ネコクサ通信
30 日本で一番「猫本」を書いた永野忠一さんはスゴイ(2002.7.28記)
29 ネコなのにタコとは、これイカに?(2002.5.25記)
28 猫の雪形は三例見つかっている(2001.12.24記)
27 信州の猫寺に行ってきた(2001.11.11記)
26 招き猫があざ笑う「捨てる技術」(2000.6.27記)
25 猫山探検隊は新たな山にさしかかった(99.11.28記)
24 芭蕉の幻想的は猫山句(99.10.3記)
23 まだ?もう?登った山は500山(99.9.6記)
22 猫臭い虎毛山の由来の謎(99.7.25記)
21 猫の雪形はなぜないのであろうか(99.4.25記)
20 見つかる、広がる猫の山(99.3.28記)
19 失せ猫どもはどこで修行するのか(99.2.28記)
18 猫とハーケン(99.1.31記)
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■30 日本で一番「猫本」を書いた永野忠一さんはスゴイ(2002.7.28記)
猫の民俗学に興味を持ってまず手にすべき本と言えば、『猫の民俗学』(大木卓著、田畑書店)そして『猫の歴史と奇話』(平岩米吉著、築地書館)あたりだろうか。『猫の民俗学』は絶版で、いまではなかなか手に入らない。私は神田神保町を探し回ってやっと見つけた。『猫の歴史と奇話』は箱入り限定版もあるほどのロングセラーとなっている。最近、娘さんの平岩由伎子さんが『猫になった山猫』(築地書館)を書き、親子二代での猫研究本出版となった。
猫民俗研究で忘れていけないのは、知る人ぞ知る猫学者・永野忠一さんだ。もちろん私はお会いしたこともないが、白寿を迎えてなおご健在でいらっしゃるらしい。自費出版ながら猫本を10冊以上もものしているから、日本人で一番「猫本」を書いた人だと思う。主なものを挙げると、『黒猫物語』(1950)、『野ら猫を飼う記』(1951)、『猫の生きざま』(1960)、『猫その名と民俗』(1965、1972改訂)、『諺から観た猫の民俗』(1967)、『エジプト猫、その行方』(1969)、『怪猫思想の系譜』(1969)、『信仰と猫の習俗』(1971)、『猫の幻想と俗信』(1978)、『日中を繋ぐ唐猫』(1981)、『猫と日本人』(1982)、『猫と日本人 続』(1986)、『猫と故郷の言葉』(1987)、『猫と源氏物語』(1997)など。いったい何がここまで永野さんを猫にかきたてたのだろうか。
大阪の府立高校で教鞭をとっていた永野さんが、本格的に猫の民俗に取り組み始めたのは50代半ば頃だから、スタートは遅かったといっていい。しかし、それからの研究に打ち込むエネルギーがすごい。「余暇の執筆といい条、猫猫猫で塗りつぶされた日々であった。溜りたまって十幾冊になった」(『猫その名と民俗』1965初版)、「猫と取り組んで早や十七八年にもなる。それだのに問題は片付かない。猫に取りつかれたに相違ない。…(中略)…気ばかりあせるが、疑問はわたしの執筆を容易に許さない。猫よ! このわたしをどこまで苦しめようとするのか」(『猫その名と民俗』1972「改版の言」)と、ここだけ読んでも猫への思い入れは半端でないのがわかる。
永野さんの著書の中で、とくに『猫の幻想と俗信』(1978)の猫山についての考察は、大変示唆に富む興味深いものであった。消えゆく猫山の地名と意味するものを発掘して記録せよ、と私自身が励まされた思いがした。
残念ながら現在、これらの本の何冊かに目を通したいなら、一般的には東京都内なら国立国会図書館か都立中央図書館等で閲覧するしか方法はない。どこか志のある出版社が『永野忠一・猫民俗全集』を世に出してくれないかなあ、などと思う猫もダラリの暑い夏であります。
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■29 ネコなのにタコとは、これイカに?(2002.5.25記)
昨年秋のことだが、池袋のジュンク堂で『早川孝太郎全集 第四巻』(未来社)を拾い読みしていたら、「猫を繞る問題一、二」という項に引き込まれてしまった。地方による猫の呼び名(詞)についての違いを考察しており、読み進むうちに遠い記憶の彼方から懐かしい猫の名が思い出されたのである。
「タコ」という変てこな名の猫だった。子どもの頃(1960年代の宮城県古川市)に家で飼っていた。母の実家からネズミ対策で貰い受けたメス猫だったが、「タコ」という名もそのまま引き継いだらしい。
「ネコなのにタコとは、これイカに?」…それが、この本のおかげで“目からウロコ”である。「ターコタコタコ」とは、岩手県や宮城県の一部地域での猫の呼び詞とあるではないか。よく猫を呼ぶときに「チョッチョッチョッ」などと舌をならすことがあるように、「ターコタコタコ」と呼ぶのだという。その呼び詞を、そのまま猫の名にしている地方も多かったらしく、我が家の「タコ」もまさしくその事例だったというわけ。
確かに母の実家では、呼ぶとき「ターコタコタコ」だった。実際は「トーコトコトコ」に近いニュアンスだったかなと思う。タコという名だからそう呼んでいるのではなくて、呼び詞=猫の名なのであった。ちなみに秋田県や山形県の一部地域では「チャコチャコ」、石川県の一部では「チマチマ」、和歌山県の一部では「チョボチョボ」という呼び詞があるという。そういえば、狩猟伝説にもよく登場する猫の名に「チャコ」というのがあったっけ。
「ターコタコタコ」の呼び詞は、かつての飼い猫を思い出させてくれただけでなく、埋もれかけていた数十年前の民俗的事例を呼び起こすことができて感慨深い。さらに、次第に消えていくであろう、このような事例を記録しておかなければ、と危惧していた人がいることも付け加えておかねばならない。永野忠一氏の著書『猫と故郷の言葉』(1987)では、早川全集の記述よりもずっと踏み込んでいて、地方によって異なる猫に関する言葉を豊富に収集しており、それだけでも世界に類を見ない日本人と猫との深いきずなを明らかにしている。この永野忠一さんという方は、知られざるとてつもない猫学者なのであるが、近々紹介してみたい。
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■28 猫の雪形は三例見つかっている(2001.12.24記)
かつてこの欄で「猫の雪形はなぜないのか」と書いたが、その後、猫が現れる雪形は三例あることを知った。私の勉強不足で、東北、越後、信州の雪形を参考にしただけで断定してしまい、雪形の王国のひとつ「北陸地方」を見落としていた。季節はずれの話題だが、訂正も兼ねるので早めに掲載することにした。
富山県にある北アルプス・僧ヶ岳(1855m)は、山名の由来となった「僧」の雪形で知られる。この山は雪形の宝庫らしく、まず4月中旬の「ウサギ」から始まり、「僧」のとなりに「大入道」と「猫」が現れるという。5月に入ると「大入道」は「馬」と変化し、「馬を曳く僧」となって田植えの季節を知らせてくれる。
『立山黒部の奥山の歴史と伝承』(廣瀬誠著、桂書房、1984)にも「僧ケ岳の僧は、雪の解けゆくにつれて、尺八を吹く姿、袋を背負った姿、馬を曳く姿とさまざまに変化し、猫や兎や鶏まで付き従ひ」と記されている。
農事暦と猫は関係なさそうだが、猫又山とも峰続きだし、この一帯はよく野猫が現れたところなので何か因縁があるのだろうか。
驚きだったのは、北海道の利尻山にも猫の雪形があるということだ。1998年10月開催の日本雪氷学会全国大会で、利尻山で見られる雪形に「猫の顔」があることが発表された。「新潟日報」98年10月16日付の記事によると、「猫の顔」はニシン漁の始まりから見え出し、漁期の終わるころには「猫の目から涙が流れるように見えた」とされる。「昭和30年ごろを境にニシンが捕れなくなり、現在では古老でないと地元でも忘れられている」と、発表した利尻町立博物館の学芸員は残念がっているという。この雪形の写真はないらしい。是非とも、この目で伝説と化した「猫の顔」を見てみたいものだ。
猫関連の雪形は、もう一例ある。1996年、新潟県長岡市の鋸山(765m)に「ブレーメンの音楽隊」と命名された雪形が発見された。ロバの上に犬、猫、鶏が乗っているように見えるという。見つけたのは国際雪形研究会会員で、この年のもっとも素晴らしいニュー雪形「96雪形オブ・ザ・イヤー」として表彰された。
いまのところ猫の雪形が、この三例だけにとどまっているのは腑に落ちない。身近な動物の猫だけに、もっと登場してほしいものだ。私も残雪の山を眺めるときは、意識して雪形を探してみよう。
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■27 信州の猫寺に行ってきた(2001.11.11記)
澄み切った青空が広がった晩秋の土曜日に長野へと向かった。目的地は、信州で唯一の猫寺として知られる上水内郡小川村瀬戸川の法蔵寺。ちょうど長野市と大町市の中間あたりだ。私はこの寺に伝わる民話から、俗信で失せ猫が修行するという猫寺のモデルになったかもしれないと推測している。
大宮から長野まで、新幹線だと1時間半で着いてしまうのだから近くなったものだ。駅からのバス便は少ないので、タクシーに乗ると珍しく女性運転手だった。「小川村の法蔵寺」と頼んだら、「どのあたりかな」と仲間に聞いていた。「猫寺として有名なんですよ」と大げさに水を向けると、「そうなんですか? 私は猫好きだけど知らない」とそっけない。でもナマ猫の話となると別で、運転しながら彼女は茶トラ猫の小さな写真を取り出して見せてくれた。「18年も生きたのよ。最後はぼけちゃってね。もう一匹いたんだけど交通事故で悲惨な亡くなりかたで…」と、いまだに立ち直れないペットロスの心境を吐露し始めた。
山あいの国道を走っているとき、路上の無惨なネコセンベイ(車に轢かれてペシャンコになった猫のこと)に気づき、きわどく避ける。まだレア状態で昨夜の事故らしい。「あー、やだ。あぶなかった」とつぶやいた彼女の、心のダメージを慮った。小川村に入ると、北アルプスが正面に見える。景気づけるように「おお、猫の耳! 鹿島槍だ」と思わず叫ぶ。これほど左右均等の猫耳となった鹿島槍ヶ岳は初めてだ。「錦秋の山の向こうに耳二つ きりりと立つは鹿島槍かな」。猫好きの運転手といい、成仏できないネコセンベイといい、猫の耳といい、全く猫寺へ向かうのにはできすぎたお膳立てだと思った。いきなり訪問しても失礼かと思い、車内から携帯電話で法蔵寺に電話する。出たのは奥さんで、住職は法事で午後2時ごろ帰るという。それまでは居られないので「写真を撮りたいだけです」と伝える。
国道を右折すると小さな「法蔵寺」の看板があった。さらにもう一つの看板から左折すると林道っぽくなって尾根を上がっていく。地図上の瀬戸川という地域とは別の尾根なので変に思う。やがて寺の建物らしいのがあるが、写真でみた法蔵寺とは違う。導かれるままに境内に入っていくと、赤い屋根の大きな本堂が突然現れたのでホッとした。尾根の中腹に建つ寺としては劇的な空間で、かなり広い敷地だ。車を降りると、手を合わせた姿の猫像が建っていてまず驚く。そして最初に見えた建物のほうから奥さんがおりてきた。なんと後から三毛猫がちょこちょこついてくるではないか。この寺の民話によると、たくさんの猫を前に住職の袈裟を着て経を読んでいたのも三毛だったのだ。「電話をされた方ですか?」と待っていてくれたようすで恐縮する。
勧められて女性運転手とともにお茶をいただきながら話を聞く。歴史ある猫寺としてのPRは一切行わないのが住職の考えなのだという。何より檀家を大切にする寺の姿勢が伺えた。座敷には檀家から贈られたのか、招き猫が数十体鎮座していた。三毛は13歳で最初の5年くらいは手がかかったが、いまでは大きな戸も自分で開けるそうだ。最近、雑誌等の取材もたびたびあるが、三毛を写真に納めさせるのは苦労するという。今回も三毛にカメラを向けると物陰に隠れてしまい、撮らせてくれなかった。山中の寺なのに猫が集まってくるらしく、三毛がよそのオス猫に追いかけられていた。
帰り際に伝説の三毛を祀ったという猫塚を見に行く。寺の裏手を登っていくと小屋がけの脇に、「猫塚」と彫られた五輪塔があった。赤い屋根が木々の緑に映える本堂をカメラに納めてタクシーに戻る。彼女に「効率の悪い仕事させて、ごめんね」と謝ると「いえ、私も勉強になりましたから」と気にしてない様子。「猫寺に招かれたんじゃないの?」と言うと、「そうだねえ」としんみりしていた。そういえば本堂で手を合わせていたなあ。
再びネコセンベイの現場を通過したとき、どういうわけか彼女は「あれは猫じゃない。しっぽが太いからタヌキだ」と言い出した。駅前で降車する際、「気持ちだけどこれどうぞ」と彼女が差し出した缶コーヒーの意味は何だったのだろう。なぜかもらい物をする日だ。猫寺からおみやげにいただいたリンゴで、ザックはずしりと重くなっていた。わずか数時間の滞在だったが、満ち足りた気分で長野を後にした。
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■26 招き猫があざ笑う「捨てる技術」(2000.6.27記)
最近、当ホームページの更新頻度が滞ってきた。べつにネタ不足というわけではないのだが、ここ1カ月ほど毎週末は部屋中かきまわしているからなのである。
ベストセラーの『「捨てる!」技術』(辰巳渚、宝島社刊)を目からウロコが落ちる思いで読み、「これだ!」と心の中で快哉を叫んだ。毎年、物を右から左に移すだけの整理術にうんざりしてきたぼくとしては、今度こそ懸案の解決に踏み切ったつもりだっだ。夏が来る前に何としても「すっきりした部屋」にしたい、と。しかし、それが予想した以上に困難であることを早くも実感してしまった。本を読んで共感した「見ないで捨てる」「“とりあえずとっておく”は禁句」「聖域をつくらない」「“いつか”はこない」などの明快な捨てる技術が、いざ実行しようとするとほとんどできないのである。
まず最大の悩みだった増える一方の本。書棚に収まらないものはあちこちに積み上げたり、クローゼットに押し込んである。現段階では200冊ほど近所の古本屋に売ったにすぎない。すっきりさせるには、あと段ボール箱で5箱は処分しなければいけない。なのに、山関係は文庫本以外「とりあえず」と手つかずとなった。
そして山道具。ぼくには悪いくせがあって、道具の予備を必ずそろえてしまうことだ。ザックは最大80リットルのほか、40リットル前後が4つもある(さすがに学生時代の特大キスリングは何年も前に捨てた)。革製の山靴は学生時代のが保存してあるほか、もう1足(いずれもまだ使える)。主に使っているプラブーツが1足、クライミングシューズが2足。スキー用はゲレンデ用1と山スキー兼用が2足。沢登りはガマガエル1、渓流シューズ2(一つは張り替え必要)、スキー板は175センチと薮山用にと160センチ。ピッケルはウッドシャフト1、合金1、アイスバイルもウッドと合金各1、アイゼンは10本爪、14本爪固定バンド、12本爪氷用ワンタッチ。テントはゴアテックス製ドーム型のほかゴアとナイロンのツエルト各1、などなど。極めつけは25年も昔の学生時代に数回使ったザイルがまだ保存していること。自分でもあきれるのだが、いったい何に使おうというのだろう。
年数回しか山に行かなくなったことも山道具の更新を遅らせている大きな原因だ。それに「思い出があるから、まだ使えるから」の気持ちが加わり、どうしてもネックとなる。そのほか山で着られるからと捨てられない古着、聞かなくなったCDやカセットテープ、古くなったパソコンソフトとマニュアル、昔の写真とネガなど、不用と思っているのはたくさんあるのに、「捨てる技術」を発揮できないまま早1カ月なのだ。
ふと、若干ではあるが整理・分類された書棚を見やると、すでに4分の1が猫や妖怪や民俗の本となっていた。そして部屋には猫グッズやら招き猫どもが少しずつ、そして確実に部屋の一部を占有し始めているのであった。増える物と捨てる物とのイタチごっこは続く。
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■25 猫山探検隊は新たな山にさしかかった(99.11.28記)
この2年間、猫と縁のある山々をコツコツと調べ上げてきた。その数51山と予想した以上に多かったのに驚いている。猫の字を当てただけの山名が多いが、猫にちなむ伝説等(たいていは猫又や化け猫で人々に悪さをする)をもつ山は51山中20山もあった。この国の昔々には、これほど妖しき猫どもが山を舞台に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)して、人びとをきりきり舞いさせていたわけである。
山名が「猫」に転訛する例としては、@地方豪族の根子氏にちなむ、A山城のふもと(根)に家来や農民が住んだことにちなむ、B山の根際(ねきわ)を根処(ねこ)といったことにちなむ、C山麓に根小屋(耕作用の寝小屋)を設けたことにちなむ、などがある。ただし、転訛して「猫」の字が当てられても、動物の猫と全く関係がなかったとまでは言い切れないというのが持論だ。それを明らかにするのは至難で、まず地方史誌・古文献等を徹底的に洗い出さなくてはなるまい。
猫山、猫岳の変わり種をいくつか取り上げてみたい。まず北海道・知床の猫山(553m)は、土地柄からアイヌ語nay-kot(涸れた沢、川の跡)から転訛した形跡が強いようだ。山形県の猫岳(977m)付近にはネコマタ沢という沢があり、猫臭さを暗示する。ただし、ネコマタというのも「尾根が二手に分かれるところ」と説明される例があるので、地元に伝説等が残されているかどうかが真の猫山であるかどうかの決め手となる。
岩手県の猫山(920m)と広島県の猫山(1196m)はともに猫の姿に見立てたという説がある。後者には猫伝説もしっかり残っている。富山県に二つある猫又山のうち、毛勝三山のそれに近く大猫山(2055m)がある。この二つの山を分ける谷が猫又谷で、実際に大猫に登山者が襲われた事実のあるという谷である。猫又伝説のあるのはもう一方だというから不思議だ。実に猫臭い地域で興味深い。
乗鞍岳の猫岳(2581m)も大いに疑問が湧く。猫の字に転訛したのはたいてい標高の低い山である。根子や根処の転訛というのでは、2500mを越す高山にはなじまない。「尾根が二手に分かれるところの山」と解釈することもできるが、地図ではそのような地形になっていなかった。猫山探検隊としては、それではつまらないし、猫伝説が残っていないか要重点調査猫山に指定したいところだ。
猫伝説に登場していながら未確認の山も多い。江戸時代の文献に「多くの猫の棲む」と記されるのは土佐の白髪山。ところが高知県には同名の二山(1470m、1770m)あり、どちらが伝説の舞台なのか不明のまま。同じ四国・愛媛県三崎町に伝わる「狩人と猫」では、具体的に「のんしら山のはちまき岩」と出てくるが、地図には載っていない。この場合、民話だから架空の山かもしれない。九州・天草郡には200mほどの「オオヤマ」に猫の支配者がいたとされる、また古猫が岩屋にたくさん集まって、笛を吹いたり舞ったりしたという埼玉県比企郡の戸隠山などなど。
これらの山が所在が確認できれば猫山の数はさらに増える。地方に出かけて文献を調べることができればいいのだが、山にも行けない昨今はなかなか難しい。地の利を生かして国会図書館通いでもしなければ猫山の道も険しい。猫山探検隊は猫山登山の核心部にさしかかったようだ。
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■24 幻想的な芭蕉の猫山句(99.10.3記)
芭蕉が詠んだ俳句に幻想的な猫山句がある。何とも不思議な句で、初めはどういう意味なのかよくわからなかった。
山は猫ねぶりて行くや雪の隙
注釈書によると、「この山は猫山という名をもつだけあって、猫が自分の身を舐(ねぶ)るように、その山肌に積もった雪をねぶりねぶりして、とうとうあのようにところどころ雪がむらぎえになったものであろう」という意味になる。残雪模様を山名の猫にかけて、幻想的な句に表現した。ここでいう猫山とは会津の猫魔ケ岳を指す。芭蕉が38歳(天和元年、1681年)頃から40歳(天和4年、1684年)頃までの間の作とされ、底本は「陸奥名所句合天和年中」に出した。季語は「雪の隙(ひま)」で春。「山」と「ねぶる(眠る)」をかけ合わせると冬の季語「山眠る」ととれるが、残雪の山であることは明らかなので、季節はやはり春であろう。
芭蕉が現代に生きているならば、「この山で儲けようとする人間の手によって、ねぶりねぶりされてブナ林がむらぎえになってしまったものよのう」と嘆き詠むのだろうか。猫魔ケ岳は表も裏もスキー場となっている。数百年の沈黙を破って化け猫の怨念が吹き出さないとも限らない。そういえば今年夏、この山で小学生が下山中に行方不明となって捜索隊が出た。ついに化け猫さまが長い眠りからさめて人間どもを惑わしたのかもしれない。ただし、相手が子供ということで一晩だけ山にとどめただけで帰してくれた。猫魔ケ岳の主の警鐘と受け取った。
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■23 まだ? もう? 登った山は500山(99.9.6記)
山に行けない気晴らしに、これまで登った山を「日本山名総覧」(白山書房)でチェックしてみたら500山を超えていた。その中には観光のついでにほとんど歩かずに登れたり、ゲレンデスキーでリフトを使った山も含んでいる。400回近い山行回数でこの程度だから、今西錦司(1992年、90歳で逝去)の生涯登頂1552山というのは、やはり簡単に到達できる数字ではない(最近は元気な中高年が多いから、いずれ2000山を突破する人も出てくるに違いない)。自分があとどれほどの山々に登れるかわからないが、ここ数年来のペースではピークハントに徹したとしても、1000山すらとうてい及ばないことだろう。
登った山を都道府県別の内訳でみると、北海道21山、青森県16山、岩手県21山、宮城県16山、秋田県6山、山形県35山、福島県28山、栃木県17山、群馬県55山、埼玉県36山、東京都48山、神奈川県34山、新潟県78山、富山県21山、山梨県41山、長野県26山、兵庫県3山、鳥取県3山、沖縄県1山の計505山となっている。関東以外では東北、越後が多く、中部以西は極端に少なかった。四国、九州の山には、お恥ずかしいことに登ったことがない。日本アルプスにも大して足跡を残していないし、とくに中央アルプスに至ってはゼロというありさまだ。しかし、地方在住だと地元の山しか登らない人も大勢いるから、東日本偏向にせよ結構幅広く登ってきたものだと思う。
今回のチェック作業は意外に時間がかかってしまい、山行形態・山域別の分類や登頂回数の順位調べなどはお預けとなった。山登り人生の中間データとしてさらに分析し、なじみの薄い山域にも目を向けていくようしたい。西日本にも行きたい山はたくさんあるわけで、そのうちそのうちと思う心の仇桜なのだ。化け猫や山猫が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)した伝説の山は西日本にも多い。猫山調査に引っかけてこれらの山々を訪れるのも、今後の秘かな楽しみである。自分で探し出した「猫山50山」踏破のこだわりは、若いときと同じように登り続けたいというあがきから解放され、山登りを知的冒険の「山遊び」に変えていく自分だけの秘薬と考えている。
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■22 猫くさい虎毛山の由来の謎(99.7.25記)
今シーズン初の沢登りは久しぶりに東北・虎毛山塊の沢に出かけた。虎毛山(1432m)に登る人は、たいていこのユニークな山名にも心惹かれるらしい。一緒に登った相棒もやはり、「虎毛なんて珍しい名前だね。名付けた人はどういう意味でつけたんだろう」と登りながら話していた。そこで私がウンチクを披露したが、「猫に関係あると思うよ」とまでは言わなかった。十二支の山としてすっかり定着した虎毛山に「虎」の字がつくからというものの、この山に限っては「タイガー」と決めつけられない「何か」がありそうなのである。過去の雑誌や本で述べられた虎毛山の由来はいずれも決め手を欠いており、「真相は分からない」とする最近のガイドブックもある。虎毛模様の猫を連想してもよいと思っているほど、虎毛山をどうしても猫と結びつけたい私にも、一縷の望みが残されているというわけだ。
虎毛山についての由来については、様々な見方がある。「小沢や紅葉の縦縞模様を虎の毛皮に見立てた」という有力な説に対して重箱の隅をつつかせていただければ、虎の毛は(体の軸に対して)横縞の模様であり、縦縞模様はリビアヤマネコなど山猫の特徴であるということからすれば、動物学的にはこの説は誤りということになる。もっとも縦か横かは別として、縞模様=虎というのは一般的なイメージなのだろうけれど。
以下の虎毛山名考を読み比べてみれば、猫と関係がある山だとの珍説を主張するヤツが一人くらいいても構わないだろうと思っている。
●「虎毛山の名は黄色っぽい、東面や南面にわずかに生えるブッシュが無積雪期にあたかもトラの毛皮のようになるところからきたものと考えられる。」(虎毛山・春川 牧恒夫 山と渓谷431号 1974.8)
●「山名は山腹の幾条かの沢が、縦縞のように見え、縞馬の横腹を思わせるものを、虎毛に見立てたことに由来するという」(角川地名大辞典「秋田県」)
●「全山紅や黄に燃える頃、虎毛山がビッグタイガーになることはこの目で確認した。」(岩崎元郎)(「日本百名谷」関根幸次、中庄谷直、岩崎元郎編、白山書房、1983)
●「虎毛という名前も興味をそそる。遠くから見た姿が虎のようだからであろうか。確かに北に位置する高松岳から眺めた時には、虎を横から見たような山容だった。……この楽園のような虎毛山頂も、東の須金岳から眺めるとその印象を一変させる。東面は鋭い懸崖を谷に落として、牧歌的な山頂とは異なる険しい表情をしている。これも虎毛と言われる所以だろうか。」(「みちのく120山」福島キヤノン山の会、歴史春秋出版、1991)
●「山腹の幾条かの小沢が縦模様に見え、これを虎の毛に見立てたことから由来するという。」(「日本の山1000」山渓カラー名鑑、1992)
●「虎毛から連想するのは虎刈りである。八ケ岳の縞枯山のような山かと想像したが、どうも違うらしい。天然のヒノキ林やブナ林の山ということだから、植生の違いから付けられた名前なのだろうか。」(「十二支の山」石井光造、東京新聞出版局、1993)
●「虎毛の名は、山腹のいく条かの沢が縦縞の模様に見え、これを虎の毛に見立てたことから由来するという。」(分県登山ガイド4「秋田県の山」、佐々木民秀、鈴木要三、山と渓谷、1993)
●「頂上湿原の紅葉の縞模様、あるいは山腹の幾条かの小沢が縦模様に見え、これを虎の毛に見立てたことから由来するという。真相ははっきりしない。」(「アルペンガイド2 東北の山特別改訂版」 1997)
●「なぜ秋かというと、ガイドブックに、山頂付近の草原が草もみじに紅葉すると、虎の毛皮のように見えるところからの山名とある。だから虎の毛皮を見るため秋に、ということなのである。本来なら高山植物が咲き乱れる夏に登るということになるのだろうが、山名の由来を聞いてしまった以上は、その由来を訪ねての山旅をしなくてはと思っている。 ワシントン条約によって相手国の輸出証明書がないと毛皮の輸入もできない。それならせめてニセの虎の毛皮見物とシャレてみたい。」(「花の山旅、みちのくの山」一戸義孝、実業の日本社、1997)
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■21 猫の雪形はなぜないのであろうか(99.4.25記)
春山の季節だ。残雪に映えるブナの新緑にはまばゆいばかりの躍動感を感じる。この時期の山が一番好きだという人は多いだろう。かくいう私もそうだ。しかし、ここ10年ばかりは2月下旬から4月にかけて花粉症に悩まされてかなりの体力を消耗し、さらに追い打ちをかけるように年間で一番多忙な時期を迎える。先日は連続26時間勤務のあげく、さすがに数日間は変調をきたしてしまった。そんなこんなで今年初の山行きはG.Wなのであります。
今回のテーマは春にふさわしく、以前から気になっていた雪形ついて取り上げたい。猫の雪形がないことにずっと不満を抱いていたからである。猫の形に見える残雪模様はその気になれば見つけることは可能だろう。ただし雪形というのは、単にある形を表すだけでなく山麓の人々の農事暦となっていたことがポイントで、北アルプス・白馬岳の代かき馬や爺ケ岳の種捲き爺さんが有名だ。雪形伝承の本場ともいえる新潟県内の山の雪形を詳しく調べ上げた『図説 雪形』(斎藤義信著、高志書院)によると、生き物の雪形として確認されたのは、ウサギ、サギ、コイ、タイ、カニ、ウシ、ウマ、ツル、カリ、カタツムリ、キツネ、ネズミ、ゾウ、ヤモリ、ハト、シカ、カモシカ、サル、カラス、竜、カメ、イヌ、コウモリだそうで、このうち十二支の動物はウサギ、ウシ、ウマ、ネズミ、サル、竜、イヌと5割以上入っている。で、イヌやウマとともに身近な生き物の猫はなぜ入っていないのか、のけ者にされなければならない理由があるのだろうか。
一つの仮説としては、山と猫との忌むべき関係を挙げることができるだろう。東北から北陸にかけては化け猫伝説が多い。新潟県には化け猫伝説の存在とともに後世にそれを触れたがらない例がある。弥彦山では佐渡から飛んできた化け猫を猫多羅天女と崇めたと伝えられるが、現在の弥彦神社では妙多羅天女と名を変えて祀られており縁起も大分違っているという。また栃尾市の猫股神社(正称・南部神社)は養蚕の神=猫を祀っているとされるものの、神職に聞くと何か不名誉なこととでも勘違いしたのか猫股神社という俗称の由来については語ってくれなかった、と平岩米吉氏は書いている(『猫の歴史と奇話』)。
猫の雪形が現れる山とあらば、山猫か化け猫の棲む山と混同される恐れがあり、狩猟の世界でも山では猫のことを口に出すのをはばかり隠語を使ったくらいだから、雪形といえども猫を山と結びつけることは意識的に避けたのかもしれない。全国に数多い猫山の由来に「猫の姿に似ているため」とされた山もあるが、猫の雪形が現れる山、すなわち猫形山という名の山が存在しないのは寂しいものだ。
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■20 見つかる、広がる猫の山(99.3.28記)
待ち望んでいた本が出た。白山書房創立20周年記念出版の『日本山名総覧 1万8000山の住所録』(武内正編著)である。猫山探しが手元の資料だけではもはや頭打ちになっていただけに、この本で少なくとも「猫」のつく山は総ナメにできると心待ちにしていた。期待に違わず、新たに5山の猫山を発見することができた。特にうれしかったのは、北海道にも「猫山」という名称の山が存在したことだ。
その一方で、すでにぼくが調査していた猫山のいくつかが漏れていることも判明した。例を挙げれば北アルプスの「大猫山」、奥美濃の「猫洞山」などである。山名総覧は2万5千分の1の地形図記載の山名を基本に、自治体への照会で同定したのだそうだが、登山者や地元が通称で用いていても地図に未記載の山名については漏れているとのことだ。すでに一部のガイド本には記載されている山名であるだけに、未収録となったのは残念に思う。地図未記載の山名については、改訂版発行の際にぜひとも載せてほしいものだ。また、民間伝承や昔話中の猫にまつわる山のいくつかが同定できずに困っていたが、実在する山かどうかの確認は山名総覧でもできなかった。
もうひとつ細かいところを指摘しておけば、根子岳には信州・菅平と九州・阿蘇に2山あるが、(猫岳)と別名を添えているのは阿蘇の方だけなのはなぜだろうか。「コンサイス日本山名辞典」(三省堂)では両方の山に猫岳と別名を入れている。山名総覧「生き物山名」の項で、猫の字がつく山20山として阿蘇・根子岳(猫岳)も含めるのなら、菅平・根子岳も加えてもいいはずだが、はずれたのは地元の呼称に従ったから(別名なしと?)ということだろう。猫岳参り伝説のない信州・根子岳にとっては、わざわざ「猫岳」の別名をもたなければならない裏付けに乏しい。それにしても膨大な山名データをまとめ上げた労作に拍手を贈りたい。著者は生涯をかけて山名総覧を改訂・充実していくとのことで、今後の調査を期待しつつ見守りたい。
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■19 失せ猫どもはどこで修行するのか(99.2.28記)
猫の随筆本をめくると、たまに家出猫についての話がでてくる。どこかへ修行に行ったのではないかと書いてあったりすると、ぼくはランランと輝く猫目になってしまう。その修行先とはどこだ? どこだと思ってるんだ! だが、「中部山岳地帯の荒寺」や「木曽の山中」「何年か修行すると化けられる寺」「遠州森の秋葉神社」などと書かれている程度で、本で読んだとか、ある人から聞いたとか、出所がどうもはっきりしないのだ。これじゃ猫どもはほくそ笑み、ぼくのイライラはつのるばかりである。
その昔、年老いた猫は山中に入るとされ、地域によっては狐に誘われて山に行くとも考えられた。飼う場合にはあらかじめ年期を猫に言い聞かせ、年期が来ると追い出したり、あるいは自ら言いつけどおりに失踪したのもいるという。“冥界”である山に入った猫が戻ったとあらば、妖力をつけてきたと考えるのは自然のことであっただろう。飼い主からすれば「たくましい顔つきになって帰ってきた」と、戻り猫に感心するくだりをある本で最近読んだが、現代でさえ家出猫の振る舞いには不可思議さを残している面がある。
失せ猫を戻すおまじないで有名な百人一首「立ちわかれいなばの山の峰におふる まつとしきかば今帰りこむ」の「いなばの山」にひっかけて、失せ猫は「九州のいなばの山の猫山」に居るからと説いたとする伝承もあった。「九州のいなばの山」が阿蘇の根子岳(猫岳)であるのは明白で、この山こそ猫の王となるべき猫どもをいかに多く集めたのかは、「猫岳参り」の伝承がこの地方にかなり多いことからもわかる。九州での修行先はこれでいいとしても、本州の中部山岳にある猫岳という山は乗鞍のそれをおいてないが、そこでは猫岳参りの伝説は聞かない。北アルプス山麓にある通称・猫寺にも、猫どもが修行のため集まって来たという昔話もない。とすると、家出〜戻るとたくましくなっている〜修行したから〜修行先は深山か山寺のはずだ〜日本の真ん中である中部山岳には猫岳という山と通称・猫寺があるという(ここで九州の「猫岳参り」の民話をあてはめる)……中部山岳説は、ざっとこんな流れなのではなかろうか?
最近、これらの問題を解明すべくタイムリーな刊行となった『猫の王〜猫はなぜ突然姿を消すのか』は、本格的に猫山を取り上げた初めての本で、昨年末に一気に読了した。しかし、その重厚な論考にもかかわらずなお物足りなさが残ってしまうのはなぜか。登山する側の立場から全国各地の猫山を想起するとき、その山々が辿ってきた人と猫と山との深淵なつながりと戦(おのの)きをもっと蘇らせなければと高ぶってしまい、ヤマネコのひげは遠い昔をしのんでピクついてしまうのであった。
とはいうものの、家出猫がご近所の家でのうのうと幾日か過ごし、その後また別の家に上がり込んではカジケ猫を決め込んでいるなどというのが、案外、修行の真実だったりする。ぼくの郷里で昔飼っていた猫が、何日かの家出の果てに「肥溜め」(昔はよく畑の脇などにあったのだよ)にはまり、化け猫どころかクサ猫になってプーンと戻ってきたときには、家族一同ぶっとんでしまったものだ。こういう修行はしてほしくないものである、猫どもよ!
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■18 猫とハーケン(99.1.31記)
いっときの寒波が緩み、柔らかな陽射しが注ぐ土曜午後の猫日和、思い立って地下鉄に乗って都心へと向かった。降りたのは九段下駅。ここから千鳥ガ淵に沿って竹橋まで歩いていくのだ。千鳥が淵沿いの散歩道は都内でも有数の猫スポットだという。猫おばさんでも来ない限り、猫どもが集まっているわけではない。植え込みにポッカリあいた空間をのぞいて見ると、じっとしていたり昼寝している。猫おばさんに作ってもらった手製のつぐらなどあって、その上に座っている場合もある。カメラを向けるとエサでもくれるかとすり寄ってくるのもいるが、たいていは無視するか、昼寝のじゃまをするなとでも言いたげにカッと目を見開いて警戒した。
猫ゾーンを過ぎると、学生時代に遊んだ石垣は間近い。通っていた大学は神田駿河台にあったので、いつも皇居のお濠周辺をランニングしていた。そのころは常盤橋公園の石垣など知らなかったから、千鳥ガ淵のとある秘密の石垣で岩登りまがいの練習をしたことがあるのだ。半蔵濠手前で左折して尾根状の散歩道に上がると、すぐその場所がわかった。丸いコンクリート台がいくつかあるところだ。台の上でよく腹筋を鍛えたものだが、それがかつてB29を迎え撃つ高射砲の台座だったとは知らなかった。
石垣基部に降りるため、懸垂下降の支点に使った木は20数年の時を経てかなり太くなっていた。しかし、その脇に立つ「柵内に入らぬこと 環境庁皇居外苑管理事務所」という、当時はなかった立て看にとまどい、直接石垣をのぞき込むことは遠慮してしまった。のぞいたところでザイルがなければ、下におりられるわけではない。当時、石垣遊びする者がぼくらの他にもいたらしいことは、すでにその木にあったザイルずれが証明していた。そして、きょうの本当の目的は、石垣にあった1枚のハーケンがまだあるかどうかを確かめたかったのだが……。
春になったらまた猫どもを見に来ようとは思う。しかし、石垣にはもう行くことはないだろう。人工壁全盛のいま、歴史的遺物に取り付く不埒者などもういないだろうし、記憶の片隅にあのハーケンも打ち込まれたままにしておくことにしよう。竹橋に向かって歩きながら、そう思った。
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