相良の猫騒動

 戦国時代の天正10年(1582)、人吉の相良氏は薩摩・島津氏と敵対関係にあり抗争中だった。そんなとき市房神社の別当寺である真言宗・普門寺5世の住職盛誉和尚は島津方に寝返ったと噂が立った。恐れおののいた領主相良氏は3月16日に、噂を確認せぬまま無実の盛誉和尚を殺し、普門寺も焼き払ってしまった。

 盛誉和尚の母玖月善女(くげつぜんにょ)はこれを恨みに思って相良氏に復讐を誓い、これまでかわいがっていた猫の玉華(たまたれ)と共に市房神社に篭り自分の手を自ら噛み切り、その血を玉華になめさせ怨霊となって相良一族に祟るように言い含め、自らは川に身を投げて死んでしまった。

 するとまもなく相良一族に「化け猫玉華」による不吉なことや、悪いことが次々起こり、この崇りを恐れた相良家では盛誉と玖月の恨みを鎮めるため、普門寺の在った所に新たに生善院を建立した。生善院は別名「猫寺」と呼ばれるようになった。寛永2年 (1625)にはまた別に観音堂を建て盛誉和尚のため阿弥陀如来を、玖月のためには千手観音を祭り、毎年3月15日は市房神社に3月16日は猫寺に参るよう命じ、藩主自らも参ったという。

 生善院観音堂は現在、国の重要文化財に指定されており、地元では毎年3月15日に市房神社に参る「おたけ参り」という年中行事が今でも行われている。