ネコクサ通信


51 猫&山の散歩道 東京メトロ副都心線沿線編(2008.9.1記)
50 若き日の長期合宿で痛めつけられた歯をいたわる(2008.4.29記)

49 展覧会を見そこなったおかげで再登板の畦地版画(2008.4.16記)
48 いつのまにか永野忠一著作コレクターになった(2008.4.14記)
47 ネット上「山行報告」に見る三大変換ミス(2008.4.6記)
46 このホームページも、いつのまにか10年か…(2007.11.25記)
45 妖怪作家の「いらぬ子猫の崖落とし」と、40年前の切ない「川流し」(2006.9.27記)
44 知床の猫山には耳が二つついていた(2006.3.21記)
43 「復刻版」を手に、初めての「山の本」を読み返す(2005.7.5記)
42 『森の地図』を読んで、山を見る目を考える(2005.6.19記)
41 野猫と大ヘビに遭遇した復活の山歩き(2005.5.5記)
40 父の残した句歌に「山」と「猫」をおもう(2005.2.28記)
39 「ミスターグルメ」と「ミラクルバアチャン」(2004.4.4記)
38 身近な公園のマイウオール(2003.11.25記)
37 そんな時代の駅前事件(2003.8.20記)
36 あんな時代の高尾の誘い(2003.7.30記)
35 猫の山で「春の女神」に出会ったよ(2003.6.24記)
34 とりあえずスイミングにハマってしまった(2003.6.8記)
33 七ツ小屋山は猫池山でもよかったと思う(2003.3.23記)
32 上越の白ネコがよく見えた(2003.3.12記)
31 「宝川で猫の話をすると雨が降る」らしい!?(2003.2.11記)



1〜45〜1718〜30




51 猫&山の散歩道 東京メトロ副都心線沿線編(2008.9.1記) NEW
 昨年に続き、今年もろくに休暇をとらず夏が過ぎてしまった。それでもお盆の頃は午後を早退けして、帰りがてら寄り道することで少しは気をまぎらわした。

 6月開業後、通勤にも時々利用する東京メトロ副都心線。ぶらり散歩の狙い目は、沿線の気になる「猫&山」スポットである。猛暑のピークとなっていたが、それほど気にならなくなったのは、土・日曜の強歩と普段の階段登りの成果か。出グセをつければ山登り復帰も近いかもしれない。

 まず初日は、西早稲田駅から山手線内側の最高峰である都立戸山公園の箱根山へ。登り口までのアプローチは、山の手線内側とは思えぬ郊外の雰囲気。箱根山とおぼしきあたりは樹木に覆われ鬱蒼としていて、心霊スポットとしても人気?があるという。たしかに夕方以降は遠慮したい雰囲気。

左から、箱根山頂上への階段、箱根山頂上、迷子猫の張り紙
箱根山への階段 箱根山頂上 箱根山入り口の迷子猫張り紙


 山自体は人工の築山で円墳みたいだ。中腹からわずか五十段ほどの階段登りで小広い頂上へ。標高44.6m。樹木がじゃまして展望は利かないし、直射日光がきつくてすぐ下山。夜になると猫の集会には絶好の場所だろう。登り口にはそれを知ってか、迷子猫の張り紙も。猫返しのおまじない「立ち別れいなばの山の峰に生ふる…」の歌の「いなばの山」を「箱根の山」に置き換えてみたら?

 次は雑司が谷駅で下りて法明寺鬼子母神堂へ。一応、賽銭をあげて拝礼し、100円のおみくじもいただく(第六十二大吉だった)。セレモニーを終えると境内の駄菓子屋「上川口屋」の猫はいるだろうかと気にかかる。「鬼子母神の猫ばあば」こと十三代目店主は近所の子連れ母とお話し中で、「お店の猫は?」と訊ねるきっかけを逃す。駄菓子越しに店の中を覗いたが、猫は涼しいところで昼寝しているのだろうな。そこで猫感を働かせて探してみると、いました。境内入り口の公園脇マンホール蓋にダラリ猫が。駄菓子屋の通い猫かもしれない大ぶりの茶トラだった。

左から、雑司が谷駅前を走る都電荒川線とサンシャイン60ビル、上川口屋、マンホールのダラリ猫
都電荒川線とサンシャイン60
上川口屋
鬼子母神の猫


 2日目は、昨年、豊島区立となった熊谷守一美術館。ここは20年位前に来て以来である。千早2丁目なので千川駅で下りたら少し迷った。要町駅からの方が近いことをすっかり忘れていた。今なお熊谷榧さんが館長として頑張っている。株式会社榧をつくって指定管理者となっているようだ。美術館を存続させるための賢明な方策か。展示されている守一の猫は「白猫」と「すわる猫」しかいなかった。仙人の絵を観ると、改めて「へたも絵のうち」の極意に触れたような気になる。雷鳴が気になり長居せず。

左から、美術館入り口のオブジェ、アリの絵のレリーフ
美術館入り口のオブジェ アリの絵のレリーフ


 3日目は再び雑司が谷駅から都電荒川線に乗り換えて雑司ヶ谷霊園に行く。荒川線に乗るのは26、7年ぶりだろうか。出発合図の「チン、チーン」が郷愁を誘う。サンシャイン60ビルと都電の取り合わせは東京の定番風景だが、改めて眺めるとなかなかよろしい。

 霊園管理事務所で案内パンフをもらい、墓猫を探しつつ夏目漱石、泉鏡花、小泉八雲、永井荷風の順に墓めぐり。漱石は文豪らしく威風堂々の墓。鏡花はカラスが脇の木の枝に留まって妖しい雰囲気。八雲は愛妻セツと並んでつましい感じ。垣根で囲んだ荷風の墓には線香代わりにタバコの吸い殻が。ほかにジョン万次郎、竹久夢二、サトウハチロー、金田一京助、島村抱月らが眠るが、いずれぼちぼちと訪れてみたい。酷暑のせいか、墓猫に出会うことはできず。墓猫といえば、やっぱり猫うじゃ地帯の谷中霊園が本場か。

左から、夏目漱石、泉鏡花、小泉八雲、永井荷風の墓
夏目漱石の墓 泉鏡花の墓 小泉八雲の墓 永井荷風の墓


 まだ時間があるので、池袋・新文芸座で「クライマーズ・ハイ」でも観ようかと思ったが、あまり気がのらずに今日はこれまで。3年前のNHK版ドラマでは、夏の一ノ倉へのアプローチにプラブーツはねえだろうと途中で観るのをやめた。原作を読めば十分だし。

 余談だが、日航ジャンボ機事故当日(1985年8月12日)は秩父でログハウスを造っていて、晩飯の仕度中にラジオのニュース速報を聞いた。大阪行きなのに意外な近場で行方不明となったと知って驚いた。当時の「山小屋建設日誌」には「最初は秩父に墜落との情報もあり緊迫する」と記録している。自分たちがいるところから飛行音は聞こえなかったのだが、実際は10キロほど南西の雲取山付近上空をダッチロールしながら必死に飛行していったのだった。奥多摩から西の雲取山へ方向を変えず、北進すれば我々のログハウス付近の上空を通過したはずだ。翌朝、頭上を自衛隊や報道ヘリコプターが現場方面へ次々と飛来していくのを仰ぎ見る。真夏の青い空の下では、飛んでいった先の修羅場を想像することなどできなかった。
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VOL.50 若き日の長期合宿で痛めつけられた歯をいたわる(2008.4.29記)
 半年に一度の歯の定期検診を終えた。2日間に分けて行ったクリーニングで、「丁寧にブラッシングされてますね。あまり汚れはありません」と歯科衛生士に合格点をもらう。器具による歯茎のエグリエグリも、最近ではイタ気持ちいいのである。メキメキという音を感じると「歯石が取れてる、取れてる」という快感(?)に。数年前は血だらけになったものだが、今回出血はほとんどなかった。

 歯を悪くしたのは学生時代の長期合宿のせいだ。一式15キロ(米2キロ、水2リットル込み)になるキスリングザックの個人装備には歯ブラシが入っていない。山中では歯磨きタイムなどヤワなひとときはない。最大2週間近くも…、いま思えばぞっとする。卒部するころには虫歯だらけになるのも当然。就職前に一通り手入れしたものの、その後10年に一度のわりで歯科のお世話になってきた。

 50代になって1本残っていた親知らずを抜いたのを機に、細部までチェックしてもらった。予想以上に歯周病が進行していたようで、「歯茎を開いて根元の歯石をとる必要があります。麻酔しますよ」と言われたときには血の気が引いた。さらに歯周病が重い部分は、歯を支えている骨がへこんでいて、歯をより長持ちさせるには、片っ方の顎の骨を削りとってへこんだところに埋め込むというのだ。

 これだけは「勘弁して!」だった。毎日のブラッシングをしっかりとする、半年に一度の定期検診も受けるという決意をして、手術は何とか回避。あれから4年、ほぼ8020をクリアできる自信がもてるようになった。40代前半の歯科健診では「80歳で18本」という予想だった。

 人生後半戦。歯を大事にしようと思ったのは、歯で苦労した父の晩年を見てきたからだ。かつてビルマ戦線を戦った父は、敗走した英軍のコンデンスミルク缶を敵と相対する塹壕の中で、睡魔とも戦いながら一晩中舐めていたといっていた。銃剣を使ってはならず、何と歯で缶を空けたのだという。晩年、総入れ歯になったほうが食生活にはよかったのだろうが、中途半端に部分入れ歯を作ってはフィットせずに装着を放棄。固いものを避け麺類を好んで食べるようになったのが仇になり、そのうち消化不良をおこして3度も腸閉塞で入院した。

 山を長く続けると悩まされる腰痛や膝痛とは、だましだまし付き合っていくしかない。しかし、歯だけは痛くなってからという考えを捨て、先手を打ったほうがいい。このところ景気の悪い(らしい)歯科業界の肩を持つ訳ではないが、歯なしになってからでは元も子もないのだから。
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49 展覧会を見そこなったおかげで再登板の畦地版画(2008.4.16記)
 また、見そこなってしまった。展覧会や美術展は、「そのうち、そのうち」と結局、最終日になってあわてて行ったり、チケットを買っておけば絶対行くだろうと思っても、気づいたらすでに終わっていたなんてことがよくある。

 今回も「畦地梅太郎版画展」の案内はがきをカバンに入れっぱなしだった。会場の新宿小田急ではよく小規模な畦地展を開くのだが、昨年秋も見逃していたから気をつけていたつもりだったのに。通勤途上だから、いつでも立ち寄れる気持ちがあだになる。案の定、最終日(15日)になって6時少し前に駆け込もうとしたら、無情にも入り口には「5時半で終了」のお知らせが…。次の展覧会の入れ替えがせわしく始まっていた。販売も兼ねた展覧会なので、衝動買いすることもなくてよかったか。

 大抵の畦地版画は、20年ほど前に町田国際版画美術館での大規模な回顧展で見ているし、その図録もある(町田市で晩年を過ごした畦地は、市に多くの作品を寄贈した。常設展もよく行われる)。欲しい作品はいくつかあるが、すでに本人刷りの2点を所蔵済み。当HPにも、一番のお気に入り『ものの気配』(1973、23.6×17.8cm)を張り付けているが、これは調布市の画廊で購入したもの。最初に買ったのは25年ほど前、やはり新宿小田急での大規模な版画展だった。7、8年前まで自室にかけてあったが、いまはクローゼットにしまいこんである。

 それは『圏谷に立つ山男』(1967、40.5×31.5cm)という題。カールを背景にピッケルを握りしめた山男が立っている。それだけの単純な構図だが、山へ向かう強い意志が感じられる。畦地の描く山男はとぼけ顔かおっとりタイプが多い。圏谷の山男はキリリとしている。ちょうど30代半ばの頃、再び猛烈に山に向かいたい気にさせてくれた作品だ。相対して自問自答するにはピッタリなのだ。

 この版画の山男を見て、母はずっと「猫」だと思っていたらしい。ヒョロリとした姿は、猫というよりもカワウソみたいだ。

 いまこそ、この版画が再登板する状況なのか。でもエネルギー溢れていた30代とは全然違う自分であることは百も承知。いい加減見飽きた風景写真のパネルをはずして、また「猫もどき山男」の版画を掛けて自問自答を楽しもう。
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48 いつのまにか永野忠一著作コレクターになった(2008.4.14記)
 以前に紹介した在野の猫民俗学者・永野忠一さん(2003年に享年102歳で他界)の著作を探し求めて約10年。いつの間にか主な8冊を収集して、永野忠一著作コレクターとなってしまった。それまでは国会図書館に行かないと、目にふれることはできなかった。半ば自費出版系の書物なので、神田古書店街を徘徊しても、おいそれとは手に入らないレアもの猫本である。

 しかし、インターネット時代の古書探しは、居ながらにして目当ての本を探し出すことができる。根気強く検索をかけることが大事で、初めて探し当てたのは3年ほど前。それからトントン拍子に見つかった。出どころは兵庫、岡山、福岡、東京中野の古書店だった。まるで本のほうから「買ってくれ〜」と自分を呼んでいたかのように、検索した日に売りに出ていることもあった。

 コレクションの発行年順に並べてみると、
 (1)『怪猫思想の系譜』(1971)
 (2)『信仰と猫の習俗』(1971)
 (3)『猫その名と民俗』改訂版(1972、初版1965)
 (4)『猫の幻想と俗信』(1978)
 (5)『日中を繋ぐ唐猫』(1982)
 (6)『猫と日本人(猫の文化史)』(1982、国会図書館蔵本の複写コピー)
 (7)『猫の民俗誌(続、猫と日本人)』(1986)
 (8)『猫と故郷の言葉』(1987)
 
猫の幻想と俗信 これ以外に未収集本として、(9)『エジプト猫、その行方』(1968)、(10)『猫と源氏物語』(1997)がある。

 国会図書館にあるのは、(3)(4)(5)(6)(7)(8)(10)の7冊。国会図書館に保存されていない(1)(2)は小冊子で、これからも古書店に出回ることは極めて少ないだろう。(9)は発行年も古く、もはや幻の本か。類書として『猫たちの世界旅行ー古代エジプトから日本まで』(1993、NHKブックス、ロジャーテイバー著、絶版)がある。テーマからして、あえて手に入れる必要はないと思う。(10)は、日本橋蛎殻町の自費出版図書館にあるので、ネットから申し込んで借りることができる。

 これから少しずつ読み込んでいきながら、永野先生が退職後40年以上にわたり苦しんだ猫民俗との格闘を自分も強いられる気がする。とりあえず、老後がヒマにならないだけでも幸いといえる。

 登った数を気にするような山登りなんぞさらりと捨てて、新たな山と猫の地平を目指す本格的な探求を始めてみるのもそろそろよさそうだ。変な宗教などにのめり込むわけではないから、それほど他人に嫌われないじじいであればいい。ただし、変わり者のネコじじいと指さされそうだが。
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7 ネット上「山行報告」に見る三大変換ミス(2008.4.6記)
 かつて「書斎派の岳人」という人がおったそうだが、インターネットの時代には「ネット派の岳人」というのがいてもよさそうな今日この頃。いまや休日は山に行かずともネットを眺めているだけで山の情報通になれるのだ。今回は、以前から気になっていることの一つをヒマネタとして重箱の隅をつついてみよう。うっかり変換ミスなのか、てっきり正しいと思い込んでいるのか、少し見苦しい誤字がネット山行記録に散見される。

×岸壁→○岩壁
岩場で遭難すれば母が嘆き悲しんで「岸壁の母」を歌うってことか? 生還した場合には「引揚者」と呼ばれる?(ただし、沢の右岸壁、左岸壁という言い方はする)

×非難小屋→○避難小屋
利用した人はきれいにして出発しないと、そりゃ非難される

×飯豊連邦→○飯豊連峰
確かに多くの峰が寄せ連なっているわけだが、どうせなら隣り合わせの“似た者同士”で「飯豊・朝日連邦」となっていると妙に納得したりする?

 このほか、
×山岳同志会→○山学同志会もよく間違える。中高年以上にはおなじみだったのだが。
 『岳人』ホームページの2008年4月号目次でも、木本哲氏の連載の見出しが「山岳同志会」と間違っていた。HP更新担当の若いアルバイト君が何の疑問もなく入力したのだろうか(1週間後に気付いたらしいのだが、さらに『山岳山学同志会』とまたまた間違えている)。

マニアックなところでは、
×地塘(あるいは池糖)→○池塘
×チェックストーン→○チョックストーン
×ゴルジェ→○ゴルジュ

などの誤りもたまに見かける。「徒渉」「渡渉」はどちらもOKか。「渡渉」を使う人が多いようだ。
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46 このホームページも、いつのまにか10年か…(2007.11.25記)
 このホームページ(HP)も、この11月で開設10周年を迎えていた。つゆ知らなんだ。始めの数年間は更新作業が夜中の1時、2時になっても苦になることなどなかった。いまじゃ前回更新が昨年9月という体たらくのダラリ猫だ。山に登らぬ身では張り合いないのも仕方ない。中年世代の10年というもの、発信する側の状況が大きく変化することはままある。そろそろ復活宣言でもないが、10周年というのをネタに猫の目変化の最近ネット事情などイジケ猫のヒガ目でいじってやろう。

■黎明期の高揚感
 HPを立ち上げようと思いついたのは1996年の暮れだったか。山に行く回数が減ってきたから「何かしよう」と思いついただけにすぎず、ガンガン登っていればホームページ遊びなんかしていなかっただだろう。中身は当然、山と猫、または猫山。誰も深く考えても見なかった、自分にとってはずっと気になるテーマだった。正月休みにおおまかなディレクトリ(構造)をノートに書き付けたりしたことが手始めとなった。

 「ネコクサ通信」にHP作成の経緯を書いた日付は「1997年6月24日」とある。過去の山行記を中心に、ある程度のページが出来上がった時期だったのだろう。そして当時、アジア最大級のプロバイダとして昇竜の勢いのBEKKOAME(←まだあるのか?)に登録したのが6月29日だった。写真のスキャニングに手間取ったため、最終的に公開に踏み切ったのは11月になってしまった。

■いまだWeb1.0ですが
 公開後は月2回ペースで更新した。そのころ個人のHPには珍しかったバナー広告を依頼されて張り付けたり(今で言うアフィリエイトか)、『日本のホームページ10万』(アスキー出版だったっけ?)に掲載された。現在契約中のアサヒネットにも全く同じ内容のHPを公開するという無駄遣いをして、「ミラーサイト」などと気取った。猫まっしぐら的あさはかオジさんだったのだな。

 しかし、その後はBBSなど設けず引きこもりHPに成り下がる。爆発的に広まったブログにも手を出さないし(ましてSNSは興味ない)、相も変わらず「Web1.0ですが何か?」状態。これからもそのつもりでいくのだにゃ。猫はじゃれるが群れぬ、か…。
 
■ネット上の墓標
 さて、この10年で幾人かのHPオーナーが遭難して帰らぬ人となり、主のいないHPが墓標のごとくネット上に残されている。1996、7年頃に先鞭をつけた山の個人HPの多くも、いまや次々と消えていく状況だ。オジさん達はそれぞれの事情で、山登りどころではなくなったということか。

 山岳会のHPについてみると、会としてきちんと運営しているのは少数。たまたま好きモノ会員がつくってくれたという程度のものばかり目につく。その好きモノが退会したり山から遠ざかると、とたんに更新が途絶えたりする。会のイメージダウンになるからか、遭難・事故報告をアップすることは少ないようだ。いつのまにかHPを閉鎖する会もあった。遭難の顛末によっては、「ヘリをタクシー代わりに使うな、ゴルァッ!」などと巨大BBSで執拗に叩かれたりするからご用心、ご用心。

■劇場化するネット交流
 大きく変化したことと言えば、ネット上で情報交換するのみならず、そのメンバーで山行を共にすることだろう。そこでは山岳会と無所属の垣根が取り払われている。かつては情報交換・オフ会程度のつきあいから、ネット仲間同士誘いあわせて積極的に山行を共にするのが当たり前になった。ネットは、山岳会に入る必要性をさらに薄れさせる状況をつくったと言える。

 BBSやらブログで日々繰り広げられる交流は、山岳会の例会風景をネット上で再現しているようなものなのだが、異なるのは不特定多数の人々が読んでいるということだ。劇場化の効果?で、山で見知らぬ人から「○○さんですね。HP見てますよ」と声をかけられれば、「山の世界は狭い!」と内心うれしくもあるが。事前に山行計画をネット上で告知しておいたら、山で偶然出会ったかのように「やあ、奇遇ですねえ」という場面もある。どちらも、それを期待していたかのような節もあるから“芸”は細かい。

■演出巧みな山行報告
 いまや死語になったネットサーフィンだが、、リンクをたどって面白そうなページを探し回るのは楽しかった。それよりも今は検索の時代だ。山行を計画する際、まずは「ググる」のが常識。求める山・ルート情報は検索で一網打尽できる。ガイド本などより詳しく、しかも最新の情報が手に入る。当然、様々な目線の情報を取捨選択する眼力が必要なのは言うまでもない。

 山行報告する側も意識してか演出もうまくなり、手が込んできた。BBSで羨望やら賞賛の言葉をかけられれば、ますます意気軒昂となり、次の山行に熱が入るというものだ。豊富な画像とともに事細かに詳述してくれるのは、どこをどう登ったらいいのか分からない向きには重宝する。それ自体は入山前の不安を和らげ、安全登山のためにも少しは貢献するだろうが、情報過多は山登りの面白味をどんどん削いでいく。それまでマイナーだった沢や山スキールートさえ、メーリングリストなどネット上で「面白くて快適」と評判が立つと、右向け右の登山者を増やしていく。

■せいぜい10年の熱中時代 
 HP発信者側としての経験も、まだ10年そこそこだ。この先、山を登りながら15年、20年と運営し続けられる人はどれほどいるだろうか? それぞれのライフステージも当然ながら変化していき、更新頻度は一定とはいかなくなるのは必至。

 一般的なサラリーマンであれば、山のHP遊びに熱中できるのは、せいぜい10年間だろう。年齢的には40代後半までか。それ以降も頑張るつもりなら、相当な無理を覚悟しなければならない。「更新するために山に行かなきゃ」症候群にも陥る。となれば、体の故障や事故の確率は一層高まる。

 誰もが経験する“ヒヤリハット”だが、「喉元すぎれば熱さ忘れてへのカッパ」でやり過ごす小さなミスこそ中高年の落とし穴。そのリスクを自覚しつつ、衰え行く体に鞭打ち鼓舞して「自分の山」を追い求める…。ま、それこそがシンドイながらも山にハマった人生なのだろうが。小心者ゆえ落ち穂拾い山行が主で大けがをしたことはないが、腰痛、捻挫など故障の蓄積は年をとると日常生活にすら響いてくる。無理してもあまりいいことはない、と今頃になって納得したりする。

 無理をして奮闘しているつもりの自分を見てほしい。それが励ましとなり、モチベーションを維持できる。そんなおじさん達は多い。頑固なおじさん達は多少ヤケドしたくらいでは引っ込まない。そのくせ「そろそろ潮時じゃろうかのう」などとうそぶいては、また出かけていく。山登りで“得られる”のはかけがえないものだから。だが、時に取り返しのつかないことも起きる。生涯にわたって山を楽しむために、「細く長く」ということが、30年以上にわたって登ったり登らなかったりしてきたヤマネコ流の結論。「たかが山登り、されど山登り」…このバランスが難しい。
 
 ■「山」とは「怖いところ」
 山のHPオーナーは自分が山から遠ざかると、ネタもなくなり定期更新できないからと、すぐ閉鎖してしまう人が多いようだが、これはもったいない。定期更新しないHPは閉鎖すべし、という規定はない。しばらくは放置してもいいではないか。そして、年と共に山とのつきあい方を変え、自分の視点で気長に展開すればいい。「登る山」から「想う山」「仰ぐ山」でもサイトは作れる。昔語りでもいい。その方が味がある。

 息の長いHPにしていくのには、山だけでなく、別の趣味や分野をも抱き合わせることがポイント。「猫も杓子も」状態のブログは有象無象だらけだが、その多くは短命だろう。「コメントほしい」症候群となり、日々の疲れがたまる。何度か山から遠ざかっては、うじうじと登り直してきた身にとって、現在の“強制終了”は次なる山の準備期間と言えるのだろうか。再び「登る山」に向かうのか、「登らない山」なのかは自分にも分からない。

 とりあえず2年間登らずにいたおかげで、リセットされてしまった。山は「怖いところ」というのが本来の姿で、年齢的にも昔気分では登れそうもない。「怖い」といえば、登山口での車上荒らしどころか、先行ラッセルパーティーを追い抜いたら「殺すぞ」と脅された経験談がネット上へ流れるに及ぶと、その昔『遠野物語』を読んで山に行くのが怖くなったという大島亮吉とは別の感覚で、現代の山は寒々しい。「山」とは、「人のいないところ」、そして「怖いところ」というのが持論だが、今どきの山登りなどもう止めといた方がいいのかも、と真剣に考えてしまう。
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45 妖怪作家の「いらぬ子猫の崖落とし」と、40年前の切ない「川流し」(2006.9.27記)
 生まれたて子猫殺しを告白した某直木賞作家が、ついに在住地タヒチの管轄政府から動物虐待で告発されるかもしれないという(発端は8月18日付の日経夕刊コラム)。生命倫理がどうのという以前の胸くそ悪い話に、猫を飼わない身としてはトラウマのような体験を思い出し、切ない気持ちにさせられる。それが40年前の話だとしても…。

 当時の我が家の飼い猫はペットという存在じゃなく、あくまでもネズミ対策であった。冬のこたつで猫と戯れたりするが、ふとんに入れることは禁じられた。

 あるとき数匹の子を納屋で生んだのだが、父がすぐ取り上げて近くの川へ捨てに行った。母猫の狂乱ぶりはすさまじく、子を探して家中を絞り上げるような鳴き声で探し回った。様子を恐る恐る伺っていたこちらに気づいて猛然と向かってきたときは、「ごめん…」とつぶやいて扉をぴしゃりと閉めた。そのときの母猫の形相は、鳥肌が立つほど怖かったことを今でも思い出す。しかし、意を決して?扉を開けて叱りつけると、「フニャ〜」と力なく鳴いて、まるで憑き物がおちたようにおとなしい猫に戻っていた。家につくといわれる猫の切り替えの早さだった。

 その後しばらくして、この飼い猫は農薬にでもあたったのか、死んでしまう。夜、全身をけいれんさせながら家に帰ってきたので、毛糸を入れた段ボール箱を出窓においてやると、死期を悟ったようにすぐさま中に入って丸くなり、そして朝には硬くなっていた。亡きがらは川が分岐する三角洲の段丘に埋め、父と線香を焚いて手を合わせた。

 猫がいなくなった我が家では、再び油揚げを餌にしてネズミ捕りをかけた。捕ったネズミを川へ行って始末するのが、早朝の自分の役目だった。カゴごと水に漬けてもネズミはなかなか死なず、強力な歯でカゴの針金を食いちぎろうともがいた。カゴを持つ手に、大きな魚を釣るときのような手応えを感じた。その生命力に驚きつつ、何回か漬けたり上げたりして、弱っていくさまを凝視した。そして、力尽きたヤツを川に放してやるのだった。

 子猫の川流し…こんなことは、かつて日本の山村・田園地帯でごく普通だったのだろうか? 他の家ではどうしていたか知らないし、聞いたこともない。自分が暮らしていた平野部では「川流し」だったが、山間部では直木賞作家がやったように「崖落とし」だっただろう。

 実際に、そんな風習を示す例が地名として残されている。神奈川県には「ネコッコロバシ」、大分県には「ネコオトシ」という「猫の捨て場」とされる地名があるという。明らかに子猫を処分するために投げ捨てる崖の存在を意味する。京都市の東寺の南東端を通称「ネコの曲がり」というのも、かつて猫の捨て場だったからだと本で読んだことがある。

 それにしても、寂しさを癒すために猫と暮らす一方で、いまどき「いらぬ子猫の崖落とし」とは…。坂東眞砂子という人は「山妣」(やまはは)ならぬ妖怪作家であるな。
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44 知床の猫山には耳が二つついていた(2006.3.21記)
知床半島の山と沢 最近、『知床半島の山と沢』(共同文化社)という本を購入した。昨秋に出版されたことは雑誌などでも知っていたのだが、2月上旬に著者の伊藤正博さん(網走山岳会会員)から「知床の山と沢を網羅した本ですが、沢から登った猫山(553.3m)の記録も載せてあります」と、親切にもメールをいただいたからだ。

 知床の山々については、せめてモセカルベツ川やサシルイ川、あるいはコタキ川から知床岳に行ってみたいと、若い頃から思いを抱いてきた。今では同じ知床でも、登山者に見向きもされない猫山(553m)に興味が向く。北海道で猫山というのはここだけだし、山の由来もはっきりしない。その猫山に、しかも沢から登ったのだから、ぜひともこの本を手にとってみたかった。

 Amazonに注文すると2日後に届いた。すぐに猫山のページをめくる。麓から撮った猫山の写真があって、なんと猫耳がついているではないか。著者は『猫山の名の由来は不明である。茶志別橋から眺めると二つの耳がある猫の顔の様に見えるので名付けられたのか、アイヌ語の「ナィ・コッ」(水の涸れた沢、水の無い沢の意味)に漢字を当てたのだろうか。』と書いている。

 この本では、必ず山名や沢名の語源を説明しており、行動記録の羅列でないところがうれしい。猫山についてアイヌ語の当て字説は知っていたが、この山の写真を見ると、どうやら山の形容からつけられた山名というほうに自然に傾いてしまうのだ。いつかこの目で確かめに行きたいものだ。
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43「復刻版」を手に、初めての「山の本」を読み返す(2005.7.5記)
山岳省察 いつもより早めに職場を退けたので、池袋から地下鉄一駅分歩くことにした。しょっぱなから西池袋の八勝堂書店に引っかかる。わりと山岳書揃えがよく、要チェックの古書店である。『山の人達』(高橋文太郎著、昭和16年)が目をひいたが、38000円也という高値。そのとなりに『山岳省察』(今西錦司著、昭和15年)の復刻版(昭和50年)を見つけたので思わず手が伸びる。この日はためらったが、数日後に思い直して2000円で購入した。自分にとっては特別な思いのある本だから。

 高校2年のときに初めて読んだ山の本が『山と探検』(今西錦司著、昭和45年、文芸春秋刊)で、そのなかに「山岳省察」も入っていた。人と思想シリーズの一冊として、「山岳省察」のほか「草原行」「遊牧論そのほか」「山と探検」「ヒマラヤを語る」「カラコルム」「ルエンゾリ 月の山」が収められている。その年、私は地元東北の船形山に初めて登って山の魅力を知ったあとだけに、500ページを超すボリュームと玄人向けの内容に苦闘しながらも何とか読み通した。

 たまたま田舎の本屋で出会った『山と探検』なのだが、記念すべき本として今でも捨てずにある。とくに「山岳省察」の山を目指す者へのメッセージはインパクトが強い。登山のイロハも知らない当時の私には、同書の本領である「初登山」や「エクスペディション」などよりも、「気になる山」「不遇(マイナー)な山」へのまなざしを芽生えさせてくれたことになる。自分で線を引いていた次の一文は、山岳部や探検部でなく、ワンゲル部を選んだバックボーンともなっていく。

山と探検 
「これからはもっとどこへ行ってもあるような山、昔からその存在は知られていながら、登山の対象とはならなかった山に、もっとドシドシと、皆して愉快に登れるようにするべきではないかと思われる。」(「春の山に登る」1933)
 生まれ育った東北の山々は、アルプスのような高さはないが、重厚とした峰々の奥に何か別の隠れ里があるような気がして、いつも双眼鏡で眺めていたものだ。それだけに、気軽には山へ行くことができず、憧れだけを強くしていた。

 それから6、7年後に出た講談社学術文庫版『山岳省察』でも、『山と探検』でカットされていた「登山の実証的一断面」を読んで共感している。

 
「ハイキングとワンダリングとの相違は、第一に道の良し悪しということに帰着せしめてもよいであろう。」
 「私にとってその山が人里遠く離れていて、その頂きを得るためには、谷をうがち、尾根を越えて、道を離れてからもまだ野宿を必要としなければならないような山であればいいと思う。世にあまり知られず、森が深く、谷が深ければ深いほどよい。」
 「山が高いことはけっこうではあるが、高い山ほど多く注意され、早く開ける。私の山への憧憬をみたしてくれるものははじめから山の奥深さということにあった。だから私は低きより高きに進むというよりは、むしろつねに浅きより深きに進まんとしてきた者である。」(以上、「登山の実証的一断面」より。1934)


 あえて初版の文字をなぞりたくて購入した『山岳省察』復刻版を開くと、袋とじをナイフで裂きながら読み進めていくフランス装丁までも当時のまま。戦前の読みづらい旧かなづかいにもかかわらず、そこで語られている斬新な響きは今なお色褪せていない。

 
「われわれは山に対してはいつになっても初心者であるという謙虚な気持ちを、常に持っていたいものである。」(「山への作法」)
 50を過ぎて、登る意志も後退しがちなこの頃、実質初心者としてつくづく感じ入る今西御大の言葉だと思っている。

 ところで、6月30日のNHK「探検ロマン 世界遺産」に、ナイル川源流にそびえるアフリカ第3の高峰で、「月の山」といわれるルゥエンゾリ(最高峰5111m)が登場した。氷河を抱くニョキニョキした山容(猫耳だったなあ)と巨大で不思議な植物群の映像を見ると、今西御大が書いたとおり非常に興味深い山群だ。沼地を突破するための長靴やストックと、氷河登高のために必要なピッケル、アイゼンという対照的装備が赤道直下の山らしくて面白そう。

 世界遺産としてその名が知れわたり、ウガンダの政情も一層安定すればツアー登山客が押し寄せるのだろうか。今西御大は、すでに50年も前に「私のイマジネーションを刺激する」といって、ゴリラ調査のついでにこの山群に入った。そして、いずれは観光の山になるだろうとも予測している。同時期にアフリカ遠征した早大隊が「キリマンジャロを登って鬼の首をとったかのように思っている」という時代にだ。

 『山と探検』の「ルエンゾリ 月の山」では、伝説に包まれたこの山群の興味深い探検登山史も併せて載っていて、想像力をかきたてられたものだ。月明かりに照らされた山を前にするとき、呪文かおまじないのように「ルゥエンゾリ、ルゥエンゾリ」と口をついて出る。
 (注) ルゥエンゾリ登山については、『月の山 ゴリラの山』(敷島悦郎、山と渓谷社刊)に詳しい。
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42 『森の地図』を読んで、山を見る目を考える(2005.6.19記)
 タイトルにひかれて『森の地図』という絵本を読んだ。山好きが読んでも面白そうなので紹介したい。

 1枚の地図を手に、少年カムロは森へわけいった。憧れの岩山にのぼるためである。道に迷ったカムロにイタチが言う。
 「あなたのこの地図では、何百年と歩いたところであの岩山にはのぼれません。第一、あなたはあの岩山にのぼる資格もないようだ」
 「引き返しなさい」と忠告を受けたにもかかわらず、そのまま歩んでいくと、とつぜん風がふきぬけ、空が真っ黒におおいつくされた。少年の前にあらわれた、恐ろしい「森のあるじ」が問いかけた。
 「おまえは本当の地図をもっているのか」と。

森の地図 「森のあるじ」によると、人間の作った地図は「人と人との約束ごと」にすぎないのだという。では「本当の地図」とはなにか? …「森のあるじ」に諭された少年は、何年かかっても自分だけの地図を探すと心に誓うのだった。

 絵本ではあるがテーマは重く、地図の持つ意味、山に入る意味をあらためて考えさせられる。自分の足で山歩きをするひと、特に藪山派に読んでほしい。GPS全盛時代が到来しつつあるが、長く山とつきあっていきたいひとは「自分の地図」探しを始めてほしいものだ。

 『森の地図』は、阿部夏丸・文、あべ弘士・絵、2005年4月、ブロンズ新社発行、定価1400円+税。

         ◇

 学生時代、山を歩くときは常に地形図を手に持って歩いた。「重荷を背負って歩けること」「焚き火で飯ごうメシを炊けること」、そして「地図を読めること」が1人前のワンダラーであった。

 地図への愛着も強かった20代の頃、ある雑誌に小文を載せてもらったことがある。「地図の重さ」という題で、二十数年ぶりに読み返すと、何を言いたいのかわからない部分もあって、今となっては苦笑ものだ(題は、高橋洋子主演の映画「旅の重さ」をヒントにしたようだ)。『森の地図』と言いたいことは同じでないかもしれないが、何となく共感できるものがあるので、あえて恥を覚悟で掲載しておく。

「地図の重さ」
 山行の前に地図をジックリ眺めるのは楽しい。等高線を目でなぞる。頂上に立ったつもりで周囲の山々に、思いを巡らす。すると頭の中にすばらしい展望が広がる。
 こうした机上登山が実際の山行を豊かにしてくれるプロローグならば、エピローグは踏破したコースに引いた赤線を眺めながらの回想登山だ。汗の臭いがしみつき、汚れてボロボロになった地図ほど苦闘した思い出を秘めている。
 山で使う地図は国土地理院発行の地形図に限る。普通は5万分の1、山域の概念を知るのに20万分の1、沢登り用には2万5千分の1といった具合。コースタイム等の入った登山地図は、その便利さゆえに登山者の想像力・回想力を奪っているのではないか? だから使っていない。必要な情報は地形図に書き加えればいい。
 赤線の引かれた百数十枚もの私の地図は、まぎれもなく“旅の重さ”を物語っている。ドライブをしたからといって、道路マップに赤線を引くドライバーがいるだろうか。(1980年書く、一部改訂)

※地図読みに興味のあるひとは、『地図の読み方』(小学館)の著者、平塚晶人さん(徒登行山岳会会員)のサイトが参考になります(http://www.geocities.jp/chikeizu/)
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41 野猫と大ヘビに遭遇した復活の山歩き(2005.5.5記)
 1年8カ月ぶりに山を歩いてきた。体力確認のためのコースということで選んだのは、近場の外秩父七峰(官ノ倉山〜笠山〜堂平山〜剣ヶ峰〜大霧山〜皇鈴山〜登谷山)。しかし「全行程42キロを10時間で歩けたら自分をほめてやろう」なんて意気込みはどこへやら、当日家を出たのが8時半というだらけぶり。東武東上線小川町駅から歩き出したのは10時近くになってしまった。ま、ハイキングで気張ってもしょうがない。

 心なごむ田園風景を眺め行きながら、山里のおっとり猫でもおらんかと期待したが見つからぬ。官ノ倉山(344m)を越して、オジオバたむろする和紙センターに着くと、もう昼過ぎだ。土産物屋をのぞいたりして長居してしまう。この先がんばっても定峰峠か、せいぜい白石峠までだろうと一気に軟弱モード。モチの上がらぬ舗装された林道(御堂笠山線)は、強い日差しが照り返してつらいにゃあ。

 小1時間もだらだらと登り続けていると、何やら左手山側の藪ががさごそと音をたてた。近寄ると白黒のブチ猫がいて、こちらを見据えている。里からかなり離れているのになぜ? もはや飼い猫の行動範囲を超えている山中なのに、野猫だろうか。カメラを向け、もう一歩近づいたら、藪の奥に入り込まれてしまった。残念! 痩せこけているわけでないので、最近捨てられたのかもしれない。このあたりの低山(標高300m前後)であれば、そこそこ生き抜くことはできる環境だろうが…。人恋しくなったら林道下るんだよ!

アオダイショウ いったん萩平の集落に下り、笠山(837m)への登りにかかる。暑さのせいか、急に足が上がらなくなった。これがブランクというものか。バテ気味で頂上に着いて、きょうは、あと二つピークを越して白石峠までと迷わず最終判断。

 笠山峠へ広いがちょっと急な道を下り始める。と、足元の棒?がゾロリと動いた。全長約2mのアオダイショウだった
(写真=笠山の主)。暑くて道をふさぐように涼んでいたのか、逃げもしない。太さといい長さといい、しばし見入ってしまう。こんな立派なやつに出くわしたのが妙にうれしい。運気上昇のしるしかも、と勝手に巳歳生まれは思い込む。

 白石峠から下山となると気が楽になった。天文台のある堂平山(875.8m)は芝生が牧歌的。そして丸太道の急登であっさりと剣ヶ峰(876m)に立つ。緩やかにうねる七峰縦走後半部の山々に未練を残しつつ、白石峠からすたこら下って16時40分、白石車庫バス停着。ちょうど小川町駅行きバスが待っていた。

 帰宅後、全国各地で真夏日になったことを知る。秩父地方では31度を越えたというからビックリ。この季節の低山歩きには酷な条件下で約20キロ歩いたのだから、バテるわけだ。それでも第20回外秩父七峰縦走ハイキング大会(17日)の翌週だったせいか、官ノ倉山で1人すれ違っただけの意外な静けさに救われた。しかも野猫と大ヘビに遭遇するという、縁起のいい?取り合わせが山歩き復活への祝福に思えた。(2005年4月28日歩く コースタイム:小川町駅9:50 官ノ倉山11:17〜20 和紙センター12:10〜30 笠山14:55〜15:05 笠山峠15:20 堂平山15:45 剣ヶ峰15:58〜16:05 白石峠16:10 白石車庫バス停16:40)
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VOL.40 父の残した句歌に「山」と「猫」をおもう(2005.2.28記)
 父が亡くなって半年。過ぎゆく時の早さに溜め息つくばかりだが、ようやく落ち着きを取り戻してきた。大病を患っていた母は、奇跡的な復帰を遂げて、気丈な日々を過ごしているのが何よりだ。看護や介護に追われる日々が続くと、正直なところ精神的な余裕はなく、山どころではなかった。昨年(2004年)は結局、一度も登らずじまいである。50代になったら月一くらいは登るぞなんていう、それまでの意気込みは幻想もいいところだったか。

 この間の運動不足を補うため、スポーツジムにもチョコマカと通い、時間を見つけては泳いだりもしていたが、健診結果はショッキングなものだった。減量したのに高脂血症の疑いといわれ、便潜血反応のおまけまでついた。やはりストレスに弱い体質なのだろうかなあ。今後20年間は予定している山登り戦略も練り直さなくては…。

 ところで、父の遺品整理をして驚いた。50代後半から始めた俳句、短歌が二千句首以上。俳句手帳のほか、大概は毎年の手帳の端っこに書き留めてある。晩酌しながら作句するのが晩年の楽しみだったが、こんなに残していたとは。

 そのなかで、山と猫に関するものもいくつか詠まれていて興味深かった。若い頃の息子の山登りを、郷里から心配していたことがわかる。親の気持ち子知らずである。また、猫嫌いだった父だが、実は猫が妙に気になっていたらしく、作句の恰好の材料にしたらしい。鉢植えの葉を野良猫がかじるのに対抗して、葉っぱにコショウをふりかけてにんまりしていた父が目に浮かぶ。猫は日常の好敵手だったのだ。

 山と猫の句歌をいくつか拾ってみる。このHPのことなど、つゆ知らずに逝った父にたむけたい。

 事故頻る冬富士に息子ら登ると云い来て吾は心騒げり
 冬山に息(こ)の山行は程々と言うは老にしわが身哀しも
 冬山は励まし来たる頃ありき息(こ)の山行に老いてためらう
 アイゼンを仕舞う子の山行に妻安し
 スキー持つ子の富士山行を祈りけり
 岩登りザック息子に早春賦
 山男山降りて年男なる

 恋猫の喚きわが家に春おぼろ
 春日や捨て猫われを疑わず
 梅雨近く隣家の猫の抜け出でし
 抱かれし猫の目うらら小六月
 猫の鈴芸に戯れてゐ春隣り
 視線あう猫隣より春立ちぬ
 冬麗に猫悠揚の差し向かい
 隣猫その目で知らす日向ぼこ
 恋猫にして夜明け待つもどかしき
 どら猫の浮世へ迫る寒さかな
 そこそこに二月の思い猫うろたふ
 流し目に気ごころ嬉し妊み猫
 正月の玄関が舞台招き猫
 窓際に星をいただきうかれ猫
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39 「ミスターグルメ」と「ミラクルバアチャン」(2004.4.4記)
 ミスターが脳梗塞で入院してから1カ月。当初は、劇的快復とばかり「笑った」「飲んだ」「話した」「自分で起き上がった」などの見出しが踊り、アテネ五輪監督としての「ミラクル」を期待するスポーツ紙を見るにつけ「ちょっと違うんでないの」と思っていた。82歳になる私の母も昨年末にクモ膜下出血で入院し、同じ病室の脳梗塞患者を何人か見てきたので、伝えられる記事から想像する限り「中程度」の症状とされるミスターの「ミラクル」へ向けた道のりは、かなり厳しいのではないかと心配する。

 脳卒中のなかでも、動脈瘤が破れるクモ膜下出血は死亡率50%、生還できたとしてもその半数は何らかの障害を抱えるという怖い病気だ。しかも、発症時に患者が感じる痛さナンバーワン(バットで頭をぶん殴られたような激しい痛みが襲うという)で、働き盛りの40、50代が突然死する病気としても知られる。手術自体は成功しても、その後の血管れん縮で脳梗塞が起きやすく油断できない。結局、障害なしで退院できるのは4分の1足らず。高齢者の場合はさらに条件が悪くなり、長期入院が原因で寝たきりになる可能性が高い。

 母が昏睡状態で病院に担ぎ込まれた際には、「覚悟してください」と言われるほどの重症だった。年末にもかかわらず入院3日目で手術できたのは幸いだった。高齢のため開頭は避けざるをえず、足の付け根から血管にカテーテルを入れて、破れた動脈瘤にプラチナ・コイルを詰めるという高度な手術だった。術後の2週間は危険域で、一時こん睡状態に陥ったこともあったが、無事乗り切った。入院して2カ月近く経ったリハビリ専門病院への転院も間近いという日、介助なしでトイレに歩いていく母の姿を見た担当医は、本当に驚いた様子だったという。手足の麻痺をはじめ言語障害もなかったのは、ほとんど奇跡的といってよい。リハビリ病院での回復ぶりもめざましく、わずか1カ月で退院することができたのだった。高齢者のリハビリは入院期間の倍以上を要するというから、半分の日数で済んだことになる。

 ミスターの場合はどうだろうか? 軽度なら西城秀樹のように復帰も早いわけだが、手足の麻痺を日常生活に対応できるほどに回復させるには、相当期間のリハビリが必要だろうと思う。「オムツがとれた!」なんていう見出しなど絶対に新聞には出ないだろうが、自分である程度の動作ができるという回復度の目安は1人でトイレに立てるかどうかだ。最近の週刊誌で伝えられた「実はミスターグルメだった! 脳梗塞の原因は美食にあり フグ白子、フカヒレ、うな重、あんパンにメロン…牛乳は大嫌いで、毎日外食 長嶋茂雄の危険な食卓」を読むと、「血液サラサラ」の重要性をつくづく感じてしまう。「血液ドロリ」の落とし穴にはまった健康自慢のミスターグルメ。片や、高度な手術に耐える「きれいな血管」(担当医)で奇跡的快復を果たした我がミラクルバアチャン。食生活には特に気をつかっていたからこそ、土壇場で「血液サラサラ」が生かされたわけだ。

 しかし、怖いことも聞いた。母の担当医が言うには、クモ膜下出血の原因となる動脈瘤は40代、50代のころから何らかの原因でできるのだが、家族性の問題もあるらしいのだという。つまり、親がこの病気になれば、子も動脈瘤のできる確率が高い。血液サラサラはクリアしているつもりだが、ストレスに弱いのも共通してるか…。てなわけで、最近はアタマ関連の健康本などにばかり気が向いてしまった。でも「ボケたくないと思う人ほどボケる」などと書いてあると、ばかばかしくなってしまうものだ。やはり、山をほっつき歩いているのが一番か。そのうち、久々に山に行くときは、さぞや緑が目にしみることだろうニャー。
 「たまに行くから 山っていいんだよと 強がり言う 猫の冬ごもり」
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38 身近な公園のマイウオール(2003.11.25記)
 たまにジョギングにでかける近所の公園に、登って楽しい長い石垣がある。高さ4mくらいで、傾斜は70度近い。所々に指の第1関節がかかる程度のカチホールドはあるが、スタンスはいずれも外傾していてフリクション頼みとなる。

マイウオール 何とかジョギングシューズで登下降できるので、バランスクライミングの感覚を維持するトレーニングにはなる。落ちても柔らかな草地がクッションとなってくれる。

 この公園は、広大な樹林と原っぱで構成されていて、あまり人目を気にすることもない。明るい日差しを浴びながら、30分も遊んでいると汗がじっとりと滲む。課題は80mにも及ぶトラバースで、これがなかなか根気がいる。いまだに20mくらいで落ちてしまう。

 石垣にへばりつく怪しいおじさんを見ていた親子連れも石垣登りに挑戦したりする。たまに上まで登れるスジのいい子がいるが、クライムダウンすることはできないので、べそをかきながら道をぐるりと回り戻ってこなければならない。

 ある日、石垣を前に準備運動をしていると、ヒモにつながれた丸々太った猫が、こちらにやってきたことがあった。女の子がそっち行っちゃダメと、ヒモをぐいと引っ張って猫を抱きかかえて向こうに行ってしまった。「猫は自分で遊びたがっているんだから、解放してやれよ!」と言いたくなった。

 なかなか山に行けない時は、走ったり、泳いだりして気をまぎらわすほかない。ついでに、こんな身近なところにあるマイウオールにマイペースで遊ぶことも、次の一手に備えることにはなるだろう。猫のように、いつでもどこでも一人で遊ぶ術を持つことは重要です。
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37 そんな時代の駅前事件(2003.8.20記)
 昔のことを思い出したついでにもうひとつ、ノドに刺さった小骨のような話。

 ワンゲル時代はよく仲間どうし酒を酌み交わしたが、他校とのつきあいで飲むこともあった。日中慶明の四大合W(合同ワンデリング)というのが当時は毎年行われていて、3年生の初秋だったか、そのミーティング後に飲み、お茶の水駅聖橋口で解散というときに事件は起きた。

 「おいチュン大!」「なんだポン大!」というかけあいで、飲んだくれ同士がじゃれ始めたのだ。もみあっているうちに、改札前に立てかけてあった、国鉄(当時)のガラス張り看板を倒して派手にガラスを割ってしまった。改札ボックス内の駅員が緊急通報ボタンを押したらしく、たちまち警官が飛んできてM大側にある駅前交番に全員(6人くらいか)しょっぴかれてしまった。

 ガラスを割った飲んだくれどもが説教されてるあいだ、当事者意識の薄いヤマネコは交番の奥で、機動隊用の盾やらヘルメットなどをいじって遊んでいた。説教がすんでヤレヤレ、そのまま放免かと思いきや、そうは問屋がおろさなかった。「割ったガラス代を弁償せよ」とのお裁き!?が申し渡されたのだ。こちらとしては、やっかいなことになるよりは早く解放されたかったので、1人数千円ずつ有り金はたいて2万円おいてきた(学割だと往復千円ちょいで谷川岳に行けた時代の2万円は1週間のバイト代に相当)。

 ところがだ。それから何日たってもその看板は復活せずじまい。駅としては、酔っぱらいに倒されるような看板の設置は見合わせることにしたのだろうか。腑に落ちないので駅に問い合わせようとしたこともあるが、寝た子をおこすようでもあり、それっきりとなった。2万円は確かに国鉄に渡されたのかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、いずれにしてもガラス補修費も不明の段階で示談交渉もしていないうちから、金だけ置いていけというのはほとんど恐喝にも等しい。

 それからというもの、ときおり酒の席でこの事件が話題となった。1、2年後くらいに封切りされた「人間の証明」(角川映画・森村誠一原作)のコピーをもじって、「おまわりさん、あの2万円どこへいったのでしょうね」と悔しがったことも。

 学生運動全盛時には、一般学生も機動隊に投石して騒乱状態となった、駿河台カルチェラタン事件の現場派出所である。腑抜けになってきた学生どもに一泡ふかせてやろうという魂胆もあったのだろうが、近ごろ度重なる警察不祥事の温床はこの頃からあったわけですな。

 社会人となって入った山岳会の例会が、お茶の水の名曲喫茶「丘」で行われていたとき、駅をおりるとその交番をジロリと一瞥したものだ。
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36 あんな時代の高尾の誘い(2003.7.30記)
 人生折り返しを過ぎると、昔のことをついつい思い出してしまうものらしい。

 はて、ヤマネコは確か登ったことがあるのだが…自分の山行一覧を眺めていて、東京都の名山・高尾山(600m)が抜けているのに気がついた。そうそう、あれは大学1年の初夏で、むし暑い日だったよ。

 親睦を兼ねたクラスハイキングだった。教室での呼びかけに応じたのか、案内ビラをもらったのかわからない。とにかくワンゲル部員だったヤマネコは、すぐ参加にOKしたと思う。山やってるんだ、というところを見せたかったのかもしれない(高尾山で? 笑)。ビブラム履いていったんだ。

 当日、ありゃりゃ、と思ったのは確かだ。待ち合わせ場所にやって来たのは2人、それも男だけだったから。女子も来るものだとばかり期待したヤマネコは、内心がっかりしたことだろう。みんな来るからと言われてその気になったのかもな。事前に参加者をなぜ把握していなかったか、いまだ不思議のウワの空。

 高尾山の参道を黙々と歩きながら、ヤマネコはだんだん不機嫌になっていった(はずだ)。同行者は2人ともいわゆる「活動家」である(それは薄々知っていた)。1人は革新政党系の青年組織、もう1人は内ゲバで名を馳せるセクトに属していたので、いわば呉越同舟・一触即発パーティーに乗り合わせてしまったわけだ(すごい取り合わせ!)。青年組織君は、入学早々からリーダーシップを発揮してクラス委員長的存在。内ゲバ君は無口だが強い意志の持ち主とみた。

 この日の内ゲバ君は楽しそうで、気分が良さそうだった。闘争疲れを癒していたのかもしれないな。腕に包帯を巻いていて、青年組織君はあとで「成田で暴れた証拠だ」と忌々しげに言っていた。

 小仏峠から相模湖駅に下った(城山からかもしれない)。とにかく暑かったので、3人で店に入ってかき氷を食べて打ち上げ。中央線の途中で内ゲバ君が下車すると、青年組織君は執拗に仲間になるようオルグしてきたもんだ(来たーッ)。部室に行くからと言ってもついてきて、大学正門前でやっとのことで振り切った。

 お人好しのヤマネコは、お義理に「祖学」(知ってる人は知っている)を購読することになった。ま、俺は山のクラブに忙しくて活動はできないが、シンパ的存在ではあるよ、などと調子のいいことを言って逃げたのだろう。

 ハイキングをオルグに利用された骨折り損の1日だったわけだが、判断次第では良いか悪いかは別として、違った人生を歩んでいたかもしれない。特に意図するところもない話だけれども、あの頃が妙に懐かしく思い出された。晩秋から初冬にでも、記憶の彼方の蜃気楼となっていた高尾山に、敬意を表してきちんと登り直してみたいと思うんだ、ニャ。
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35 猫の山で「春の女神」に出会ったよ(2003.6.24記)
 いよいよ今年から猫山探検隊が本格始動。その手始めに猫又伝説の山・権現堂山と、猫がうずくまっているように見えることから名付けられた猫岩を歩いてきた。そして驚きの出会いと発見も……。

 猫感というのか、そもそもこれらの山はずーと昔から気になっていたのであった。毛猛連山の西側前衛にあたる、たかだか1000m前後の山々。20数年前に越後駒ヶ岳に登ったときに見た、低いがうねるような連なりが印象的で、最高峰は唐松山(1079m)という。そのすぐ西隣に「猫岩」(1008m)があり、地形図にも記されていて興味津々だった。さらに尾根は西北西に上権現堂山(997m)、下権現堂山(896m)へと続いている。猫又伝説の存在を知るのは20年も後になってのことだ。 →権現堂の猫又伝説と画像

 今回は、手ノ又登山道から上権現堂山分岐を経て、まず猫岩・唐松山を往復し、一気に上権現堂山・下権現堂山も縦走しようというもの。手ノ又登山口には先行者の車が10台ほど駐車しており、地元での人気ぶりが伺える。たいていは唐松山往復だろう。道はよく整備されていて歩きやすい。山は低いが彫りは深く、典型的な越後の山の表情をしている。陽あたりのいい登山道にトカゲがたくさんいて、足下からかさかさと逃げていく。一汗かくと落差30mの不動滝を俯瞰できる滝見台。めざす猫岩と唐松山も見える。目をこらすと確かに猫が頭を唐松山の方に向けて伏せているようだ。なるほど、なるほど。耳もついていると完璧なのだが。名付けた人はよほどの猫好きだったのだろうな。猫岩にも伝説があり、悪さをした猫又が権現堂の山の神の怒りにふれて岩に変えられてしまったのだという。

猫岩と登山者 稜線から右折して猫岩に向かう。急登に喘いで「いっぷく平」へ。展望が開けて振り向けばボリュウムのある上権現堂山が大きい。間近に迫った猫岩に人が立っているのが見える。猫岩基部に着くと右側を巻く道標もあるが、猫の尻部分から簡単に登ると背中の頂上には「猫岩」の標識が立つ。猫の頭部分の方へ進むとそのまま下りられず、首の部分から右下にトラバースして通過する。猫岩の北側はスッパリと落ち込んでいて見栄えがよい。岩正面は見ようによっては猫の顔に見えないこともない
(左画像=猫岩に立つ登山者。背後は上権現堂山)

 小ピークを越えると端正な三角形の唐松山。狭い頂上で酒臭い中高年パーティーがひしめきあっていた。越後の山の展望台なのに、きょうは毛猛連山さえ霞んで見えず、そそくさと頂上をあとにする。やっぱり残雪の映える5月連休に来ればよかったか。

 小ピークまで戻るとヒラリヒラリと見覚えのある蝶が舞っている。ギフチョウだ。でも、なぜ「春の女神」と呼ばれる蝶が、この時期に山頂に上がっているのだろう? 飛んでくるカラスアゲハを追い払う占有行動をしていたのも意外だった。少し下ったところでもう1頭。弱々しく飛び、帽子で払ったら地面にハタリと落ちてしまった。もう寿命だったのか羽は破れかけ、産卵も終わっているので持ち帰ることにする(近々、渋谷の志賀昆虫普及社に行って展翅板など買いそろえよう。志賀普及は昆虫採集・標本用具の老舗で、中学生のとき田舎からはるばるドイツ標本箱を買いにきて以来だから30数年ぶりだな。ニャハハ)。

 上権現堂山の登りから振り返ると猫がいてハッとする(注:もちろんナマ猫のことじゃないヨ)。猫岩の左手に見える唐松山と手前のギフチョウのいたピークとが、うまい具合に「猫の耳」となっているのだ。「猫又伝説の山」から「猫岩」と「猫の耳」か。ちょっと出来すぎているぞ。この一帯は北アの猫又山周辺に次ぐ濃厚な猫山ゾーンと言えそうだ。

 上権現堂山では、またもや地元おじさん達が鍋を囲んでゲップ腹になっている。あんたら化け猫に踊らされてるんじゃないか? 長岡から来たのか、10人くらいの学生グループもいて騒々しい。伝説にまつわるらしい「鬼の穴」という案内標柱にそそられたが、「ここから300メートル下」とあるので今回はあきらめる。

 下権現堂山までは露岩のある気持ち良い尾根歩き。上権現堂山に北西から突き上げる下高滝沢からは、その名の示す大滝のゴーゴーと水を落とす音が響く。うって変わってひっそりとした下権現堂山から戸隠神社へ向けて下山にかかる。弥三郎清水(7・5合目)の手前で、真っ黒い犬連れのおじさんが登ってきた。そういえば、この山の伝説で猟師が連れ歩いたのは真っ黒いカラス猫だった。

 縦走中は何でもなかったのに、8合目までの急坂のせいで足が悲鳴を上げ始めた。下りでつらい思いをするなんてめったになかったのに。50歳にして仕切り直しかな。

 【コースタイム】手ノ又登山口8:40 滝見台9:03 上権現堂山分岐9:40〜45 猫岩10:30〜35 唐松山11:00〜11:05 猫岩11:30 分岐12:15〜25 上権現堂山12:55〜13:05 下権現堂山14:05〜14:20 弥三郎清水14:35 戸隠神社15:18
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34 とりあえずスイミングにハマってしまった(2003.6.8記)
 最近、スイミングにハマっている。休日や出勤前など週に2、3回は泳ぐ。

 自宅から歩いて2分のところに市営の温水プールがあるのだから、利用しない手はない。何よりもパンツとキャップとゴーグルを用意するだけの手軽さがよい。3時間で300円という入場料もグッド。休館日にも泳ぐのなら職場近くのフィットネスクラブを利用するつもりだが、今のところその必要はない(こちらは法人会員で1回800円)。たとえクライミングジムが近所にあったとしても、同じ頻度で通うことはないだろう。レベルアップにこだわらない自由度の高さがいいのだ。生涯スポーツという息の長さを考えればなおさらである。

 自分の場合、平泳ぎを中心に休憩をはさんで50分泳2セットくらいが程よい。競泳が目的ではないので、ゆったりと遠泳向きの泳ぎをする。まだ経験ないが数時間は楽に泳ぎ続けられると思う。調子のいいときは25mずつクロールと交互に泳ぐ。スイミングは、同じ有酸素運動でもランニングに比べて効果絶大だ。泳ぎ終わったあとの疲労感はあまりない。普通なら運動してはいけない腰痛や捻挫にも水中では優しいし、体調などに応じて水中歩行に切り替えられる。

 毎週のように山通いして、登った山や沢の数が増えるのは楽しく励みになるものだが、いつまでも同じペースで登り続けられるわけでもない。そんな夢中になる時期もとうに過ぎてしまっている。ただ、若い頃から気になっていた山や不遇な沢を少しずつ「落ち穂拾い」していくつもりに変わりはない。ネガティブ思考のようだが、いまは体力維持することが最低限の「怠りない準備」につながると思う。体力が落ちるとますます山は遠ざかる。それを防ぐためにも楽しみつつスイミングを続けていけるならば、今年の山行回数はちょっぴり増えるんじゃないかな、とか思っております。
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33 七ツ小屋山は猫池山でもよかったと思う(2003.3.23記)
 このところ上越の山が猫くさい(と勝手に思いこんでいる)。今回のネタは七ツ小屋山(1675m)。2002年夏の集中山行で登った。私は腰痛のため白樺尾根から1人で向かい、頂上で湯桧曽川本谷パーティーと合流した。丸ノ沢本谷と七ツ小屋裏沢の各パーティーを待つあいだ、仲間が広げて見ていた登山地図(昭文社エアリアマップ)を覗き込んでハッとした。七ツ小屋山のすぐ東に「猫池」と記載されているではないか。10年以上前に買った自分の登山地図には載っていないので知らなんだ。丸ノ沢左俣の詰めで池に出合うということが日本登山体系には書いてあったが、位置からしてこの「猫池」のことなのだった。

 なぜ、「猫池」という池なのか? 尾根上なので「根ッコ」や「根古」の転化ではなさそう。カギは七ツ小屋山の由来にあるとにらんだ。『日本山岳ルーツ大辞典』には、「麓に七軒の小屋があったことに由来する」とトンチンカンな説明で話にならない。手元にある他の資料では『越後の山旅 下巻』(藤島玄、富士波出版)がある。通読したことはないが、山名や古文献に詳しく手がかりがあるかもしれない。すると、198頁「蓬峠と清水峠と茂倉岳」で、七ツ小屋山から清水峠へは「東へ緩降し、左下には猫池を見下ろし」と、さりげなく「猫池」が登場していた。山名の由来についても触れており、「参謀本部の測量当時、この附近に七ツの天幕を張って長期間の測量をしたからの山名だ、というから呆れるが」とある。

 呆れた山名のついでに想像力たくましく謎解きしてみよう。天幕を張って長期間の測量をしたのは事実だろう。測量技師かボッカ・飯炊き人が慰みに猫を連れてきていたとする(ここがポイント)。飲料水に利用した池に猫も水を飲みにきた。そこでこの池を猫池と名付けた。いまさら断定はできないし、調べようもない。ただし全く可能性がないとは言えないことである。かつて付近に気象観測所があったので、それとの関連も少々気になる。

 七ツの天幕を張ったということから「七ツ小屋山」になってしまうくらいだから、この山は「猫池山」と命名されてもおかしくはなかった。惜しい!
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VOL.32 上越の白ネコがよく見えた(2003.3.12記)
 2月中旬、谷川山麓での雪崩レスキュー講習会に参加した。高崎駅で水上行き電車に乗り換えるコンコースから、はるか谷川連峰とおぼしき白嶺が望まれた。にわかに、きょうはくっきりと見えるだろうか、とワクワクドキドキ。本来なら「耳二つ」と呼ばれるべき谷川岳の猫姿が、である。

 「耳二つ」の由来は、「上越線の上牧あたりから望むと、遠くに猫の耳を立てたようにキチンと二つの耳が並んでいる」からだと、深田久弥の『日本百名山』(新潮社)には説明されている。かつて月夜野や沼田方面の土地の人々が通称していたという「耳二つ」だが、現在でも二つの耳にあたるピークは、谷川岳北峰がオキノ耳(1970m)=谷川富士、南峰はトマノ耳(1963m)=薬師岳と呼ばれている。

 しかし、谷川岳の名が、いつのころから、どうして起こったのかは難しい問題で、また「耳二つ」という名称も古文献では登場していないのだという(『谷川岳の岩場』山学同志会編、三笠書房)。本来の谷川岳は南面の俎ぐらを指すとか、五万分の一の地形図に誤記があったとか、あまりにも有名な谷川岳の山名考察をするには複雑な背景があるので、ここはとりあえず、山の形状としての立派な猫姿を称えておくだけにしておこう。

 電車が上牧駅に着くと、ホームがカーブしているおかげで、車窓からでも前方左手に谷川岳がよく見えた。なるほど水上付近から見るよりも、両耳がそろっている。西に傾きかけた陽が、ちょうど雪の陰影を浮き彫りにして、ピンと立った耳と、猫の頬にあたる西黒沢源頭のまろやかなさまは、まるで上越の白ネコが寝そべっているかのように猫派としては見てとれた。

 『山の憶ひ出』の著者で群馬県出身の木暮理太郎(1873〜1944)は、「谷川岳」よりも、古来からの名称「耳二つ」に強くこだわったという。その思いが伝わってくる一首がある。

 
吹雪雲 横なびく上に尖り峰の なみ立ちしるき耳二つかも
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31 「宝川で猫の話をすると雨が降る」らしい!?(2003.2.11記)
 久しぶりに国会図書館に行って資料漁りをしたところ、『日本昔話通観第8巻 栃木・群馬編』で面白いことわざを見つけた。「婆は猫」という昔話の教訓として群馬県内に伝わっていたもので、「宝川の山で猫の話をしてはならない」「宝川で水浴びして猫の話をすると雨が降る」というのだ。

 ある家で婆になりすましていた化け猫は、正体がばれて宝川の山奥に去った。葬式があると宝川の奥から黒雲がわいて、死体を奪うなど悪さをした。山で婆が生きた鹿をしゃぶっているところを男に見られ、「決して村人に話すな」と口止めした。つい村人に話してしまった男は化け猫に殺されてしまう。宝川の山奥で、その男の着物だけが木にひっかかっていた。ざっとこんなあらすじで、最後に前記の教訓で締めくくられている。藤原の名家に伝わる話であるとか、宝川など具体的な地名が出てくるあたり、昔話というよりは伝説・伝承に近い。元文は『群馬県史資料編』や『群馬県民俗調査報告』とあるので確認しなければなるまい。

 上越国境を水源とする利根川支流の宝川は、本流のナルミズ沢をはじめ沢登り愛好者にとってなじみのある流域だ。興味深いのは、入渓の起点となる宝川温泉から直線距離で約2キロ上流に、左岸から「猫沢」が流入していることである。「猫沢」という沢名から猫との因縁を感じていたのだが、にらんだとおり宝川と猫を結びつける話があったわけだ。この昔話と猫沢に関連があるのかどうかは、今のところ分からない。うがった見方をすれば、話に出てくる化け猫の棲みかが猫沢のあたりだったとすると、「化け猫の棲む沢」から「猫沢」と名付けられたと解することもできる。今後の調査が必要だろう。やはり猫を忌避することが多かった猟師や山仕事の人々の発想だったのだろうか。

 宝川流域には3回入渓したことがあるが、雨に降られたのは1回だけ。「宝川に猫好きが入ると雨が降る」ということわざでなくてよかった。
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