「泉」と「自転車の車輪」の決定的な違いは明らかである。「自転車の車輪」では少なくともデュシャンによる加工、手が加えられてあるが「泉」は一般的な男性用小便器にサインがされているだけである。つまり、この便器をデュシャンが作ったわけでもなく、ただサインしただけなのである。この作品が出品拒否された理由は「不道徳である」「芸術の冒涜である」「便器が芸術となりえるか」等と論議されたらしいが私が思うに「ただの便器」であったということにあるのではないかと思う。これがもし例えばデュシャンが石膏で作った便器だとか便器の精密な描写であったならもっと別の論議を呼んだのではないだろうか。いうなればここでは「便器が芸術になりえるか」という問題はなく、個別化された作品である筈の便器が「ただの便器」であったことに問題があったのではなかろうか。
ヨーロッパにおいて作品は特別な空間、時間においてのみその芸術性を認められてきた。その思考の土台は本質存在と事実存在に始まるヨーロッパの思想的土台に由来するのだろうがそんなことを考えなくても絵画には「額」があり、演劇、音楽には「舞台」がありと、「切り取られた」空間、時間内において「作品」を見るという姿勢は当然のことのように思われる。デュシャンの目論見は明らかにその「切り取られた」空間、時間の箍をはずすことであった。少なくとも1917年の「泉」はその実験であり、そこに至る思索が「自転車の車輪」以降4年間の模索に見られる。勿論、身の回りにあるものから他ならぬ「便器」を選ぶそのセンス、そのフォルムの美しさなどデュシャンの審美眼が作用しているのであるが、その選ばれたものは特別な存在では決してない。その「ただのもの」を作品として「切り取られた」空間、時間へはめ込むことによって生まれるパラドックス、それは同一性の否定、ある芸術作品がそれがそれであるという自己同一性の否定に他ならない(「モナリザ」はダ・ヴィンチが書いた「モナリザ」しかない)。そこではオリジナルはなく、すべての同種の便器は同じ価値を持たざるを得ないのである。デュシャンは「レプリカにもオリジナルと同じ価値がある」と言ったがそれは以上の意味からであろう。もし我々がデュシャンの「泉」の失われたオリジナルを見たいと思うのであればデュシャンの思惑ははずれている。いや、デュシャンは大笑いしているかもしれない。
このデュシャンの実験を継承したのはアメリカの作曲家ジョン・ケージである。ケージは1942年にマックス・エルンストを介してデュシャンに会っている。以後ケージはデュシャンにチェスを習うこととなる。デュシャンとの出会いはケージの作曲家としての思想に絶大なる影響を与えたことは想像に難くない。1950年にデヴィット・チュードアによって初演された「4分33秒」は言及こそされてないもののデュシャンの「泉」の音楽的焼き直しであろう。3つの部分の「休止」からなるこの作品は「切り取られた」時間内に沈黙を提示することではなかったか?「沈黙が音楽になりえるか」ではなく「切り取られた」音楽的時間が沈黙であるということ、そこには「泉」と同じく作品の同一性の否定しかない。作曲家も演奏かも介在しない「切り取られた」時間、それが「4分33秒」だったのである(もっとも1920年当時に「家具の音楽」を提唱したエリック・サティの方がはるかに前衛的であったと言えるが)。ちなみにケージは1969年「マルセルについては何もいうまい」という8枚のアクリル板による作品を作成している。これはケージの楽譜に親しんだ人ならピンと来るもので同年ケージは同名の音楽作品を発表している。
以上のように考えるとデュシャンの「泉」は作品というよりも「装置」に近い。無論ケージの「4分33秒」も「装置」である。偶然かデュシャンは「大ガラス」において奇妙な「装置」を念頭においていたようである。
以下次回
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