丹後の山猫退治

 戸祇御前山(946m)は、地元では一般に戸祇山(とぎさん)と呼ばれている。伝説の霊峰で、天正8年(1577年)戦に負けて逃げる途中この山で命を失った「戸祇御前」の悲話哀史が残る。地元に伝わる「丹後の山猫退治」のあらすじは次の通りである。

 戸祇山には山猫が住んでおり、夜になると里に下りてきて家畜を食い殺した。この山猫は何百年も生き、人の言葉さえ聞き分けることができるといわれた。

 困った村人達は大藤に丹後という鉄砲名人がいることを聞き、山猫退治を頼んだ。快く引き受けた丹後は村人の案内で戸祇山に向かった。
谷川沿いに上り、雄滝・雌滝のそばの険しい山道を登り切ると、山頂が見えた。草原の真ん中あたりが踏み荒らされたように横倒しになっている。村人によると「毎夜ここで山猫どもが踊り明かすので、このように踏み荒らされている」ということだった。丹後は草原を見通せる場所に身を隠す囲い作り、村人を帰した。

 その夜、大小数百匹の猫の群れが草原に集まり、人間と同じように二本足で踊り始めた。その群れの真ん中に大猫がおり、その猫に狙いを定めて丹後は銃の引き金を引いた。しかし、猫の群れは見る見る間にかき消え、大猫の爛々と光る目だけが、丹後のほうを睨みつけている。もう一発もう一発と打ち続けるがカーンという音だけが返ってきて、山猫はあざ笑うかのごとく、草むらの向こうへ消えていった。それから毎日銃を打ち続けるが一向に仕留めることはできなかった。

 やがてその年の大晦日の晩、今度こそはと丹後は草原を見据えていた。

 山猫達は「今夜は大晦日の夜、丹後もいないだろう。蓑も笠も脱ぎ捨てて踊ろう」と何やら脱ぎ捨てて踊っている。狙いを定めて丹後が銃を撃つと、ギャーという悲鳴とともに大猫がとびあがった。その途端、戸祇山全体が揺れ動き、激しい風が吹き荒れた。やがて揺れと風がおさまり、大猫のところへ近寄って見ると、大猫の全身は銀の針のような毛で覆われ、近くには沢山の弾痕のついた大釣鐘がころがっていた。

 それから後、この地方は丹後の生誕地の大藤の名前をとって、「小倉大藤谷」と呼ばれるようになった。

                ◆

 丹後という鉄砲名人は実在した人物なのかどうかは未確認だが、「丹後の碑」が広見町小倉大藤に建っていて、「丹後の墓」もあるという。