中央アジアの山旅 2


【エネルギア登頂】
 どこにでも同じようなことを計画する物好きがいるものだ。タジク共和国のゼラフシャン山脈に、1990年の解禁と同時に入山した日本人がすでにいたのである。資料のない私達にとっては、貴重な情報源だ。エネルギア(5,162m)にチャレンジした京都の登山隊の隊長・H氏に会えたのは91年2月。この時、初めてエネルギアとチムタルガ(5487m)の写真を見ることができた。チムタルガは懸垂氷河をかけ、なかなか険しい山容。コルをはさんで立つエネルギアはやや傾斜が緩く、これは登れると直感した。しかし、京都隊は頂上直下の固い雪壁にはばまれ断念、ザモーク(5,201m)に転進して日本人初登頂を果たした。

エネルギアの雪壁 目標の山を写真で確認したことでトレーニングにも熱が入り、5月G・Wの穂高・滝谷合宿で総仕上げした。後で聞いたことだが、もし最初に潰れるとしたら佐々木だろうと、留守の連中は噂していたらしい。だが、会に復帰してからの1年半というもの、学生時代よりもせっせと山に通い、ほとんど毎週山行をこなした。充実しているときは、仕事も苦にならないし順調にこなせるものだ。

 準備万端整った7月26日、新潟からハバロフスクに飛んだ。タシケントを経てサマルカンドに着いたのは、3日後の29日。有名なメドレセ(中世のイスラム教学校)を見た後、専用バスとトラックを乗り継ぎ、7時間かかってBC(2,700m)へ。予定より半日以上遅れの30日午前1時だった。BCではキャンプリーダー、インストラクター2人をはじめ、ドクター、通訳、コックなど8人が迎えてくれた。国際キャンプといっても参加したのは我々だけである。実質10日間の短期速攻なので日程に余裕はなく、さっそくABCへ荷上げしないと計画から1日遅れになる。はやる気持ちの私達に現地スタッフが待ったをかけたので、口論してしまった。「君達は長旅で疲れている。今日(30日)はモートノエ湖(ABC予定地、3,500m)まで高度順化のハイキングだ」と彼等は言う。どうやら昨年の京都隊のことが頭にあるらしい。下痢等のために思うように動けなかったことは私達も聞いていた。「我々は強い。自分達の計画通りに動きたい」と言い張ったがダメだった。

 私達が、これほどに強く主張するのには理由があった。BCに着くまでの勝手なソ連ペースが気に入らなかったのだ。まずハバロフスクで予定の便に乗れず半日足止め。まあ、こんなことはザラだろうから気にしなかった。しかし、タシケントに着くとホテル泊まりのはずが、迎えの車で1時間も走って郊外の農家に連れていかれた。歓迎の宴会が用意されていて、明け方まで飲み、そのまま星空を見ながら寝た。翌日は、炎天下の市内観光引き回しだ。京都隊からも気をつけろと言われていたことだ。国際キャンプ参加料金には、観光でしっかり金を落とすよう組み込まれているようだ。ホテル代をまるまるはねてまで外貨稼ぎをしたいらしい。

 ソ連の山はヒマラヤのように長いキャラバンをする必要がなく、車やヘリコプターでいきなりBCに運んでくれる。短期間の登山には便利だが、体が順化する間もないので失敗も多いという。ポーターはおらず、自分達の荷物は自分で担ぐのが原則。自分達で自由に行動したいといっても、経験不足の私達はやはり彼等の意見に従うしかない。

 打ち合わせの結果、31日は休養、8月1日にABCまで行き、2日(4,200m)、3日エネルギア登頂後、一気にBCへ下る。1日休養後、チムタルガには残りの5日間を充てれば十分可能、と決まった。チムタルガでは事故も多いらしく手順としてはまずエネルギアから、という計画だから異存はない。しかし、予定通り確実にエネルギアを落とさないと、より難しいチムタルガに登るのは日程や技術的にも、とても無理になる。困難な分だけチムタルガに魅力を感じていた私達は、雪と岩のミックスクライミングを前提に100mの固定用ロープをはじめ、ユマール、ボルト、アブミなど、装備面では万全を期していた。

 BC周辺は、小川に囲まれた美しい平坦地だ。近くに夏の間だけ登ってきて生活している遊牧民がいて、作りたてのヨーグルトをもらって食べた。雪を被った山はヨーロッパアルプスのようだ。エネルギアやチムタルガの姿は、その奥で見ることはできない。モートノエ湖を往復した翌31日から体調がおかしい。現地の脂っこい食事がノドを通らなくなってきた。夜に振る舞われるウオトカもとても飲めず、若いHとYにロシア人の相手をさせてしまう。ドクターのギターとともに彼等の歌はなかなか聞かせてくれる。日中は装備の点検をしたり、近くのボルダーを登って過ごす。どうも岩登りテストをさせられたようだ。聞けば「装備点検だよ」ととぼけられる。驚いたことにロシア人は、麻のザイルをいまだに使っている。しかし、岩登りはとてもうまい。装備は粗末だが、技術・体力は私達の比ではない。

 ABCに向かう8月1日、バテる姿など国内では見せたこともないM女史が、かなりの不調に陥った。下痢と腹痛。モートノエ湖からはチムタルガと、その左にエネルギアが望まれる。乾燥地帯のせいか、それほど氷河は発達していない.2日は、チムタルガの氷河からモートノエ湖に注ぐ沢を渡って、長いモレーンを登っていくのだが、すぐ息切れするので苦しい。自分にとって初めて経験する高度だ。やたら眠気がしてヨレヨレで4,200mの氷河台地に着く。その夜は激しい頭痛に見舞われた。全員、何らかの高度障害が出始めている。こんな状態ではたして登れるのか、と不安になる。

チムタルガ峰 3日、いよいよアタック。7時半に出発する。エネルギアとチムタルガのコル(4,700m)目指して、歩きにくいモレーンを登っていく。ゆっくりと各自マイペースを心がける。しかし、N隊長とYが不調で大幅に遅れる。コルを少し登ってアイぜンをつけ、ザイルを結び合う。気温は高めで問題の雪壁は固くなく、どうということもない。=上写真=最大傾斜60度を3ピッチで抜け、岩を右に回り込むと頂上だった。

 見渡すパミールは広く、もしやと期待した7,000m級の高峰も波打つ山々の彼方だ。対峙するチムタルガは険しい岩峰で、かなりの困難を伴いそうだ。私自身が明らかに体調の下降を感じてきており、残された日数で仕切り直せるかは白身がなくなった。そう思わせるに十分のチムタルガの姿=下写真=だった。登頂を断念したものとばかり思われたYは、下府に悩まされながらも驚異的な頑張りで2時間遅れで頂上に辿り着いた。C1帰着が19時を過ざたので、BCに戻れない。体調が回復してきているM女史は、今夜中にBCへ帰ろうと一人意気込み、チムタルガ挑戦に執着した。

 BCに戻ると、ついに来るべきものがきた。サマルカンドのハミウリか、遊牧民のヨーグルトか、それとも食事の油(ギー?)がよくなかったか?注意はしていたつもりだが、不覚をとってしまった。シユラフを汚してしまうほどの、恐ろしい下痢だった。登頂日に当たっていたら、まず登れなかっただろう。Yなどは10m歩くごとにしゃがんだというのだから…。ミーティングでは、燃焼派と不完全燃焼派に意見が分かれた。体調不良で苦しんだものの、あっけなかった登頂に対する不満。一方、ともかく第一目標の日本人初登を果たしたことで肩の荷が下りた安堵感。その評価の違いが隊員に表れた。

 本命のチムタルガはもう無理だが、満足できるルートはないだろうか。特に2時間遅れの登頂となったYぽ苦しんだものの、登攀リーダーとして力を発揮するところがなかっただけに、納得できないものがあるらしい。一般に高所登山(6,000m以上)では、実力の7割も出せればいいという。「たかが5,000m級」とタカをくくったわけではないが、海外登山における体調管理の難しさを思い知らされた。体力的には、ヒマラヤ経験のあるFと一番若く25歳のHが、やはり安定していた。

 今後の予定についてインストラクターは、京都隊が登ったやさしいザモークを勧めた。でも我々は、「ピークハントはもういい。どこか適当なクライミングルートはないか?」と希望したところ、「ポリテクニックのノースリッジ(北稜)なら快適な岩稜で半日で登れる」という。それはBCからもよく見える、雪のついていない三角錐の端正な4,400mの岩峰だった。それとすぐ分かる顕著なリッジがルートだ。「チムタルガ断念の無念さを4,000m峰での岩登りで晴らすのも面白そうだ」。下痢もひどいが、またやる気が出てきた。しかし、次の日、そのポリテクニックで思いがけなく危ない橋を渡ることになろうとは露ほど思わなかった。



 
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