非音楽的教材考
 

はじめに

1ハノン
2 ツェルニー「60番練習曲集」

3 ピシュナ「」60の練習曲」
4 コルトー「ピアノ技巧の合理的原理」

 

はじめに

 「非音楽的教材考」とはなんとなく物騒な話題のように思われるかもしれませんが決してある教材の事を音楽的でないとかと云う批判を行うものではありません。ここで私の云う「非音楽的教材」とは「ハノン」に代表されるような所謂音楽の形をしていない指のエクスサイズとしての教材のことで、これらの教材について考察してみようというのが本稿です。
 さて、「ハノン」に代表されるこの「非音楽的教材」の目的はまず指の鍛錬であり、指を「鍛える」ことに第一の目的があります。この点について私はもしその出発点に於いてある種の思いこみ、勘違いを持ってこれらの教材を使用したならば効果が無いどころか「危険」ですらあると考えています。
 そもそも「鍛える」という言葉のニュアンスはいかにも指への負荷をかけて筋肉を鍛えるという感じがします。伝え聞くところによると「指立て伏せ」で指を「鍛える」人もいるそうです。しかし指の筋肉は腕や胸、腹筋に比べはるかに小さく弱いものです。それを腕や胸を鍛えるのと同じように強力な負荷をかける事は大変な負担ですしひょっとすると指を故障してしまう人もいるかもしれません。
 私はこの「非音楽的教材」はまず第一に「脱力」のためのものであると考えています。

 「脱力」という言葉ほどピアノ演奏に於いてよく聴く言葉はないと思います。しかし実際に「脱力」即ち力を抜くというのはどういうことなのでしょうか。小さな音を弾く時に「脱力」するのはなんとなく理解出来ますが、大きな音を弾く時に「脱力」しないと硬い音になるとかなんとか注意される事があります。力を抜いて大きな音を弾くと云うのはどういうことなのか…?と疑問に思った人は多いのではないでしょうか。私は疑問に思いました。ここで極論的に私の考える答えを書くと脱力とは弾いていない指の力を抜く事であるということです。勿論腕も「脱力」する訳ですが。

 この「脱力」を考えずに「非音楽的教材」を使用する事は先にも書いたように大変問題であるのではないかと思います。多くの教材に見られる弱い指に付けられたアクセント、フォルテの強弱記号、速い速度…これらは「脱力」を妨げるものでしかないとはいいすぎでしょうか。
 指を「鍛える」事によってどのようになるのか。指の独立性が養われる、早く弾けるようになる等々あると思いますが私は指は鍛えるものではなくその機能を開発すべきものであると考えています。

 本稿ではこの「脱力」を中心に「非音楽的教材」について考えていきたいと思います。

 注意して頂きたいのは私は本稿で体系的なメソッドを書くつもりもなければ、なるべく具体的な練習法も記さないつもりです。これから紹介する教材について読者の方が「脱力」という点から考えて頂き、その教材を活用して頂きたい云うのが私の大それた考えです。中途半端な練習法を書く事は極力避けていきたいと思います。

 最後に本稿への批判、意見、ご教授はメール、掲示板にご遠慮なく書いて頂いて結構です。私の可能な限りお応えします。

(2008/8/23)


1 ハノン

 「非音楽的教材」の代表格ともいえる「ハノン」です。ハノンは19世紀フランスのシャルル−ルイ・アノン(Charles-Louis Hanon)という人の書いた教材です。日本では「ハノン」と英語かドイツ語か読まれています。正式な書名は「60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト」というなんとも厳めしい題名で広く使われている教材です。以下この本を「ハノン」と表記します。
 「ハノン」の構成を見ると確かによく書かれてあり19世紀までのピアノ曲に使われている技法を網羅してあるといっても過言ではありません。巻頭言にある「この1冊を弾いても1時間云々」と云うのはなかなか驚く発言です。
 「ハノン」を弾く時すべての音をフォルテで弾いたり、4、5指にアクセントを付けたりといった「鍛錬」をされた方は多いのではないでしょうか。私も昔やりました。この時の疲労感は大変なもので私のような根性なしは「ハノン」を弾いて練習終了でした。しかし練習に於ける「根性」は指の疲労を我慢することでしょうか。勿論長時間弾いていれば体が疲れてくるのは当たり前の事ですが、むしろ楽曲のパッセージを何度も繰り返し弾いたり、音楽的表現を高める練習のに「根性」は使われるべきで、「ハノン」を弾くのに「根性」を使うのは疑問に思います。「ハノン」はあくまでピアノを弾く準備運動でありそれが目的ではないのです。
 私はハノンの練習に於いては「力を抜いて、小さくな音で、鍵盤を押し込まず、ゆっくりと」弾くようにしています。この弾き方を「軽く」弾くと言ったりもします。実際には馴れてくると「ゆっくり」はやや速くなりますがそれでも速く弾くことが目的ではありません。裏を返して「力を込めて、大きな音で、鍵盤を押し込んで、速く」弾くと書くとその不自然さが感じられるかもしれません。
 身体を鍛えるにもスロートレーニングとかが流行しているそうですが、指、前腕の筋肉を鍛える(あまり使いたくない表現ですが)にはゆっくり、相応の負荷(力)で行うべきであると思います。

 「ハノン」は日本で出版されているものに限っても数え切れないほどのエディションがあります。楽譜の内容はほとんど一緒ですので編者の「解説」が最も重要なものとなります。杉谷昭子・駒澤純編による「コンパクト・ハノン」は解説でその奏法上の注意が具体的に記されています。「ピアノを一番楽に美しく」弾くということを明言してあります。

 ハノンを元とした教材はまた数え切れないほどありますがエルンスト・ヴァン・デ・ヴェルド「ピアノのテクニック」はレガート−マルカート、スタッカート、レガートと三種類の奏法で弾くようにしてあります。これはショパンのメソッドを踏まえたものだそうですがこれに加え各練習のリズム変奏を加えると相当な数に達します。

 どのエディションを使用するにしても力、負荷をかけて指を「鍛える」ということは避けるべきです。

(2008/8/23)


2 ツェルニー 60番練習曲集

 ピアノを弾く人にとってツェルニー程嫌な思い出のある人物はいないでしょう。その膨大な作品番号の付いたものだけでも800番代まである作品のほとんどは現在では顧みられる事もなくただ「つまらない練習曲」の作曲家として扱われているのは少々気の毒なほどです。ここでツェルニーの作曲家としての才能を云々する事はしませんが自身優れたピアニストであったツェルニーは主に弟子のために多くの練習曲を書き、そしてそれらは古典派のピアノ作品のテクニック全般をカバーしています。
 中でもこの「60番練習曲集」はそれまでの「30番」「40番」「50番」と比べるとかなり異質な曲集です。尤もこれらの練習曲集はツェルニーによって意図的に並べられたものであるのかは判りませんが。
 数小節の短いパッセージの反復、それはツェルニーらしい和声ではあるものの「曲」と呼ぶにはあまりに異様でまさにピアノのテクニック見本帳といった感じがします。この「60番」を練習しているとつまらないと思っていた「30番」「40番」「50番」が懐かしく思われてくるほどです。同趣向のもので「8小節の練習曲集」や「毎日の練習曲」などもありますがその徹底した技巧のバリエーションは偏執的ですらあります。
 譜例の「Jede Repetition 16 mal」は16回繰り返すと云う指定です。

 

 ツェルニーは弟子にその手首の柔軟性の重要さを説いたと云います。古典派から前期ロマン派にかけての奏法はおそらく現在のものとは違ったと思いますがそれでも「柔軟性」即ち無駄な力を入れて弾く事を否定しています。譜例の練習曲も「力を抜いて、小さくな音で、鍵盤を押し込まず、ゆっくりと」弾くなら手の強張りや手首の柔軟性を確認する事が出来ます。しかしながらツェルニーの指定テンポは恐ろしく速いものとなっています。果たしてこのテンポ指定を守るのかどうかと云うのは難しい問題ですが、指の機能開発を考えるのであれば自分の弾ける速さを越えて弾くのはあまり効果がないように思います。弾き終わって指や腕に痛みを感じるのはやはり自然とは云えない弾き方であると言えます。

(2008/8/25)


3 ピシュナ「60の練習曲」

 若き日の横山幸雄氏が練習したと云うピシュナの「60の練習曲」、この人も「非音楽的練習曲」の代表的な作曲者です。作曲者と云ってもピアノ教師としてこの教本を残しただけですが今なおよく弾かれています。この曲集の特徴はまず「Lent」と云うテンポ指定にあると思います。速く弾く事を要求していないのです。速く弾く指示のある曲もありますがそれは主に音階であり、指の独立を養う練習に於いては「Lent」若しくは「Moderato」の速度指定が付いてあります。また対位法的な指の動きも特徴的です。
 私見では音量の「フォルテ」はやはり「ピアノ」かせいぜい「メゾピアノ」ぐらいで練習するのが良いと思います。

 
 

「60の練習曲」への導入のための「リトル・ピシュナ」もよく使われています。
 ピシュナでは弾いているとある重要な事を感じる事が出来ます。即ち私が冒頭で記した「弾いていない指の力を抜く事」です。譜例の3小節目の右手は実に難しいパッセージです。ここでの困難さの原因は3,4,5指にもありますが何も弾いていない1指に大きな原因があります。何も弾いていない1指の力を抜くことの重要さをこの練習曲は教えてくれます。
 何れにせよ無理は禁物「力を抜いて、小さくな音で、鍵盤を押し込まず、ゆっくりと」弾くべきです。

(2008/8/25)

 イシドール・フィリップの「練習曲」、ブラームス「51の練習曲」やりストの「68の技巧的練習曲」など重要なものもありますがここまで紹介して来たものはすべて「鍵盤で音符を弾く」という次元では同じものでした。20世紀に入りピアノの演奏技巧を更に細胞単位に分析、整理しもはやパッセージですらない純粋な「非音楽的教材」が登場します。コルトーの「ピアノ技巧の合理的原理」です。

4 コルトー「ピアノ技巧の合理的原理」

 1928年に出版されたフランスの名ピアニス、アルフレド・トコルトーによるピアノメソッド「ピアノ技巧の合理的原理(邦訳「コルトーのピアノメトード」)」です。長らく翻訳されず、わずかにジャンヌ・ブランカールによる「アルフレッド・コルトーの学習方法への手引き」が紹介されたのみで、私も英訳本を使っていましたが1994年に全訳本が刊行されました。
 コルトーと云う人は一般に19世紀的なロマンティックな詩情溢れる演奏スタイルであると思われています。しかしコルトーはまさに録音時代の第1世代とも云える演奏家で19世紀の演奏家とは少し区別が必要です。録音に於ける良くも悪くも「繰り返し聴かれる」事を前提とした演奏を行った最初の演奏家であると言ってもいいかもしれません。その面ではコルトーは徹底的な合理主義に立っています。本書「ピアノ技巧の合理的原理」(以後「合理的原理」と略)ではその合理主義によりピアノ技法を徹底的に分析し、パッセージの形にさえなっていない「肉体の動き」を考察しています。この点ではコルトーは極めて20世紀的な人間であると思います。
 本書はピアノ教則本の分岐点とも云える著作でコルトー以後に書かれた著述は大なり小なり影響を与えているといっても過言ではありません。

 まったくの余談ですがコルトーは「知覚」に優位性を置いたフランスの思想家メルロ=ポンティと繋がる部分があると思います。

 本書でも脱力に関してはうるさいほど書かれています。冒頭に登場する有名な「鍵盤に指を置いた状態で特定の指だけ動かす」練習は脱力の感覚を簡潔に示してくれます。この「鍵盤に指を置いた状態で」という方法はなかなか画期的な方法であったと思います。今まで見てきた「非音楽的教材」は弱い指を動かし、トレーニングする事によって「鍛える」と云う、感覚的にわかり易いものだったのですがコルトーは「弾いていない指」を意識して力を抜き「鍛える」という逆転を行っています。
 動かす指に関しても例えば2本の指を動かすのであればその組み合わせ「12,13,14、15,23,24,25,34,35,45」のパターンに別け、以降3本、4本、5本とあらゆる組み合わせを網羅しています。スケールやアルペジオを弾く際もまず親指の機能開発行います。親指が他の指くぐる、親指を他の指を越えるといった細胞にまで立ち返った練習法を提案しています。

  コルトーはおそらくこれまでの「基礎訓練」即ち「非音楽的教材」の体系化を行ったのしょう。脱力の方法、そしてハノンに足りないもの、ピシュナに足りないものを考察して行くうちにあるパッセージや曲を弾くのではなくそのテクニックを細胞にまで分割しそこだけを取り出してみせると云う方法に至ったと思われます。私はフランス人にしては珍しく「過剰な」人物であると思っています。
 これらの練習によって「安定した確実な技法」を習得し、それはすべて音楽に捧げられなくてはならない、と云うのがコルトーの「合理的原理」の基本的な考えです。批判的に見るのであればこれは「音楽」と「技法」の分離である言えます。しかし「音楽」と「技法」は丁度紙の裏と表、ドーナツの本体(?)と穴のようにどちらかだけで存在はしないものです。これをコルトーは「合理的原理」と自身の演奏によって提示してくれています。

(2008/8/30)

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