詭弁論理学

野崎昭弘著

 

 詭弁である。トリック、レトリック、強弁を駆使して相手を納得、否言い負かす術である。
 本書はその詭弁を自在に操る事が出来るようになる本では残念ながらない。結論から言うと論理学の言葉のトリックを紹介した本である。出版は1976年なのでその紹介されている「問題(クイズ)」は現在ではよく知られたものが多い。確かに後半の論理的に問題(クイズ)を解きほぐすのは知的興奮を奮わされるが、本書の魅力は論理学がむしろ排斥するであろう人間の感情的な部分に触れられているところであろう。この点こそ「常識」でありコミュニケーションの最も大切な部分である。その点で本書はインターネット全盛の現在改めて読まれるべき本であるのではないかと思われる。

 本書の著者野崎氏は「議論下手」であると云う。無論それは論理的に考える力ではなく会話などで交わされる「議論」である。本書の前半部はこの「無学者、論に負けず」に関する分析と負け惜しみ(?)が考察される。
 そもそも議論とはなんであろうか。手持ちの辞書では「互いに自分の説を述べあい、論じ合うこと。意見を戦わせること」とある。しかしこの「議論を戦わせること」と云うのは曲者である。戦いには必ず勝者がいるものである。
 本書でも「議論に強い」ことの極地を「黒を白といいくるめる」としている。要は相手の言い分など関係なく我が考えに無理やり従わせるのである。その方法は勿論(本人にとって)「論理的」であるのだがそこに詭弁が入り込むならば強弁に他ならない(「独断と偏見」による人それぞれの好き嫌いはあるしそれが時として痛快、面白いこともある。問題は後述のように本人がそれを意識しているかいないかが問題である)。

 著者はこれを「小児病」と呼ぶ

 小児病の厄介な点は「『本人がそのつもりでない』というまさにその点」であり「そもそも『妥協を知らない』」ところである。その原因として
・自分の意見がまちがっているかもしれないなどと。考えた事がない。
 ・他人の気持ちがわからない
 ・他人への迷惑を考えない
 ・世間の常識など眼中にない
 ・自分が前にいったことさえ忘れてしまう
 としている。更にその原因を

 ・自信が強すぎる
 ・好き嫌いの感情が強すぎる
 ・他人に対して、極めて無神経である

 としている。これらに心当たりのある方は「小児病」の可能性があるので要注意である(かく云う私が幾つか心当たりがあるのが極めて遺憾であるが)。

 議論とは先に「自分の説を述べあう」と引用したがこれは「真実」への道ではないことに注意すべきであると思う。「真実」「正しさ」はある集団の中で通用するものであり決してプラトンが考えたような「イデア」としての真実ではないからである。もし共通項としての理があるのであればそれは「常識」であろう。我々なかではこうである、そうでしょう、というのが常識であって、普遍の真理だとか真実とは全く違うものである。野崎氏曰く「真実」と云う言葉は「現在では革命家か宗教家」しか言わないのではないかと云う。

 さて上記を裏返せば「最強の議論術(?)」を導き出せるのではなかろうか。本書のノウハウでは
・相手のいうことを聞くな
 ・自分の主張に確信を持て
 ・逆らうものは悪魔である(レッテルを利用せよ)
 ・自分の言いたいこと繰り返せ
 ・おどし、泣き、またはしゃべりまくること

 となっている。「このようなワザの達人をはこびらせてはならない」としながらもこれを利用すれば議論に「勝つ」ことは出来るようになるのではないだろうか。
 不幸にしてこのような「小児病」の議論家と対峙しなければならない場合どのように対処すればよいのだろうか。この問題に対して著者はとっておきの撃退法を提案している。

 「『あなたの考え方にはついていけません』反論はこれで十分である

 70年代後半から80年代にかけてそれまで「論理的」「科学的」とされてきたものが急激に揺るぎ出したのであろう。80年代には中村雄二郎「臨床の知とは何か」が書かれ最近では養老猛の「バカの壁」が記憶に新しい。最終的に人間の感情、コミュニケーションが最も大切であるという当たり前のことに気付くのに時間がかかったということであろうか。
 インターネットという媒体は基本的に一方通行である。そこにはただ「事実」だけ書いたものや「真実」を書こうとしたものある。しかしそれはある個人、社会が見た「事実」であり「真実」である。まさか本書がこのネット時代を予見したとは思わないが、驚くべき先見性に満ちた書であると思う。

 本書「詭弁論理学」は中公新書のベストセラーである。赤字部分はすべて本書の引用部分である。


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