八千代座

八千代座



●建設当時の山鹿

 明治時代の山鹿は熊本県北の商工業の中心的都市でした。
 水陸交通の要衝で物資の集産地、また、県内屈指の温泉場として繁栄していました。
 八千代座建設は、温泉の大改築、山鹿鉄道(後の鹿本鉄道)建設と並ぶ明治の三大改革のひとつでした。これらの改革の裏には、明治維新に活躍した横井小楠の門下生だった実学の思想を持った人達の存在がありました。
 商工業面では、養蚕、製糸が有名で県内でいつも上位を占めていました。また、明治3年の記錦では、温泉場としても八代の日奈久温泉に継いで入浴客は2位、熊入温泉を合わせるとトップでした。同42年大阪で発行された全国温泉番付では、西前頭5枚目で日奈久を抜いていました。
 また、当時の繁栄を物語るものとして、電話があります。山鹿の電話創業は明治41年で、県内では熊本市に次いで2番目に開始されています。ところが、電気の一部送電開始は大正3年、照明などのエネルギー源の電気より、通信設備の電話が先に入った背景こは商工業面で、中央と早く連絡を必要とする産業が多かったことを示しています。  八千代座開業式の奉納額にも、それがうかがえ、係名の欄に「電話掛り」「カーバイド掛り」(照明)があります。

●八千代座に出演した最初の歌舞伎俳優


 柿(こけら)おとし公演は、明治44年1月松鶴屋一座の大歌舞伎でした。和紙に印刷された広告が残っています。当時の新聞の芸能欄には、大阪歌舞伎が熊本の大和座に来ると書いてあり、大和座で公演中のー座を開業式のために呼んだことがわかります最初にかいてある俳優の名は、市川新之助、次に市川男女蔵とありま す。新之助は海老蔵や団十郎に、男 女蔵は左団次にと何代も引き継がれる名題の役者になる名門の名前です。
 しかし、八千代座にきたであろう5代目新之助の場合、新之助を襲名したのは大正2年でした。4代目で後の海老蔵はすでに他界しています。男女蔵も同じですが、明治44年当時に該当する俳優を襲名した人がいないようです。本物ではなかったかもしれませんが、柿おとしの歌舞伎は大人気で、八千代座は連日満員でした。
 昭和20年頃までは、常設の大劇場の芝居を大芝居、それ以外を小芝居と呼び区別していました。
 5代目新之助はのちに、小芝居の分野で活躍した人です。

●公演、映画など使用の歴史


 八千代座の公演の歴史は、明治、大正、昭和時代の芸能の流行を反映しています。柿(こけら)おとしの歌舞伎から始まり、活動写真(映画)も盛んで、大正になると浪曲(浪花節)が多くなりました。また、6年に来演した芸術座トルストイの「復活」は山鹿の人々に強い印象を残しました。松井須磨子が劇中で歌ったカチューシャの歌は山鹿中で歌われたくらいに大流行したそうです。少女歌舞伎も大人気でした。
 昭和になると、演説会、新派劇と様々。珍しいものでは映画と劇を一緒にした連鎖劇も出てきます。
 変わったとこでは、柔道や相撲、ボクシングの試合もありました。
 戦後は、福岡フィルや辻久子のパイオリンリサイタル、谷桃子のバレエ、淡谷のり子、東京混成合唱団など新しい音楽のジャンルも登場してきます。山鹿の新しいもの好きの現れだったのでしょう。
 昭和30年代は映画が主流になりますが、山鹿には映劇、日昇館、泉都映劇、八千代座と4つもあり、畳に座ってみる八千代座は施設面の遅れもあり、敬遠されるようになりました。
 その映画館もテレビに押されて、すペてなくなってしまいました。娯楽の変遷は厳しいものがありました。
 そして、八千代座は40年代後半まで、時々の利用はあったようですが、経営不振により閉鎖されてしまいました。
 開業した最初の頃、今では予想もしない八千代座の使われかたがありました。それは、繭置き場でした。当時の山鹿は県内でも名高い繭、生糸の生産地でしたから、倉庫として利用されたこともあったのです。

●坂東玉三郎公演


 八千代座復興を願う一人の女性写真家が、八千代座の資料を玉三郎さんに送ったのがきっかけで、平成2年から坂東玉三郎舞踊公演が八千代座で続けられています。
 主催は、山鹿市のほとんどの団体が、官民一体となり、実行委員会を組織して行います。公演の裏方は、すべてが市民のボランティアです。
 平成5年には、特別公演の芝居「ふるあめりかに袖はぬらさじ』が15日間ありました。

●八千代座の活用状況


 八千代座で平成6年に開催された行事を拾いあけてみると、民族舞踊団「わらひ座」山廃中学校定期演奏会、国体フォーラム、阿蘇伝統芸能「中江岩戸神楽」、「悪役商会」公演、子とも劇場、郷土芸能イン八千代座、九州人形劇フェスティバル、坂東王三郎舞踊公演、各種講演会‥‥‥。講演会、お芝居、リサイタル、民俗芸能などのいろいろな行事に利用されています。
 平成5年度(平成5年4月〜平成63月)の実績では、使用回数が36回延べ使用日数が53日、入場者数は約3万4千500人にものぼります。
 文化財としての八千代座を保護する目的で、八千代座には冷暖房施設がありません。寒暖の差から生じるのタラック(木の表面に亀裂が生しること)を防ぐためです。これにより、夏や冬場は公演は少なく、比較的気候のいい温暖な春や秋に公演が集中しています。
 また、見学については、昭和63年国指定重要文化財に指定された翌年の平成元年10月1日から入場料を徴収しています。平成元年度(5084人)、平成2年度(13503人)、平成3年度(15109人)、平成4年度(20049人)、平成5年度(31997人)と推移しており、平成4年度から5年度にかけの増加率は前年度対比59.6lの伸びとなっています。
 平成6年8月29日には、有料入場数が10万人を突破しました。

●全国の芝居小屋と連絡協議会


 全国に残っている古い芝居小屋の数は、確認されているものだけで、八千代座を含めて18座あります。このほかにも、復元中のものもあり、20座(館、劇場、場)を超えると思われます 全国には戦後800座はあったとわれています。18座のうちでも、現役で営業をされているのは嘉穂劇場だけです。時代の流れで、との芝居小屋も廃業し、他の目的に転用されるこが多くなりました。
 18座のなかには、復興して活用さている芝居小屋だけではなく、廃屋状態で復興運動中のところ、芝居小屋以外の目的に使われているところ、博物館に移築して見学が主のところなど様々の状態です。
 平成5年に発足した全国芝居小屋連絡協議会は、全国の芝居小屋関係者が連携して保存活用に努めることを自的として組織されました。平成5年が八千代座で、6年は内子座(愛媛県)で、全国芝居小屋会議が行われました)さらに7年には秋田県の康楽館で予定され、芝居小屋の魅力を全国にアピールします。

●国指定重要文化財


 八千代座が国指定の重要文化財になったのは、昭和63年12月19日です。指定の種類は建造物で、劇場建築としては、香川県琴平町の旧金毘羅大芝居(金丸座)、愛知県犬山市の呉服座(明治村内)に継ぐ三番目でした。

規 模


 建物の規模は、間口が29.4m、奥行が35.4m、延面積が1487.4mあります。一方、舞台の規模は、間口が13.38m、奥行が10.5m、廻り舞台の直径が8.45m、プロセニアム(客席から見た舞台の高さ)は4.26mです。建設当時の収容能力は、階上が444人、階下が830人、計1274人でした。現在は700〜800人を収容できます。

構 造


1.外 観

 八千代座を外観すると、全体にわたってやや古風な趣を残しており、一見すると地味に感じられますが、一面では和風建築の飾り気のない簡素で重厚な雰囲気を持っているようです。
 それを特徴づけているのが、左右対称のバランスの取れた構造、正面の白漆喰壁に突き出た櫓(やぐら太鼓を打つところ)、巨大な切妻の瓦屋根とそれと直角の位置にある正面2層の入母屋屋根です。また、建物正面の両端から突き出た大正時代に増築の喫煙室と入母屋屋横は、建物に一層の落ち着いた風格と安定感をもたらしています。さらに、大屋根の上にある箱棟の存在も見逃せません。両サイドには平瓦を張りつけ、瓦4枚おきに換気口(模様瓦)が備え付けてあります。これは、一種の換気扇の役割を果たしていたものと考えられます。

2.内部

 木戸口を通り中に入ると、貫禄ある舞台とぎっしりと畳を敷き詰めた客席に驚かされます。次に、約3万6千枚の膨大な瓦を葺いた屋根を要する建物にしては柱の数が少なく、広い空間を形成しているのに疑問を持たれるはずです。これは、当時としては珍しい建築様式として、梁組に洋式のトラス工法を取り入れたためです。

@1階部分

 1階客席は、本花道と仮花道に囲まれた一般低くなっている平土間、舞台に向かって右側の上手桟敷と左側の下手桟敷、平土間後方の桟敷からなります。
 平土間は、81桝の桝席(4人詰め)で仕切られ(注:今は仕切りの縦棒が外され2桝を一対で使用。6人掛けで座ることが多い)3股にわたる勾配が付けられています。客席に傾斜がついて、後の人が舞台を見やすいようにと配慮された現在の劇場建築においては当たり前の構造も、芝居小屋としては珍しく、八千代座の特徴にもなっています。本花道には、舞台から3対7の位置にスッホンと呼ばれる人力操作によるみこし風の仕掛けがあります。花道下は、廻り舞台下の奈落からここを経て、階段、鳥屋(とや)まで続いています。芝居では、スッポンから忍者や妖怪変化などか登場し、場をにぎわせていました.

A2階部分

 2階客席は、東西の上手桟敷、下手桟敷と、舞台正面に位置する向う桟敷で構成されます。上手桟敷には、半間おきに仕切り棒をはめるための掘り込み跡が残っており、かつては桝席ととして利用されていたことがうかがえます。
 向う桟敷は、前船、中船、跡(後)船の3段からなります。跡船には廊下から絹(小階段で上ることができます。中央には昭和30年代に映写室が設置されましたが、平成6年の部分改修工事で撤去し、元の姿に復元されました。
 2階桟敷の前面三方には朱漆塗の欄干がめぐらされ、いかにも芝居小屋らしい華やかさを醸し出しています。
 さらに八千代座らしさを表現するものは、かつて格子天井に設置されていた色鮮やかな天井広告です。現在は、昭和62年の屋根改修時に取り外されましたが、その一部は残されています。八千代座管理資料館「夢小蔵」には、残っていた下絵を拡大したものか復元してあり、ー枚一枚が丹念に彩色されているのがわかります。最初の広告は、八千代座の設計者である木村亀太郎氏たちの下絵にもとづいて作られました。現在預る天井広告が3代目になるそうです。天井広告は、格子天井や、舞台上部、二階東西桟敷上部の垂壁にはめ込められ、客席全体をあたかも錦絵の世界に仕立てたような特異な雰囲気を作り出していました。

B舞 台

 舞台中央には、直径約8.5mの廻り舞台が設置されています。これは、人力によって操作するもので、成人男性2人程で簡単に回すことができます。
       国指定前の昭和63年5月に行われた文化庁による第1回目の調査で、廻り舞台のレールと車輪がドイツ製であることが判明しました。レールには、「KRUPP.1910.K.6.E」という文字が克明に描かれており、明らかに明治43年に作られたことが分かります。このレールは鉱山トロッコを走らせるために使われていたもので、ドイツの鉄鋼会社クルップ社は、現在でもエッセン市で操業を発売けています。
 また、本花道と同様に廻り舞台にも、人力操作のせり(花道ではスッポンと呼ぶ)が設けられています。
 そのほか、舞台両袖には、舞台に向かって左側に喋子棚(はやしだな)、右側に浄瑠璃や義太夫の語り部屋とされるチョポ床(淳瑠璃床)が配置され、後には馬立、網元、大・小道具置場などがあります。舞台から天井を見上げると、丸竹が格子状に組んであります。これが、葡萄棚(ぶどうだな)です。芝居ではこの上から雪などを降らせます。
 舞台裏は楽屋となっており、1階は8室、2階は9室からなります。ちなみに坂東玉三郎さんが公演時に利用する部屋は、l階東側から3番目の四畳半の小部屋ということです。

八千代座管理資料館『夢小蔵』


●明治の蔵をそのまま


八千代座管理資料館「夢小蔵」は、八千代座の斜め向かいにある白壁土蔵造りの八千代座の資料館です。
 明治20年、豊前街道治いの元角田洋品店敷地内の隠居用住宅兼倉庸として建築された建物で、戦後は白木屋飴製造本舗となり、山鹿名産の浮き飴やもち飴を製造蛎売していました。平成4年に山鹿市がこの建物を買い上げ、資料館として再生し、平成5年8月15日にオープンしました。
 愛称の「夢小蔵」は、公募により決定したもので、夢のような蔵とか夢を育む蔵といった意味が込められています。
 ここには、八千代座の小道具部屋にあった、芝居の小道具を中心に展示しています。展示点数約200のうち、半分が芝居の小道具で、そのユニークきには定評があります。

●八千代座全盛期の様子かふつふつと


l階の和室には、床、棚など、書院づくりの座敷をそのままに、坂東玉三郎が舞踊で着用した着物、新派の花柳章太郎の色紙、八千代座建設当時の書類や興業記録などを展示しています。
 2階には、役者が芝居で使った小道具類がずらりと並べてあります。切れない刀や槍、鉄砲、履物、お面‥‥。全盛期の八千代座の舞台が目に浮かぶようです。
 そのほか、八千代座の構造模型、実際に八千代座で使用されていた昭和初期の映写機、劇団や興業元などが巡業記念に残していった奉納札、八千代座の広告チラシ、八千代座天井広告原画などが所狭しと並べられています。
 また、芝居見物などに使われた重箱弁当、下足札、拍子木なども展示してあり、芝居ファンならずとも足を運びたくなるような展示品でいっぱいです。


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