NPO法人みらい広場 こぐま保育園

こぐま保育園ものがたり

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こぐま保育園ものがたり

こぐま保育園の歴史を紹介します。 2004年 園長 中村淳子

1.開園

1973年、12月。宇部市岬町の民家で、こぐま保育園がスタートしました。小さな無認可の保育園。でもそれは、宇部市で初めての産休明け保育の始まりでした。 園長の木村照子は、東京生まれの東京育ち。結婚して共働きしながら、出産、子育てをしましたが、当時、産休明けから預かってくれる保育園がなく、今のこぐま保育園のような、父母が共同でつくった保育園に預け、働き続けることができたのです。忙しいけれども充実した毎日でした。
しかし、夫の出身地の宇部へ、家族で帰ることになったのです。
このとき、何か意義のある仕事に取り組みたいと考えた木村は、宇部の知り合いであり、南風荘授産所設立でがんばっていた佐藤さんに、当時の宇部の人々の様子を聞いてみました。そして産休明け保育がないため、働き続けられない人の多いことを知り、今度は、自分がお返しをしようと決心しました。
「こぐま保育園」は木村、保育者の藤田さん、佐藤さんの三者が発起人となり、共同保育所として、そのスタートを切りました。 

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2.開園の頃の様子

こぐまっ子第一号は、藤田悠子ちゃん0才。当時の様子をお母さんの真澄さんは、文集「こぐまっ子」の1993年度版に、(バザーや街頭カンパ、もらえるものは何でももらい・・・)と書き、職員と父母と支援者が、無我夢中で運営していた様子が伺えます。
園舎に使っていた民家は古く、保母がダンスを踊ったら床が抜けた話も伝えられるほどでした。でも、子ども達により良い保育を!と毎日散歩に出かけ、0才からの体づくりを大切にしました。
赤ちゃんを背負い、乳母車に何人か乗せ、歩ける子は乳母車の枠を持っての散歩をしていると、ダンプの運転手さんが身を乗り出して、「よーけ、こさえたなぁ」と励まして(?)くれたりしました。

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3.認可にむけて

スタートした次の年の3月。宇部市議会に2400名の請願書を提出。請願の内容は、公設公営の産休明けからの保育所の設置。無認可保育所への助成金の交付。
二つ目の請願は採択され、こぐま保育園への年間5万円の補助金交付が始まりました。
翌年には、対市交渉で12万円に増額。(以後対市交渉を重ね、年間33万円の現在の額に至っています。)

 1976年4月、こぐま認可保育園の建設用地確保の為の市有地提供の陳情書提出。
      5月、市は、市有地買取を条件に検討を約束。
      7月、こぐま保育園を建設する会を発足。
 1977年。岬・恩田校区で、「地域に保育所を」の賛同署名活動開始。

そして、とうとう市の保育所整備計画のプログラムに、こぐま保育園ものりました。
「こぐま保育園」を建設する会は、宇部空港近くの市の土地に、園舎を移転するために、カンパ活動を広げていきました。
ところがちょうどそのころ、全国的に保育所の定員割れの現象が起き、宇部市でも同じく、既存の保育所で定員割れが起きました。そしてそれを理由に、こぐま保育園の認可は白紙となってしまったのです。
「建設する会」では、集まっていたカンパで、園舎を新築することにしました。
三つの保育室と台所のある小さな、しかしみんなの大きな期待のこもった園舎が、岬町の道路沿いに建ちました。

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4.こぐま保育園の障害児保育と、上野サキ代さんの思い出

こぐま保育園は開園時から、障害のある子ども達の保育にも積極的に取組んできました。 ダウン症のKくん。二分脊椎症のEちゃん。
私(中村)も、長男の脳症の後遺症をかかえての保育園選びで、こぐま保育園に出会いました。
1981年に、大きな脳内出血を持って生まれたHくん。
お母さんの上野サキ代さんは、必死でした。
木村園長と二人三脚で、皮膚に刺激をとマッサージや沐浴等、できる努力を重ね、散歩や戸外にこだわる毎日でした。うれしい事に、医大の担当の先生も驚くほど、出血部位はどんどん小さくなっていったそうです。
上野さんは山の保育園開設時の、後援会組織である「こぐまこども村」の村長として、また理事会が発足してからは、理事として、こぐま保育園を支え続けました。
上野さんは1997年に病気で亡くなられましたが、そのこぐま保育園への思いは、後々の人々に語り伝えていきたいです。

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5.山の保育園開設

岬町の園舎は狭いので、0・1・2・才の3才未満児迄の保育でした。せっかく大切に育てた子ども達は、年中からは、あちこちの園に別れていきました。
1985年ごろ、三藤夏希ちゃんのおかあさん(現在、理事長)から、年少保育の希望が出されました。たった一人の年少の保育の開始、お母さんも木村園長も、冒険者の心境でした。そしてその年度の末、三藤さんからさらにもう一年、年中組の保育希望が出されました。
ちょうど同じ頃、山陽小野田市有帆の山が売られることになっていました。戦後、ご両親が入植して開墾してきた思い入れのある土地なので、そのまま大事に使ってくれる人をさがしていたそうです。
その話を聞いて見にいってみた園関係者達は、あの山で年長までの保育をしたいとの夢がふくらみました。しかしお金がない!
そこで、びっくりすることが起きました。その話を上野サキ代さんから聞いた劇団「若者座」のメンバーが、自分が買い取ってあげようかと、申し出てくれたのです。まだ当時独身だった尼崎安秀さん(現在、理事)が、その人です。
「自分にも、子どもは自然の中で育ってほしいという夢があったから。」と控えめに語られますが、おかげでとうとうみんなの夢が実現しました。
小野田園舎は「山の保育園」と呼ぶことになり、開園は1986年8月。
育児休業明けの1才の安吉裕治くんと保育者1人の体制でスタート。まだ草ぼうぼうの山の保育園でした。裕治くんの園生活は、まさに開拓と共でした。現在、裕治くんは、高校3年生。大学の農学部をめざしているそうです。

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6.宇部園舎からの移動開始

裕治くん1人から始まった山の保育園には、まもなく宇部園舎から3・4才児が、ライトバンで移動してきて、日中を過ごすようになりました。朝、宇部園舎から移動して、午前中の活動、お昼ご飯、お昼ね、おやつ、そして宇部にかえってお迎えを待ちました。

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7.クラスの名前

こぐま保育園のクラスの名前はとても素敵なんですが、この開拓の時期に、木村先生と夏希ちゃんが相談して決めました。

  夏希ちゃんが年中に進級するとき、
  木村「ねぇ。山(年少)より大きいクラスの名前って、どういうのがあるかねぇ。」
  夏希「太陽だ。」
さらに1年後、年長組の名を決めるときも、
  木村「太陽より大きいクラスの名って、あるかねぇ。」
  夏希「宇宙組。」

三藤さんからはその後、小学生になった夏希ちゃんの夏休みの学童保育の希望も出されました。
三度目の命名。宇宙の上は無かろうと、難問をつきつけたつもりで
  木村「学童は何組かねぇ。」
  夏希「未来組!」
と即答。もう参りました。

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8.山の保育園の開設当時

私(中村)は1987年の5月に、長男を入園させました。
当時の山の保育園は、園舎は古い民家。少し庭があるだけで、山は草ぼうぼうではいれません。低いところは、沼が広がりべちゃべちゃです。マムシ谷と呼ばれていました。
上野サキ代さんがときどきやってきては、草刈り機を使っていました。私も、長女の育児休業中だったので、何回か草刈りに行きましたが、まるで歯がたたないという感じでした。
その年の11月、私はこぐま保育園に就職しました。当時の給料は8万円。二人の子どもの保育料を差し引くと、残りは一万円もありませんでした。よくそれで働いたものだと思いますが、子ども達をこぐま保育園で育てられる、とうれしい思いでした。
山の初めのころの生活は「今日はここに道を作ろう。」と、先頭の保母が木や草を刈り払いながら進み、その後ろに子ども達がつながり、一番後ろの保母も刈り払っている、そんなことがよくありました。
子ども達が昼寝を始めると、保母は山に入ります。雑木がしげり、鎌では手に負えないので、ノコギリとなたを使いました。なた鎌というのを知り、重宝したものです。きったり刈ったりするよりも、草木をおろして処理する方が、随分大変な作業でした。毎日体はくたくたに疲れましたが、開拓していくというのは、楽しいことでした。
運動場も、その頃(1988年)できました。夏希ちゃんのお父さんが土建業なので、仕事の合間に工事をしてくれました。大きなショベルカーが山を削り、整地が進むのを、みんなでわくわくしながら見入ったものです。
工事が終わり運動場ができて、いそいで真砂土を入れて整地し、翌日は祝日でお休み。その次の日、初めての山の運動会が開かれました。

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9.マイクロバス

1888年秋、2名の入園依頼がありましたが、移動のライトバンは満員でした。しかし園財政改善のためには、園児を増やすことは絶対必要なことでした。職員の車も利用しての移動でその時は乗り切りましたが、マイクロバスの導入の検討が始まりました。
第一号バスを買ったのが、1989年。
みんなで大喜びで迎えましたが、今思うと、すごい車でした。もう廃車にしてあったのを整備したそうですが、燃料メーターは動かないし、床は継ぎ目がすりへり、隙間から道路が見えました。たしか40万円代でした。2号バスが50万円代。3号バスが100万円ちょっと。そして1995年、父母会が大カンパ活動に取り組み、400万円の新車を購入(300万円はローンで)しました。
運転は大型免許を持っている方にたのんでいましたが、園の財政を見かねて「免許をとりましょうか。」と、中村が第一号。1人運転手は休めないので、発熱のわが子をシート に寝かせて運転したものでした。以後、進藤、井上、中島と運転手が増えました。

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10.山園舎の改築

山の保育園は、戦後入植した一家が、主にぶどうを栽培していた土地です。
園の支援者から工事費を借りて、床や壁を張り替えたりトイレを水洗にしたりして、開園しました。台所は古くて狭くて、限界状態でした。
1990年、山の園舎を増改築して、中村一家が管理人として、住むことになりました。台所、風呂、トイレ、保育室を建て増しし、2階は中村の家族。工事費用は750万円。カンパと債権の発行で250万円。残りは借り入れで500万円。その返済には、中村の月々の家賃を当てました。3月に、山の園舎が完成しました。私の息子たちの、こぐま保育園第二回卒園式は、できたての新しい部屋で、増改築祝いも兼ね、皆で祝いました。その時は、第三回卒園式も同じ場所で、と誰もが思っていました。

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11.宇部園舎建て替え

山の開園により、就学前までの保育が可能になり、園児数は少しづつ増えていました。マイクロバスの導入と山園舎の増改築は、必要にせまられ、自然の流れでした。
そうなると、次に目にあまるようになるのが、こぐま園舎の狭さです。
朝と夕方、園舎内は小さい子でいっぱいですから、大きい子はずっと外で遊んでいました。が、雨の日はそうもいきません。身動きできない状態で、過ごしていました。
ところが思いもかけず、山の増改築の翌年、こぐま園舎が新築されることになりました。当時の在園児の上野知尭くんとさくらちゃんのご両親(お母さんの八重子さんは現在、理事)が、建ててくださることになったのです。半ば夢の中のような心地で、間取りや設備について話し合い、またまたカンパ活動にいそしみ、そして園舎が完成しました。

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12.こぐまの思い出・・・園舎移転のころのこと 上野八重子(こぐまっ子10号より)

(略)前の園長の木村照子先生から「園舎を移転したいから、お宅が新築するならその敷地に一緒に建ててほしい、そうしたら学童もみてあげる」と頼まれたときにはどんなに驚いたことか。 事情を聞いて、「ああ、そうですか、それならやって見ましょう」とまずは土地さがしから始まりました。
当時岬町にあったこぐまの園舎は、すでに高齢だった木村先生の義父さんの土地に建っていて、将来安定的に維持していけるかどうか心配だとのことでした。岬町の園舎がすでに手狭になっていたことや、認可の条件のことも視野に入れての移転案でした。しかし、ただの父母にすぎなかった私に、そこまでたのむというのは、頼んだほうも頼まれたほうも相当?非常識〟だとは当時みんなに言われました。
それでも、子ども達が走り回れる広いホールのある保育園を、そして認可基準にあった園舎をという願いが段々膨らんで、私自身も新園舎建設計画に夢中になってしまいました。
結局、木村先生の提案のように私の家と園舎を併設できる条件の土地は見つからず、園舎と自分の家は切り離すことにしました。最初は数百万から始まった計画も、認可の可能な広さの園舎を造るために費用が数千万にも膨れ上がっており、金銭面でのストレスも相当でしたので、自分の家はいったんあきらめて先に園舎だけ造ることにしました。募金活動も行いました。園舎ホールの?総ひのきの床〟や、立派なパーテイションなどはこの時の募金活動からできたもので、先生達のこだわりの結晶だったと思います。(以下略)

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13.最後に

こぐま保育園は、不思議なところです。職員の給与は、毎月の保育料が集まって、やっと支払われます。保育料収入だけで運営しているから、園児がいなくなったら、すぐに消えてしまう保育園です。
それなのに4800坪の山で過ごし、園舎が建て変わったり、バスを買ったり、給食には陶器の器や木製のお椀を使ったり。一クラスの子どもの人数も少ないので、保育者との関係も密です。幼児期に、こんなに贅沢な生活をしている子ども達って、あんまりいないのではないでしょうか。
こぐま保育園の歴史をたどると、沢山の人々の夢や願いがいっぱいです。小さな貧しい保育園だけど、そこに集まってきた人たちは、ここでこそ子育てをしたい人たち。子育てに大きな夢、あるいは悩みを持ってこぐま保育園に集う人々の思いは、どんなに深いものか。信じられないようなこぐま保育園の歴史も、その思いの深さを考えると、理解できるのです。

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