川棚温泉の歴史は古く、700年前にさかのぼると言われています。
九州などの火山地帯には数多くの温泉がありますが、そうでない地域で泉源温度43℃の温泉はそんなに多くはないでしょう。
近年の地下探査や掘削技術の向上により、国内の温泉は毎年増え続けているそうです。
泉には二つのタイプがあるそうで一つは火山のマグマによって地下水が熱せられるもの、もうひとつは、地球の内部は深くなるほど地熱温度は高くなるので、それによって地下水が熱せられるものです。
川棚温泉は前者に属するもので、白山火山帯の西の端の上にあります。



川棚温泉の栄枯盛衰

 川棚温泉一帯は太古は大沼地であって、その池の中に一匹の巨大な大鰻?が棲息していた。里人はこれを昇天せず池に潜む青竜だといって崇めていた。
欽明天皇の御宇に大地震があって一夜の内にこの沼地の水が熱湯と化したため、青竜が遂に斃死するに至って、里人がこれを青竜権現として神に祀ったものである。その当時の人々は山の尾根、岡の屋敷などという高地に住んでいたが、後に至ってこの沼地を埋めて屋敷や田地を作った。
 安徳天皇の寿永二年に至って始めてここに温泉が発見されたが、時の領主の平の定盛は湯屋を建設し湯銭を定められ青龍権現を温泉守護の神とした。
 ところが温泉にも栄枯盛衰があって、鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけて騒乱が続き、国は大いに乱れ、地方では大内、厚東、豊田などという豪族が相争い、朝には南朝に組し、夕には北朝に寝返り、戦乱が明け暮れ続いたため、塗灰の苦しみをみた。従って温泉どころの騒ぎではなく荒れ放題となっていつしか埋没してしまった。
 応永年間に至って川棚の三恵寺に怡雲(いうん)和尚という高僧がいた。この僧は名刹三恵寺の廃退しているのをなげかれ、これを再興された中興の祖で内日村の出身であった。
 師は、当時跡形もなくなった温泉を世の中の多くの病人のために寺領の土民に命ぜられて発掘したものである。
 吉永村の庄屋幸左衛門が元文四年に提出した「地下上申」の中には「吉永村の一ノ内と申すは応永年中の頃川棚の湯壷を堀し時分一番の内に掘出し申候につき一ノ内と申し習わし候由地下人申伝え候」とあるからこの怡雲和尚が寺領の土民に湯壷を掘らせたことが判る。
 この和尚は応永二十年頃京都の金閣寺に任せられた時、三代将軍足利義満の画像に賛せられ、それが国宝になっているというから当時の高僧であったものと思われる。三恵寺には応永二十四年頃、和尚が晩年再任せられたという。以上のような関係から、この怡雲和尚をもって川棚温泉の開基としている。その後温泉も次第に世に知られ、繁盛したもので、毛利氏の世となってからは長府藩の毛利綱元が元禄六年に入湯に来られるに当たり御殿湯を創建し、湯庄屋(永富氏)を置き、御茶屋(益本氏)を定められたものである。その後代々の藩主が入湯に来られたものであるが、明治四年廃藩置県と共に毛利氏はこれを地元に下附された。尚、昭和七年以降は民間会社へ温泉権が譲渡され現在では川棚温泉唯一の大衆浴場「青竜泉」として昔日を残している。


豊浦町・名所旧跡と由来集より−


湯町交差点 交差点にある五号泉源

青竜泉