山鹿市中心市街地活性化基本計画報告書

V.中心市街地における市街地の

    整備改善及び商業の活性化の

            一体的推進の意義

1.山鹿市中心市街地の歴史的位置づけ

【市場町と温泉町の2つの性格でまちが形成されてきた】
●近郷の農家集落と連携し、菊池川水運による流通の集散地として市が立つ「経済・流通の中心」のまちの性格を中世以降持ってさた。
●同時に温泉の発見による温泉町としての機能が一体となってまちが形成されてきた。

【主要街道の整備に伴って宿場町として観光的な性格が加わった】
●近世に入って豊前街道が参勤交代のルートとして整備されるに従い、宿場町として栄え、従来の経済・流通の中心、としての位置づけが強まるとともに、「観光の中心」としての位置づけも加わった。

【明治以降、地方行政の中心として拠点性が一層高まる】
●明治以降、各種行政機関の立地による「地方行政の中心」としての位置づけが強まるとともに、従来からの経済・流通の中心としての機能が隆盛を究め、特に明治中期から後期にかけての商工業の発展は目ざましく、職人町としての性格を強くしていった。

【商工業の発展の中で暮らしの文化が熟成し八千代座の出現となる】
●明治中期以降の商工業の発展とまちの賑わいは、開かれたまちとして外から多くの文化・芸能を呼び込み、それを楽しむ暮らしの文化が醸成していった。そして、明治43年の八千代座建設とそこでの盛んな興行により、「文化の中心」としての位置づけが加わっていった。

【広域の中心としての位置づけと繁栄は昭和50年代まで続く】
●大正末期の鹿本鉄道開通や戦後の山鹿温泉鉄道(山鹿−植木)などの交通機関の発達に支えられ、戦災も受けずに豊前街道を軸とした中心市街地は広域の中心として栄え、さらに市街地再開発事業(プラザ5)や土地区画整理事業、現国道3号や325号の建設などの車社会対応も図られてきた。

【昭和50年代後半からの急速な中心部としての相対的地位の低下】
●自動車の一層の普及と郊外型店舗の展開に加え、中心市街地の商業や文化施設等の魅力の相対的な低下により衰退傾向が進行し、空き店舗の増加や人口減少などが顕著になる。


【衰退傾向と前後して中心市街地の歴史性に着目したまちづくりの動きが始まる】
●昭和60年代に入ってからの八千代座復興の動き、灯籠館の開館そして、歴みち事業の推進や景観条例に基づく歴史的な街並みの改修の動き、さらに八千代座の大改修へと続いている。
●このように、山鹿中心市街地か営々と蓄積してさた様々な歴史的な資源や伝統的な行事等か見直され、それをもとにしたまちづくりの動きが始まりつつある。


Back