日夏耿之介

荘重幽玄の文体

 

 さしも凄凄(せいせい)たる折柄 この剴切の答へありしうちにうち愕き、儂白ひけらく

 「實(げ)に實(げ)に かかる一語こそ、正しく唯ある薄倖の人より耳にして

 いまだに得忘れぬ言葉なれ。

 その人 惨たる災殃うち重なり やがては、希望(のぞみ)を悼む誄詞ぞ

 己(わ)が歌ごゑに かの鬱悒の疊句(くりうた)をこそ添へたりしか、夫れ、

 「またと またとなけめ」 てふ疊句(くりうた)をば。

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 これは黄眠道人こと日夏耿之介の訳によるポォの「大鴉」の一部である。錚々たる字面と文体、荘重幽玄な作風、「ゴスィック ローマン体」というに相応しい訳詩である。

 私が狷介孤高を持って聞こえる日夏耿之介の名前を知ったのは澁澤龍彦の本であったかも知れない。中井英夫の「虚無への供物」の中にこの「大鴉」がでてくる。実際に日夏耿之介を初めて読んだはこれだろう。
 近所の本屋では当然日夏耿之介の本は並んでおらず、図書館でさえ見つからなかったのだが、調べてみると既に全集が編まれ一部の熱狂的ファンがいる事がわかった。全集は高価なため買えず、入手できたの当時出たばかりの「サバト恠異帖」だった。文字通りはじめてみる日夏耿之介の「ゴスィック ローマン体」は私を惹きつけ、聞いたこともない伝説や人物は私を熱狂させた。例えば「焚書史話」などを読むと亞府(アレクサンドリア)圖書館の炎上に始まりジョン・フス、ペエテル・ドズマ「痛悔論」、、ポムポナチウス「霊魂不滅論」、シモン・モランなどの名前が挙がり、ヴォルテエルはともかく、ド・ラ・メットリなどは未だに誰なのか私は知らない、といったものである。終始この夥しいペダントリーに加え、旧字旧かなの文章はノスタルジーどころではなく日本語の贅を尽くしたものであろう。氏の知識は本分である英文学はもとより、神秘哲学、悪魔学、日本の古典、漢籍にまで及ぶ。澁澤龍彦氏もってして「私はいまだに、耿之介の切り開いた魔道の世界の入り口あたりで、うろうろしている」と言わしめた人物である。

 また日夏氏はウイリアム・モリス等の高価な古書のクレクションもあり、そのことは「美しき書籍の話」に書かれている。後年平凡社の「太陽」誌でモリスのチョーサーの詩集を見たが実に凝った造本で感心したが、これらの書物は日夏氏の彫心鏤骨というべき文体にぴったりであると納得したものであった。日夏氏の愛書家ぶりは次の文章に言い尽くされている。

 「予には悪癖があって咽から手が出る程欲しい読みたいも本でも、装丁が非道いとどうしても買う気持ちにならず、友人に借りてすますのを常とするのである」

 これほど贅沢な読書もあるまい。文庫本最盛の現代では日夏氏は文庫本などは「書籍」というものではないだろう。しかし、かつて新潮文庫から「日夏耿之介詩集」が出ていた。その序文に「わたくしは大文字の奢侈な印本を必要とする」としながらもそういった書物を手にする事の出来ない読者に「この如き簡素な文庫本によって、いとせめてその想像力的操作により、大文字豪奢本の密室的幻想」を読んで欲しいと書いている。

 東京神保町の古書店の中には数十万する「大文字の奢侈な印本」を手にとって見ることのできる書店がある。数年前そこで日夏訳によるワイルドの「院曲撒羅米」を手にとって見る機会を得たのだが、その20数万もする書籍よりも文庫本の「密室的幻想」の方が気楽でいいと思ったものである。人が本を選ぶように、書物も人を選ぶのだろう。

 文学界に限らず音楽界でも「怪物」というにふさわしい人物がいなくなって久しい。かつて19世紀、リスト、アルカンといった怪物が存在したように、日本にも日夏耿之介、南方熊楠のようなスケールの大きな人物がいたのである。

 日夏耿之介の著書は以前は国書刊行会といったやや特殊な出版社(つまり値段が高い)から出ていたが現在ではちくま学芸文庫から「サバト恠異帖」「吸血妖魅考」などが出版されている。

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