1.山鹿市の概況
1)位置及び沿革
●山鹿市は、熊本県の北部、熊本市より約30km北に位置しており、北は
鹿北町、南は 鹿央町、西は菊水町・三加和町、東は菊鹿町、鹿本町に
それぞれ接している。
●地勢は、市の南部を菊池川が東西に流れ、西部を岩野川が南北に流れて平坦地を形成している。北部、東部、西部の3方を山林・緑地に囲まれており、特に北部は標高400〜600mの山系が連なっていて、市中央部は山鹿盆地を形成している。
●山鹿市は、豊かな自然環境と縄文時代以来の優れた史跡が数多く累積する県下でも有数の装飾古墳の宝庫である。
●また、約800年前に「鹿」が浸っていたことから発見されたという古くからの歴史を持つこの土地の温泉は、江戸時代には参勤交代の宿場町として栄え、温泉と灯籠で広く知られる田園観光都市である。
●昭和29年4年に市制となり、市木は「もくせい」、市花は「つつじ」である。山鹿市が目指す都市像は、総合計画において「緑と光の湯トビア」を地域づ くりの基本テーマとして掲げている。
2)山鹿市の都市形成の経緯
(1)成立期の山鹿
●8世紀前半の「筑後国風土記(逸丈)」に「山鹿」の名称が初見できる。
(2)中世期の山鹿
●12世紀中頃の湯町は、山鹿温泉の発見も手伝い、冶所所在地かつ河港かつ門前の市場町かつ温泉町としての機能が一体となった町場的様相を呈していたと考えられる。
●中世期の山鹿は、各地に分散する集落の余剰生産物の集散する流通の 中心に位置し、河港を抱える市場町(在町)と湯町が結びつけられていた都市構造であり、今日の山鹿の都市基盤は概ねこの頃に形成されたと考えられる。
(3)近世の山鹿
●16世紀には参勤交代のルートとなる豊前街道が肥後の主要街道として整備されたり、温泉の整備が進められるなど宿場町としての基盤が整った時期とみられる。
●18世紀の湯町は、山鹿大橋の完成により入湯場としてさらに賑わいを見せ、山鹿傘づくりなども盛んとなり、現山鹿市域の経済中心を担うにいたった。
●近世期の山鹿は、中心地であり物資の集積地である山鹿湯町と散在する近郷集落とが菊池川をはじめとする河川の水運により有機的に結びついたといえる。
(4)近代の山鹿
●明治初期の山鹿中心街には桜揚がある、江戸期の参勤交代路が国道3号線となり、山鹿〜南関、山鹿〜隈府が県道に指定される。
●昭和26年には山鹿温泉鉄道が開通したが同40年に廃止、明冶43年には八千代座が建築されるが、昭和50年には中心部の再開発により桜湯が姿を消した。
図.近世の山鹿の中心地
(都市計画マスタープランより) |