現実界から一歩足を踏み出して、小説界を見渡してみたところで、太宰治や近松秋江を引き合いに出すまでもなく、どいつもこいつもやっぱりどうしようもないダメダメ男ばかり。
わずかに、
《「佐伯君、君はひどいじゃないか。そのナイフは、僕の机の左の引出しにはいっていたんでしょう? 君は、さっき僕に無断で借用したのに、ちがいありません。僕は、人間の名誉というものを重んずる方針なのだから、敢えて、盗んだとは言いません。早く返して下さい。僕は、大事にしていたんだ。僕は、この人に帽子と制服とだけは、お貸ししたけれど、君にナイフまでは、お貸しした覚えが無いのです。返して下さい。僕は、お姉さんから、もらったんだ。大事にしていたんですよ。返して下さい。そんなに乱暴に扱われちゃ困りますよ。そのナイフには、小さい鋏も、缶切りも、その他三種類の小道具が附いているんですよ。デリケエトなんですよ。ごしょうだから返して下さい。」》
のセリフがいじらしい「乞食学生」の熊本君(注1)と、舟番所の役人に任命されたのはいいが水練ができないので隠れてこっそり練習しようとして溺れかけた落合清四郎(注2)あたりが、かろうじて目に付く程度だ。
それにまた、そんな彼らをいかに気に入ったところで、所詮虚構の中のキャラクター。(熊本君ときたら、小説中においてさらに夢の中の登場人物である。)
たまりにたまったボランティア精神をぶちまけられるわけではない。
熱く熱く燃え上がった胸の炎も、適正な対象を見出せぬまま、いたずらに天へと消えてゆくことになる。

ああ、虚しい‥‥。
この世には、私が守ってあげないといけない、ステキなダメダメ男はいないのかしら‥‥。
と、今日も切ない吐息をもらしているあなた。
朗報です。
これを読みなさい。
『カエルの鼻』。
おなじみ八坂書房のこだわり科学者素人エッセイシリーズの1冊。
ヒキガエルはどうして毎年同じ池に卵を産みにくるのか、という素朴な疑問から始まって、素朴な語り口で科学の研究の手順をたどっていく好著。
もちろん、ノンフィクションである。虚構ではない。
ボランティア精神旺盛なあなたには、これに出てくる高田君に注目してもらいたい。

高田君は著者の研究室で当時ヒキガエル研究の中心だった学生で、したがって残念ながらのび太とは違って、
《非常に優秀で頭のよい人》
である。
だが、それなのに、
《常日頃なんとなくかわいそうだという感情を相手に持たせるところのある人》
であり、
《そしてまた、実際、しょっちゅう悲劇が起こる人なのです。》
というのだ。
《彼がはじめての学会に出席して講演するというときに、出発の前日になってひどい熱が出て出席できなくなってしまい、みんなに気の毒がられたことは今も記憶に新たです。》
なのだそうで、
《なんと、たった今も彼から電話がかかってきました。明後日の忘年会に来られなくなったというのです。感冒性のウイルスが聴神経に入ったらしく、昨日から片方の耳が聞こえなくなってしまったというのです。》
と、
《このように事あるごとに彼には悲劇がおそってくるのです。》

そんな星の下に生まれた高田君だが、研究態度は熱心で、ヒキガエルの脳下垂体を数千匹分も集めなくてはならないことになっても果敢に立ち向かい、
《そしてついにヒキガエルの脳下垂体を四千個くらい集めることができたのです。》
おお、四千個!四千匹分!すごい!やっぱり研究者の人って、えらいよね。と思う間もなく、
《ところが皆の期待も空しく、ある日悲惨な事件が起こってしまいました。》
わっ、なんだなんだ!?
《この脳下垂体からホルモンの抽出と化学的純化をほとんど終えたところで、そのホルモンの溶けている液体の入ったチューブを手で持って運んでいる最中に、》
も、もしやもしや‥‥。
《なんと高田君は床でけつまづいて転んでしまったのです。》
ああー、やっぱり‥‥。
《大切なホルモンの溶液は床にぶちまかれて、回収不能になってしまいました。悲壮な顔をして報告してきた彼に、私は何も言うことができませんでした。研究室のほかのメンバーも誰も何もいわずしんとするばかりでした。》(注3)

‥‥。
どうであろうか。
ボランティア精神旺盛なあなたは、思わず胸が、
「きゅんっ」
と高鳴ってしまったのではあるまいか。
「面倒を見てあげたい、そばにいてあげたい、守ってあげたい‥‥」
という衝動が、胸の奥から突き上げてきたのではなかろうか。
「高田君には、あたしがついていてあげないと、ダメなのよ!」

そうお感じになられたのなら、今すぐ本屋に駆け込んで、この『カエルの鼻』を購入することをおすすめする。
そうして、持ち前の行動力を生かして、著者の石居進先生に問い合わせて、高田君の連絡先を聞き出すといい。
それから、たぶん日本のどこかでカエルか何かの研究を続けているであろう高田君のもとに押しかけていって、有無を言わさぬ力業でもってねじ伏せ押し倒し、みなぎるボランティア精神を発揮するとよいであろう。

ちなみに、そんなわずらわしいのはイヤだ!今すぐ!誰か!たまらん!この胸の熱いボランティア精神をぶつけたい!
と炎のごとく燃えさかっている貴女には、私の友人のS君をご紹介しますので、ご一報ください。



(注1)「乞食学生」(太宰治『新ハムレット』所収、新潮文庫)。このセリフからもわかるように、明るい闊達な筆致で描かれた、それでいて皮肉の効いた、なんというかエセさわやか青春小説的な作品。おもしろいよ。

(注2)「中川舟番所」(平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(6)春月の雛』所収、講談社、1994)。〈はやぶさ新八御用帖〉は〈御宿かわせみ〉と並ぶ平岩弓枝の看板シリーズ。〈かわせみ〉に比べてキャラクター的にちょっと弱いが、しかしこの落合清四郎をはじめ、脇役陣を見るためだけにでも読む価値あり。初登場のときはダメダメだった落合清四郎だが、最近はちょっとしっかりしてきてしまったのでつまらない。嫁の小夜さんの薫陶のたまものであろう。

(注3)その後、筆者は《しばらくして何事もなかったような顔をして、高田君に来年また頑張ろうぜと言い》、立ち直った高田君は翌年春には見事、八千個の脳下垂体を集めたそうである。よかったよかった。

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