猫沢・猫峠・猫島・猫温泉の伝説

●猫川の主は猫
 猫川について『遠野物語拾遺 176』(角川文庫)には、「青笹村の猫川の主は猫だそうな。洪水の時に、この川の水が高みへ打ち上がって、たいへんな害をすることがあるのは、元来猫は好んで高あがりするものであるからだといわれている。」とある。

●中山峠と「お島の猫」
 
キリスト教が禁じられた江戸時代、相川にお島という美しい切支丹信者が住んでいたが、捕らえられ死罪を言い渡された。その晩、奉行所の吟味役渡辺藤左衛門が、密かにお島の牢をたずね、自分も隠れ切支丹であることを打ち明け、牢を開けるから逃げるようすすめた。しかし、すでに死を覚悟していたお島は逃げずに、翌日夕、中山峠ではりつけにされ若い生涯を終えた。
 ところがその日の夜半、死んだはずのお島が旅姿で奉行所に現れた。お島が語るには、数日前に父が危篤とのしらせを聞き、羽茂(はもち)の実家へ帰ってみたら父は元気そのものだった。その帰りに切支丹お島が中山峠ではりつけにされたと聞いたという。そのため「どうなっているのかお調べを」と願い出たのであった。驚いた奉行がすぐに部下とともに中山峠の刑場に行ってみると、十字架の上で血を流して死んでいるのは、お島の家で飼われている大きい白猫だった。うろたえた奉行は真夜中ながら役人を集め不手際の善後策を協議した。その時、渡辺藤左衛門が進み出て奉行所の顔が立つよう処理すると願い出た。
 一切を任された藤左衛門はただちに馬に乗って刑場に行き、白猫の死骸を埋めて、「切支丹お島の墓」と書いた墓標を立てて帰った。そしてお島を呼び出し、「切支丹お島の名をかたった不届きの女だ。罰として相川を所ばらいし、羽茂へ流罪とする」と言い渡した。
 その後、お島は親元で隠れ切支丹として信仰の生涯を送ったという。このためお島の墓は、中山峠の「殉教者お島の墓」と羽茂大蓮寺の「隠れ切支丹お島の墓」の二つがあるのだという。 

●石峠の「踊りに来た猫又」
 松川(守門村)の鎮守様のお祭りは毎年大変なにぎわいで、近郷の若い衆が集まって飲んだり踊ったりで夜通し騒ぐのが通例だった。ある年のお祭りの晩、見知らぬ若い衆が三人やってきた。三人とも見たこともない美男で、村の娘たちの目をひいた。踊りや歌はうまかったが酒はいくら勧めても一口も飲まず、若い衆はおかしいとは思ったがその晩はそれで別れた。
 翌年のお祭りにもその三人がやってきた。やはり酒は飲まず、どこの村の若い衆かとたずねても笑っているばかりだった。ただ黙って踊りの輪に入って踊るだけの三人を、村人たちは不思議がって見ていた。踊りがおわって逃げるように鎮守様の境内を離れる三人を、村の若い衆頭があとをつけてみた。
 暗い夜道を黙々と歩く三人はやがて高倉谷から山へ向かい石峠へと向かっている。衆頭は、三人が栃尾からきたのかと納得しかかったが、そんな遠くからわざわざ踊りにくるなんてやっぱりおかしいと確信した。峠の頂き付近のとある曲がり角を曲がったとたん、三人の姿がふっと見えなくなった。はてと思いつつ立ち止まり、あたりをきょろきょろ見回したが姿がない。不思議だと思いながら一歩踏み出した彼の前に、突然大きな猫が三匹現れガオーッと牙をむいた。
 若い衆頭は腰を抜かさんばかりに驚き、悲鳴を上げて峠道を駆け下った。峠の下で近くの家にころがりこんで事の次第を語った。まさか山猫が踊りにくるとは思わなかった、と。そのとき彼は、三匹とも尻尾の先が二つに分かれて猫又になっているのを見たという。

●猫坂峠の「逢い引き猫」
 この峠は、富山県婦負郡婦中町高塚と平等を結んでおり、昔そこで高塚と平等の猫が逢い引きしたという伝説から猫坂峠と呼ばれている。

●可部峠の「猫の七継ぎ松」
 江戸飛脚が朝早く、この峠の辻の宿屋を立った。峠を少しおりかかったとき、後ろから七匹の大きな猫が追いかけてきた。飛脚がそばの松の木に登ると、七匹の猫がつぎつぎに手を延ばしてきた。刀を抜いて猫の手を斬り落とすと、猫はみんな逃げた。飛脚は猫の手を風呂敷包みにいれたまま、江戸に行った。その帰りに、同じ宿屋に泊まり、その家の婆に会わせてくれと頼んだ。
 強いて飛脚が寝間に行き、婆の手を出させると、片手がない。飛脚が斬り落とした手とぴったり合った。婆を斬り殺すと、猫の正体をあらわした。三年前にこの茶屋の婆を食い殺して、猫が婆に化けていた。それ以来、飛脚が登った松の木を、七継ぎ松と呼ぶようになったという。

●ヤゲ峠の「化け猫退治」
 
昔、ヤゲ峠に化け猫が出て人を襲うというのでたいそう怖れられた。そこで鉄砲名人の与茂之丞(よものじょう)に化け猫退治を頼んだ。ところが毎晩、与茂之丞が見回っている間は、姿を見せない。そこで祭りの日ならば、化け猫も油断しているだろうということで隠れていると、案の定出てきたのは、大きな三毛猫であった。これぞ化け猫の正体と、与茂之丞が鉄砲を撃つのだが、いくら撃っても弾を跳ね返してしまう。逆に化け猫のほうが与茂之丞に向かってきた。とうとう最後の弾を撃ち尽くした与茂之丞は、お守りの八幡大菩薩と刻んだ弾を鉄砲に込めて撃った。これが、当たり化け猫を退治することができた。その猫を見ると家で飼われていた三毛猫が年をとって妖怪となったものであった。そばには茶釜のふたが落ちており、これで弾をよけていたのであった。これ以後、村の人々は、三毛猫を飼わなくなり、茶釜のふたも木にするようになったとのことだ。

●ニタ峠の「猫の化身・ニタ殿」
 熊本県天草郡河浦町西高根にあるオオヤマという約200mほどの山のニタ峠という山頂に岩屋があり、そこにニタ殿(にたどん)という猫の化身の仙人がすんでいる。このニタ殿が地区の猫の取り締まりをしているという伝えがある。家で飼っているすべての雄の若い猫を神通力で集めて、研修をするという。飼い猫の若い雄猫が、理由もなく何日もいなくなり家の人が心配していると、ひょっこり帰ってくることがある。これを世間では猫がニタ殿のところに、位上げに行ったのであろうという。

●入来峠の「棺を奪う化け猫」
 江戸時代、入来の地は入来院という地頭が治めていた。普段は薩摩の城下に家来として住んでいたが、あるときこの入来院が急に亡くなってしまった。亡骸を入来の地におさめるため、運ぶことになった。秋の日だったので、入来峠にさしかかった時にはすっかり暗くなっていた。棺をかついだ行列がそこを過ぎようとしたとき、重いはずの棺が急に軽くなった。一行は不思議に思い、棺をそっと開けてみた。すると遺体が空中に浮かび、みなびっくりして腰をぬかした。遺体はみるみるうちに山のかなたに飛んでいってしまった。
 それからというもの、地頭様が亡くなるたびに同じことが起きたため、人々はこれは化け猫のしわざだと噂しはじめた。中には黒い大きな猫を見たという者まで現れた。困り果てた入来の長老たちは話し合って別の道を通すことにした。長い年月と村人の労力が費やされてようやく道が開通し、無事にご遺体を運ぶことができたという。入来の化け猫はその後、長く語り伝えられた。

●猫島の「猫ミイラ」
 猫島(ねこじま)は鳥取市西部の湖山池にあり、周囲80mの小島である。島の中央部は弁財天をまつる祠があり、弁天島とも呼ばれる。昔、湖山長者の娘が行方不明になった時、その飼い猫がこの島でミイラになって発見されたことから島名となったという。一説には、小さい島ゆえに、ネコと愛称されたともいわれる。

●隠岐島の「商人を襲った山猫」
 以下は周吉(隠岐郡)中村に伝わる「商人を襲った山猫」の昔話である。商人が襲われた場所は山頂だが、何という山なのか分からないのは惜しい。
 商人が山越えで日が暮れ、山頂の大きな松の木の梢で寝ていた。夜中に下で声がする。山猫が十匹ほどいる。頭分らしい大猫が、自分が登って落とすから食えといって、爪を立てて木に登ってきた。商人は旅刀で猫を刺した。ほかの猫も、商人につぎつぎと傷つけられた。山猫たちは、相談して、庄屋の婆の手をかりようと、迎えに行った。駕籠で来た庄屋の婆は、大きな白猫で、袖無しを着て、白手拭をかぶっていた。庄屋の婆は木に登って商人に跳びつくが、商人に刀で額を突かれた。山猫たちは、庄屋の婆を駕籠に乗せて、山を下って行った。
 商人は夜を明かし、里へ下って庄屋の家に行った。庄屋に夜のことを話すと、婆がそんなところに行くはずがないという。しかし、婆は魚ばかり食べると聞き、商人は持っていた鰤(ぶり)を庄屋に差し出し、婆に進ぜてくれと頼んだ。庄屋が持って行ったところを、商人が唐紙のすきまからのぞいて見ると、婆は白猫になり、生のまま鰤をかじりはじめた。庄屋は猫を斬り殺した。床の下から、ほんとうの婆の骨が出てきた。猫が婆を殺し、化けていたことがわかった。(横地満治、浅田芳郎『隠岐島の昔話と方言』より)
 
●猫啼温泉を発見した「和泉式部の猫」 
 
和泉式部は現在の猫啼温泉の近くの曲木(まがき)というところで生まれた。早く父母に別れ、母の妹の叔母と叔父に育てられたが、13歳のころ叔父に手籠めにされ、肌を許した。そのことが叔母の嫉妬を買い、式部は曲木から今の猫啼温泉のあたりに追いやられた。そのとき日頃可愛がっていた子猫もいっしょに連れていった。
 ある日のこと、その猫がいなくなった。式部があたりを探し歩いたところ、路傍の井戸あたりから鳴き声が聞こえてきた。近づいてみると、犬にでもやられたのか、猫は耳の下をかまれて血だらけになっており、井戸から湧きこぼれる水で傷口を洗っていた。式部が抱き上げるとやっと猫が鳴きやんだ。翌日も式部は猫をかかえて、その井戸に通い、傷口を洗ってあげた。
 そのうち猫の傷は治り、すっかり元気になった。そこで近所の人々はその井戸の水に霊験があることを知り、それを汲んで入浴したら、諸病に効いたので、そこを猫啼と名づけ、湯治場を設けた。
 猫啼温泉には、猫が傷をいやしたという井戸が今も残っている。

●蛇逃の滝と「猫又明神」
 
小木城山の南、鳥越後谷の奥、芝峠の北東側のふもとに、高さ20mあまりの大滝がある。蛇逃(じゃんげ、じゃにげ)の滝と呼ばれて、昔は、盛夏のころ、村人たちがここへ行って滝に打たれたという。 この滝の名のいわれについては、あまりに水勢が激しくて、蛇も寄りつかないことからとする説と、昔、この滝の近くに大蛇が住んでいたが、黒猫と争った結果、大蛇が負けて逃げ出したので、それ以後この名がついた、とする説とのニ説がある。
 昔から、この地方に牛ほどもある黒い山猫がすんでいた。時々人目にふれたが、危害を加えることはなかった。しかし、気味が悪かったので大正の末ころ、七日市の有志が資金を募って、大滝不動の傍らに堂を建て「猫又明神」として祀ったら、それから山猫の姿が見えなくなったという。


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