猫魔ヶ岳の化け猫

 猫魔ヶ岳は猫又伝説の代表的な山の一つ。釣り上げた魚目当てに老女に化けた雌猫を郷士が斬り殺したため、山の主たる猫王はその奥方を食い殺して樹上に吊し復讐。怒りの郷士が宝刀で妻の仇を討つという粗筋である。

 「耶麻郡桧原村の豪勇の士・穴沢善右衛門は奥方を連れて磐梯の湯に行った。奥方を残し、宿の下男と山裾の沼へ釣りに出かけた。思わぬ大漁に夢中になり日も暮れかけたので、その日は近くの釣り小屋に泊まることにした。魚を焚き火で焙り夕食をとっていると、小屋の入り口から覗く老婆がいる。驚いたことに善右衛門の乳母ではないか。中に引き入れ串焼きの魚を差し出すと、ぺろりとたいらげ飢えた者のような食欲である。思い出話をしてもつじつまがあわず、魔性の者と見破った善右衛門は太刀で斬り殺した。明け方になると老婆は年老いた一匹の黒猫となって口から血を吐いて死んでいた。
 急ぎ湯治場へ帰る途中、奥方が昨夜から行方不明と聞かされた。山中を村人らが捜索したところ断崖の上にそびえ立つ老樹に、変わり果てた奥方の屍体を見つけた。
 近くにいた木樵り風の男に遺体の引き下ろしを頼むと、男は「腰に差している刀を貸してくれたなら」という。伝家の宝刀だからと断ると男の態度が一変し、「われこそはこの山の主、猫王なるぞ。先夜、我妻を一刀のもとに斬り殺したであろう。その仇を討たんがため汝の妻を食い殺したのだ。刀を渡さないと汝をも食い殺してやる」と一喝して、するすると梢に登り怪猫の正体を現した。そして「ギャオーッ」と叫ぶと奥方の遺体をくわえて、宙を飛ぶように梢をわたり姿を消した。
 怒狂った善右衛門は村人達を動員して山を包囲し、化け猫退治に乗り出した。幾日かの後、洞穴に潜む化け猫と奥方の屍体を見つけた。善右衛門は伝家の宝刀で怪猫を真っ二つにして、奥方の屍体を取り戻した。それ以来、怪猫を斬った山を猫魔ヶ嶽といい、宝刀貞宗は猫切丸の異名で呼ばれ、穴沢家に永く伝えられた」というもの。北塩原村桧原には、穴沢家の五輪塔群がいまでも残っている。

 このほか、「猫魔ヶ岳に出る化け猫が人々に危害を与えるというので、これを退治しようとした殿様がいたが、計画が猫に聞こえ、奥方様を人質に取られた。これを鉄砲名人の百姓六三が救い出し、沢山の褒美を貰った」(『みちのく120山』福島キャノン山の会、歴史春秋出版)という伝説があるようだが、元文は未見だ。

 善右衛門が釣りをした沼は、猫魔ヶ岳西方の雄国沼だ。北方の檜原湖で釣りをする人々にも危害を与えたともいう。この点について平岩米吉は「人里離れた高地の沼と、釣り上げた魚と、山猫との間には、何か関連がありそうである」と書いている(「猫の歴史と奇話」1992 築地書館)。

 かつて猫魔ヶ岳の猫を祀った磐梯神社では、文政年間(1812〜29)に猫の絵を描いたお札を発行していた。山頂西方にある猫石について『新編会津風土記』では、「磐梯山の西にあり、高九十丈周二里計、昔猫またありて人を食ふしとてこの名あり、北の方に猫石とて其面畳の如くなる大石あり、其の下草木を生せす、塵埃なく掃除せしか如し、猫また住すめる故なりと云(後略)」と記されている。なお、松尾芭蕉の詠んだ「山は猫 ねぶりていくや 雪の隙」の句は天和年間(1681〜84)の作とされているから、猫又伝説はそれ以前に成立していたと思われる。