中央アジアの山旅 3


【4,300mのビバーク】
 チムタルガを断念した私たちは、その後の行動を各人の希望により、二手に分けることになった。不完全燃焼派は、日帰りでポリテクニック(4,400m)北稜へ。満足派は、美しい湖が点在するクリカロン湖へ2泊3日のトレッキングに出かける計画だ。

ポリテクニック北稜 N隊長、Y、Mと私の4人はBCを6時30分に出発。ポリテクニック取り付き点へ向け、教えられたとおりの道を行く。途中、アラオルディン湖畔の旧東ドイツの人々のキャンプ村を通り抜ける。まだ起きている人はいない。顕著な尾根上に上がると、目指すポリテクニック北稜と、その左奥にチャプダラの勇姿が現れる。このチャプダラという鳥が羽を広げたような姿の山は、『岩と雪』誌の「知られざるソ連の山」特集で、チムタルガとして紹介されていた。この誤りについては、キャンプリーダーのユラーも指摘していた。岩稜基部で大休止。すでに取り付いているパーティーがいるようで、上部から男女のコールが聞こえる。高度計を見るとちょうど3,000m。頂上まで高度差1,400mの岩稜だ。この時点で、ロシア人の「半日で登れる」という話に疑問をはさむべきだったが……。BCからの見た目では15ピッチ程度と考えていた。日本の山のスケールがここでは通用しない。

 8時にYと佐々木、N隊長とM女史がザイルを組んで登り始める。易しくグイグイ登れるが岩はもろい。残置ハーケンは全くなく、ビレー用に使ったハーケンを回収していく。2時間ほど登って、いったん合流し、休憩。先はまだまだ長そうだが、天気は上々だし、快適なのでまだあせりはない。エメラルド色した眼下のアラオルディン湖が美しい。傾斜が強くなり、部分的に4級を含むピッチもでてくるが、さほど困難ではない。

 北稜の核心ともいえる部分が22ピッチ目で、ちょうど私のリードの番。正面のリッジを避けて右に斜上するバンドがルートだ。足下がスッパリと切れ落ちた高度感あるトラバースとなる。中間にフレンズでプロテクションをとる。トラバースの終了点で45mザイルが伸びきり、ビレー用にフレンズをセット。効き具合を確かめようとして引いたとたんだった。一抱えもある岩が抜け、体をかすめて轟音とともに落ちていった。別のクラックにセットし直すが、このあたりの岩はみな浮いているようで怖かった。

 すでに午後2時、登り始めて6時間たった。後続は2、3ピッチ遅れているようだ。登っても登っても岩稜は続き、次第に焦りを感じる。ザイルがずれただけで落石を起こす。後続はさぞ怖い思いをしていたことだろう。上部は洞窟の穴を抜けていくと聞いていたが、なかなか現れない。ようやく洞窟の下についたのが午後5時30分。もう30ピッチ目を数え、どうなってんだと不安になる。雪渓の残る穴を抜けると、傾斜が落ち、ようやく頂上を望むことができた。

 先行していたパーティーが左手のガレ尾根を下っているのが見える。女性の方がもたついているのか、大声を出している。彼等も下山を急いでいるのだろう。下山ルートもちょっといやらしそうだ。陽はどんどん暮れていく。私達を誘導するため、下山ルートを登ってきたインストラクターのコールが聞こえた。Yは、頂上方面に彼等の姿が見えるという。午後8時過ぎ、日没とともに終了点についた。頂上はもうちょっとだが、実に38ピッチも登ってきたのだった。ヘッドランプをつけ10mクライムダウンすると広いテラスがあり、インストラクター2人と合流。後続はライトの位置から4ピッチほど下でビバ−クを決めたらしい。

 「しまった」と思った。食料と水はすべて後続が持っている。午前中に一度休憩した時以来、何も口に入れていなかった。しょうがなくガイドの持ってきてくれた食い物をわけてもらう。チョコレートと果物の缶詰め、そして黒パンにキャビアをのせて食べる。これがまたウマイ。4,300mの山上でキャビアを食うなんて、考えようではぜいたくな話である。量は少なかったが生き返る心地だった。

 日帰りのつもりだったから、ツェルトやシュラフもない。雨具やセーターなどすべて着込んで身を寄せ合い、ロシア人の持ってきたナイロンシートをかけただけのつらいビバークとなる。星はこうこうと冴え、かなり冷え込んだ。Yが「岩登りのときは必ずシュラフカバーをザックに入れておいたのに…」とぼやいていた。結局、後悔と不安が交錯してウトウトしただけで夜が明けた。夜明けとともに登ってきたN、Mと合流し、頂上に向かう。少し雪がちらつき、展望は得られなかった。

 下山ルートは段差部分の下降点が不明瞭で、チャプダラの大岩壁基部の雪渓に下り立つまで安心できなかった。雪渓が終わりモレーンを下っていると、心配して迎えにきたドクターらの姿がみえた。彼等にいわせると、この程度の岩稜ではダブルロープは使わず、コンテニュアスで一気に登るという。それにしても「半日で登れる」というロシアタイムにしてやられた。力量の違いといえばそれまでだが、無事下山できたことだし完全燃焼させてもらった。BCに戻り緊張が緩むと、再び下痢が猛威を振るい始めた。あんな岩稜を登りに来る日本人なんて我々が最初で最後なんだろうなと、しゃがみながらポリテクニックを眺めて思った。(おわり)
 
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 1991年末のソ連崩壊後、いまだに旧共産党系の政府軍とイスラム系反政府勢力との内戦状態が続いているというタジキスタン。緑の濃さが印象的だった美しい首都・ドゥシャンベはどうなっているのだろう。そして共に登ったタジクの山男は…。通訳のルーダ女史はアメリカに移住するといっていたし、ガイドのドイツ系ロシア人ペーターもドイツ亡命を希望していた。ファン山群にはその後、95年に京都の人達が出かけ、エネルギアに登頂したが、チムタルガは敗退、そのほか4,000m峰でのクライミングを行ったと聞いている。
                 



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