重倉山の猫又退治
 重倉山の猫又については、天保8(1837)年に記された古文書(写本)「猫又退治之次第」に詳しい。

 「天名(てんな)2年(1682年)、越後国中野俣村の重倉山にどう猛な狸(ねこま)が現れた。狸が次々と3人の村人を襲って殺したため、たまりかねた村人達は代官所へ願い出た。代官岡登治郎兵衛は弓、鉄砲で武装した足軽50人派遣し、村人も召集して総勢1000人以上で狸退治に出かけた。が、狸のおそろしさに足軽もすっかり尻込みしてしまった。そこで村一番の強者、吉十郎(40歳)を担ぎ出すことになった。吉十郎は病で寝ていたものの皆のためならと、ひとり猫又に立ち向かった。激闘の末、吉十郎は狸の喉を先祖伝来の刀で突き刺したが、相討ちで命果てた。狸の死骸は高田の代官屋敷に運ばれ、江戸から呼んだ役人によって猫又と同定された。猫又が埋められたのは代官の屋敷裏で、その場所を猫又塚と称した」というのが概要である。

 伝説によっては古文書の内容と異なる部分がある。例えば、吉十郎は病で寝ていたのを無理矢理担ぎ出されたのに対して、「私に退治させてください」と自ら申し入れたことになっていたり、相討ちで果てたのに「虫の息の吉十郎を、武士達が背負って帰り、介抱したが間もなく死んだ」と変えられている。古文書では、相討ちで果てた吉十郎の手柄を足軽達がネコババしようとして村人達と悶着を起こしたという。

 重倉山の猫又は猫らしからぬ姿だったらしい。古文書では、飛びかかるさい「ワン」と発声したとある。これではまるで犬だ。ほかの伝説では「襲った家畜の生き血を吸い、大きさは子牛ほどもあり真っ黒。飛鳥のごとく動きは速く、矢も鉄砲も受け付けない硬い体」「火のようにギラギラした目、針のように逆立った毛、耳までさけた口」などと表現されている。恐ろしい怪獣を強調するあまり、肝心の尾が二股だったかどうかなどには全く触れられていない。

 中野俣村は現在の新潟県上越市中ノ俣であり、猫又伝説が語り継がれて吉十郎の子孫という家もあるという。人が襲われた「角間」、吉十郎が命果てた「木之芽坂」の地名や、村人らが猫又退治を祈願した「気比大社」が現存する。

 なお、湯口康雄氏は「黒部・猫又伝説異聞 『猫又退治之次第』をめぐって」(『黒部奥山史談』桂書房 1992)で、黒部・猫又山の伝説は「猫又退治之次第」のアレンジと推論している。