上信・根子岳〜四阿山〜鳥居峠


1973.11.23〜24 佐々木、長崎
 山荘ワーク合宿のついでに、貪欲に根子岳(2128m)・四阿山(2333m)越えを決行したが、初冬の山を甘く見たおかげで手痛いシッペ返しを受けた。11月としては多量の積雪に見舞われて下山が遅れ、無届けだったことも重なり遭難騒ぎを引き起こしてしまった。

 11月23日(晴れのちガス) 上田からの始発バスを菅平高原で下車。一面の銀世界に驚かされる。積雪は約15センチ。抜けるような空の青さと雪化粧した山々を見たら、先行きの不安など微塵も湧かず、むしろワクワクした。8時30分に歩き始め、三本松コースに向かう。体育研究所のわきを通過するあたりで、ツボ足のため早くも息が切れた。登山届ボックスがあったので記入していく。牧柵に沿って真っ直ぐ旧ツアーコースを登っていく。吹き溜まりでは足をとられ歩きにくい。

 いったん疎林帯に入り、総視平で再び抜け出すと、もう根子岳頂上は間近だった。強い風がまともに受け寒い。菅平は一望のもとに見渡せ、白銀の北アルプスの眺めもさえぎるものがなかった。ただし妙高方面を覆っている黒雲が、次第に近づいてくる気配だった。と思うや雲の一端がまたたく間に根子岳、四阿山を覆い隠した。頂上手前でちょっと様子をうかがうが、まもなくガスが晴れて四阿山も姿を出し始めたので、とまどいも消えてしまった。13時40分、頂上着。

 寒い中、昼飯をそそくさと口に押し込んだ。四阿山経由では微妙な時刻となり、先を急ぎ早く下山して安堵の境地を味わいたかった。眼前の四阿山まで無積雪期のコースタイムを描いたのが誤りだった。下り始めるとすぐ濃いガスで視界が悪化。深くなっていく雪に鞍部付近から腰まで埋まるようにさえなった。オーバー手袋はおおいに助かったが、スパッツがはずれ靴の中に雪がつまってしまい、靴下が濡れているのに気づいた。おまけにオーバーズボン代わりにはいていたビニール雨具も寒気のせいでビリビリに破れてしまった。長崎はオーバーズボンをはいていたので大丈夫だった。

 ガスは晴れず、視界は50mくらい。四阿への登り返しは慎重に磁石で確認しつつ、深雪のラッセルにあえいだ。ヒョッコリ飛び出したところが肩の指導標でホッとする。17時30分になっていた。樹林帯と違い、吹きさらしで寒い。すでに暗く、指導標の文字も消えかかって判読できなかった。とにかく進もうということになるが、鳥居峠への下りは広い尾根をはずさないよう磁石頼りだ。雪が深くライトをつけながら腰までのラッセルはきつくなかなか進まない。自分は濡れた下半身がなんともだるく、かなりバテを感じていた。

 ビバークは早めにしたほうが良いと思い、元気にラッセルをしている長崎に話してみたが、こんな雪の中でのビバークは死を意味すると受け止めたのか、OKしてくれない。それでも19時30分、長崎を強く説得してツエルトビバークに決定。雪を踏み固めて整地していると、いつのまにか夜空には星が輝いていた。ふと見えた菅平の光を救援隊のかざすライトと思い二人でヨーデルをかけてみたが、それがロッジ群の灯りだと気づいて背筋が寒くなった。靴をはいたままシュラフにもぐりこんでしまった。

 11月19日(晴れ) 山荘で待つ皆を心配させていると思うとつらく、ほとんど眠れなかったが、快晴無風の朝を迎えたのは幸運だった。8時10分、予備食(バターココナッツ)で朝食をすませて出発。振り返ると頂上はすぐ上に見えた。下るに従ってラッセルは楽になりどんどん下る。的岩尾根分岐(2037m)からは東稜線を下る。途中、コンデンスミルクと食パンで昼飯を食う。12時頃、長崎がヨーデルの練習をしたら的岩尾根からコールが返ってきて、我々を捜しに来た山本さんと牧田さんであることを知る。鳥居峠(1362m)に 13時25分着。13時40分、捜索隊と合流し、バスで鹿沢の山荘に向かった。山荘で大目玉を食らったのは当然である。

 【コースタイム】 (11/18)菅平高原8:30 根子岳13:40〜14:00 鞍部15:25 四阿山の肩17:30〜18:40 2300m地点19:30〜(11/19)8:10発 2037m分岐10:10〜30 鳥居峠13:25

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