山鹿協同隊とは

平成11年3月にまとめられた山鹿市中心市街地活性化基本計画の作業部会として、ワーキンググループがおかれ、その俗称は、「山鹿協同隊」と決定されました。この由来となった「熊本協同隊」は、120年前、自由民権運動の魁として先進的な思想と積極的な行動力で激動する時代に果敢に挑戦した彼らの生き方に対し共感と誇りを感じこの名称になりました。

 私たちは、山鹿の新しい流れを少数の指導者に委ねて次の展開を待のではなく、『私たちの、私たちによる、私たちの山鹿』を基本に個人の行動からなる運動を通じて、自分たちの手で新しい未来の山鹿を勝ち取るため行動しようと考えています。

 さて、熊本協同隊とは、明治10年の西南の役の際、西郷軍に呼応して、熊本の保田窪神社で、山鹿の大森惣作が軍資金を出し、植木学校の参加者を中心に平川惟一・宮崎八郎・山鹿の野満兄弟等によって挙兵した集団です。彼らは、西郷軍と同じ思想ではなく、ルソーの民約論(中江兆民訳の時代)に基づいた政府の樹立を考えており、最終的には、西郷隆盛とも対決する覚悟をもっていたといわれます。ちなみに、この時期に呼応した士族や豪農商達は、明治新政府に対しての反感から西郷軍と共に闘った場合がみられ、たとえば、学校党の流れをくむ熊本隊などその思想的背景は様々でした。

 当時、山鹿を含め県内の農民の間には、地租改正入費や民費に不満が高まり、その一連の流れで、戸長征伐が行われており、西郷軍の蜂起は、山鹿白石村(現 古閑)野満長太郎(植木学校参加者で、従軍した野満兄弟の兄)らによる、光専寺1万人集会が行われた直後にあたります。

 このため、薩軍が挙兵し山鹿を占拠した際に、ともに山鹿にまで進んできた熊本協同隊は、この山鹿の地に日本で初めて、彼らの理想に基づき民権政府とも言うべき組織を樹立させることができました。そして、人民総代が作られ、野満長太郎が民政官として山鹿の長となったわけです。ただし、これは、軍事占領下で、薩軍が退却するまでのほんの一時の民主制に過ぎませんでしたし、現在の民主制度とは異なるものでした。しかし、彼らにとっては、理想に向けての第一歩でありました。

 また、本来ならば、この基本計画の策定作業が終了した時点で、解散となるのが従来のこういった部会の姿でした。しかし、山鹿市の活性化というのは、住民と行政のパートナーシップのもとに行なう必要があるとの観点から、組織を維持することにしました。その目的は、活性化事業として、独自に取り組める事業の実施、今後、進んでいくであろう活性化事業の支援を行なうためとなっております。  (敬称略)   
  

 
  


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