中央アジアの山旅  1


【はるかなる山々】
 3週間足らずの短い日数ながら、私にとって海外初登山の地が、憧れていたパミールだった。1991年夏から加速していったソ連崩壊だが、出掛けたのは、そんな動きを予想だにしなかった7月下旬。そして帰国一週間後に、崩壊への序章となったおそまつなクーデター事件が起きた。思いおこせば、歴史的変化と混乱の予兆を人々の表情に感じた、貴重な体験をした山旅であった。

 参加のきっかけは偶然の成り行きだった。89年12月、所属していた山岳会の集会を、7年ぶりに覗きにいったのだった。そこでは創立20周年記念の海外遠征が持ち上がっていた。「一緒に行こうよ」とのN会長の誘いに、「ソ連の山ですか。パミールなら行ってもいいなあ」と休暇や金のことなど考えず、あっさり受けてしまった。

エネルギア山 会では当初、6,000m級の未登峰を漠然と描いたが中座、代わってペレストロイカの進むソ連が解禁する未知の山々に興味が移ってきていた。有力候補は、秘境のベールに包まれたカムチャツカ半島最高峰・クリチェフスカヤ山(4,850m)、それがだめならパミールか天山周辺を狙っているという。しかし90年春になって、固執したクリチェフスカヤ山の許可は、軍事上の理由でなかなか困難と知らされた。おまけに東京雲稜会が90年夏の登山許可を得た旨、大きく新聞報道されてしまった(出発間際に許可取り消しで中止。翌年、同志社大隊が日本人初登頂)。

 先を越された私たちは、目を中央アジア方面に向けざるを得なくなった。そのほか「ハバロフスクの北方にあるバジャール山脈の2,000m級で沢登りはどうだろうか」との、途方もない案も出してみた。ソ連通の旅行社の人からは「面白そうですね。でも未開の山なので札幌から大雪山を目指すようなものですよ。シベリアの虫はすごいし、クマも…」で、あえなくおじゃんに。

 パミール周辺という設定は固まったが、秋になっても具体的な目標は決まらず、いらだちはつのり始めた。91年夏の遠征のためには年明けを前に最終決断が必要だ。パミールといえば西側外国人にとっては、レーニン峰やコミュニズム峰などの高峰が国際山岳キャンプ方式で登れるだけだった。しかし、パミール西端に位置するゼラフシャン山脈も、タジク共和国が90年から西側外国人に開放して国際キャンプを開設しており、自由に登れるようになったという。前衛の山脈ながら氷河を抱いた5,000m級が数座ある、日本人も今までほとんど入山したことがない山域だ。

 これらの情報を検討した結果、目標はゼラフシャン山脈ファン山群の最高峰チムタルガ(5,487m)とエネルギア(5,162m)=上写真=に絞った。3週間で個人負担50万円以内のライトエクスペディションだが、知られざる山々を目指していた私たちの条件に合致する。登れば日本人初登などというのは、そうザラにできることではないし、ちょっとした魅力だ。シルクロードの交易で栄え、青の都とよばれたサマルカンド(ウズベク共和国)から入山するということだけでも、ぞくぞくする興奮を覚えた。出発まで7カ月余りと迫った1990年12月末、山の写真も地図もろくにない、はるかな中央アジアの山に向けて6人のメンバーの重い腰がようやく上がった。



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