鹽入亀輔 略年譜
(『音楽世界』第10巻第3号(1938年3月) p.77ほかより)
1900(明治33)年 8月26日,東京の築地で弁護士鹽入太輔の長男として生まれる。
築地小学校入学。
東京府立第一中学校。
早稲田第一高等学院入学。
  在学中に管絃楽部を創立。ヴァイオリンを受け持つ。
  在学中、合唱も盛んにやった(指導者:柴田常知)。
早稲田大学入学。
1924(大正13)年 5月、数名の仲間を集め、柴田常知に和声を習う。
(この頃)在学中に讀賣新聞社に入り社会部記者となる(音楽美術を担当。卒業後も引き続いてその職にあった)。
1926(大正15)年 早稲田大学卒業。
日下部順子と結婚。
年末に讀賣新聞社を退社し、歩兵第一聯隊に入営。
1927(昭和2)年 11月、除隊。
新交響楽団編輯部に入り『フィルハーモニー』の編輯を主宰。
1930(昭和5)年 1月号より『音樂世界』の編輯主任となる。
この年より東洋音楽学校講師。
映画『ふるさと』(溝口健二監督、藤原義江主演)の実際上の音楽監督をつとめる。
1932(昭和7)年 大日本音楽協会評議員となる。
1933(昭和8)年 音楽コンクール常任委員となる
1937(昭和12)年 1月、『音樂世界』経営者となる。
文部省嘱託となる。
9月6日、応召入営したが、身体検査不合格となり即日帰宅を言い渡される。
1938(昭和13)年 1月12日夜、音楽コンクール審査員の集まりに参加(銀座Aワン)。
1月15日、保険協会で催された音楽コンクール予選(ヴァイオリンとチェロ)の審査主任を務める。
1月18日夜、『月刊楽譜』の愛国行進曲座談会に出席。
1月19日夜、相島敏夫の結婚披露宴に出席。
1月20日夜、瀬戸口翁の愛国行進曲祝賀会に出席(水交社)。
1月21日、発病。
1月31日、警察病院(東京の麹町)に入院。
2月8日午後2時45分、急性腹膜炎のため死去。


【典拠とした文献】
典拠は鹽入亀輔が経営者を勤めていた『音楽世界』第10巻第3号(1938年3月)のp.77〜120。とくにp.77の「略歴」に多くをよったが、詳細な年月は記載されていないケースが目立った。次のページから「故鹽入亀輔氏の憶ひ出」と題する追悼コーナーが設けられている。「略歴」とあわせて、それらすべてを列挙すると次のようになる。

略歴・・・p.77
−故鹽入亀輔氏の憶ひ出−
鹽入君の死/堀内敬三・・・p.78-80
鹽入君の思ひ出/柴田知常・・・p.80-82
批評家としての鹽入さん/野村光一・・・p.82-83
鹽入君の思ひ出/笈田光吉・・・p.83-
亀さんと電気時計/相島敏夫・・・p.85-87
亀さんと僕/金子義男・・・p.87-89
亀さんの御霊に/吉田信・・・p.89-92
鹽入さんの想出 −「レコード」時代の事など−/大井蛇津朗・・・p.92-94
鹽入さんの思ひ出/原善一郎・・・p.94-95
ペテロ鹽入亀輔氏/白井保男・・・p.95
音楽ジャーナリズムの確立者鹽入亀輔氏/村松道彌・・・p.96-97
亀さんの想出/菅沼定省・・・p.98-99
鹽入亀輔氏を偲ぶ/桂近乎・・・p.99-100
鹽入君を悼む/玉置眞吉・・・p.100-101
鹽入君のこと/飯島正・・・p.102-103
鹽入さんお寝すみなさい/近藤春雄・・・p.103-104
中学時代の亀さん/小栗孝則・・・p.105-107
カメさんの想ひ出/佐藤美子・・・p.108109
追憶/平井美奈子・・・109-110
亀さんの思ひ出/内田栄一・・・111-112
亀さん/ジェームス・ダン・・・p.112-114
何となく/ダン道子・・・p.114-115
映画に残した鹽入さんの仕事/関忠果・・・p.116-117
鹽入先生を追悼す/黒崎義英・・・p.117-119
鹽入先生と私/高澤元夫・・・p.119-120


【小関による補足】
(1)笈田光吉の記事によれば、京橋区の朝海幼稚園、同区の京橋尋常小学校で鹽入が2、3年先輩だったと知ったと書いている。こうなると、略年譜にある小学校が高等小学校だったのか、記載間違いなのか、あるいは他の理由があるのかわからない。
(2)柴田知常の記事は、具体的な年月の記述こそ乏しいが、早稲田第一高等学院時代から早稲田大学、さらには卒業後の鹽入とのつきあいが窺えて興味深い。略年譜1924年の項にある和声のクラスは柴田が勤務演習のため入営したため、あまり長続きしなかったように読める。一方、ジェームス・ダンの証言によれば鹽入と初めて会ったのは大正13年(1924年)の学生で讀賣の記者だったときと記載しているので、この年にこれらのことがあったと思われる。
(3)関によれば、「ふるさと」のほかに豊田四郎監督「若い人」の音楽は久保田浩平であるが、実はそのアドバイザーとして鹽入の隠れた力があったことを知る人間は少ないという。また、雑誌「日本映画」に内外の映画の音楽を分析的に批評したともいっている。
(4)堀内は「新聞社で育つた鹽入君は雑誌編輯にかけては他人の及び得ないものを持つてゐた。音楽雑誌が単に雑然と寄稿を配列するだけの舊式編輯法をすてゝ生きたトピツクを捕へ、生きたグラフを入れ、全體を統一する方法を執つたのは鹽入君の初めた事であつた」(p.79)と評価している。
(2006年5月15日作成)


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