山小屋建設日誌  1984.12〜1989.7

 
完成した山小屋
                   
【完成した山小屋に感慨深げな私】

         
●山小屋造ってネコになる

 1984年夏、新宿歌舞伎町の居酒屋に学生時代の山仲間らが集まった。「みんなでログハウスをつくらないか?」という呼びかけに、ぼくも冷やかし半分でノコノコと出かけていったわけだ。

 当時のぼくは、30歳を過ぎたばかり。一番油ののった山登りができる年代だというのに、気持ちが山から遠ざかり、所属する山の会にも顔を出せないでいた。仕事の忙しさを登らない理由にする自分にムシャクシャするため、何かに熱中する必要があったのだろう。ログハウス造りは舞台が山ふところだけに、再び山登りのきっかけを作ってくれそうに思ったのか、酔いも手伝って二つ返事で誘いにのった。

 10人のメンバーが集まれば、1人50万円の負担で何とかなるという。最初は北八ケ岳周辺の予定だったが、結局、秩父に決まった。スキー場の近くという第一条件を犠牲にし、交通の便を優先した(それでも現地まで片道3時間もかかる)。素人だから途中で挫折するかもしれないだろう、でも、それはそれで山の空気を吸えればいいじゃないか、と気にしなかった。

 しかし実際に作業が始まったら、小屋を造っていく過程がこんなに楽しいものだということを感じていく。最初はなかなか億劫な秩父通いが、最盛期には毎週顔を出すほど夢中になっていた。数えれば足掛け5年で60回も通ったことになる(このエネルギーを山に注ぎ込んでいたら……ククッ)。不慣れなチェーンソーや電動工具の扱いは一つ間違えば大ケガするし、1本300キロある丸太を人力だけで19段もよくも積み上げられたものだと、いまさらながら感心する。

 素人集団とはいえ、土木の専門家がひとり参加したのが大きい。設計図から、監理監督を全部こなしてくれ、ぼくらは彼の指図に従えばよかったのだから気楽だった。電気の配線も本職の友人がボランティアでやってくれた。また、Hは「やまごや通信」を随時発行して情報の共有化を図り、みんなのヤル気をしっかりつなぎとめた。こういう共同作業では、何人かのプロモーターが絶対必要だろう。

 今回を練習台にして、次は誰か知人の要請があったら、ちゃんとしたのを請け負おうなんて、ログビルダー気取りになることもあったっけ。もちろん焚火を囲んでの酒のみ話なのだが、夜の宴会が至福のひとときだったのは確かだ。焚火をみていると妙に沢が恋しくなり、後半の夏には我慢の臨界点を越え、単独で東北の和賀山塊の沢に入った。山登り復活のカギは、やはり焚火にあったのだ。




 
◆山小屋づくりのメンバー
 
HAGIWARA 大学同期。「やまごや通信」発行。公務員。
 
NAGASAKI 大学同期。マネジャー役。商社勤務。現在は台湾駐在。
 
MURAKAMI NAGASAKIの会社の同僚。会計を務める。
 
ABE Mの高校時代の友人。土木会社勤務で今回の現場監督
 
OONO Mの高校時代の友人。Aといいコンビの公務員。
 
TAKAYANAGI 大学の2年先輩。我々から御大と呼ばれる編集者。
 
YAGIHASHI 大学の2年先輩。紳士服メーカー勤務。
 
YAMADA 大学の1年先輩。OA商社勤務。
 
NOGUCHI 大学同期。公務員。独身ゆえ地鎮祭では神主役。



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