黒死館殺人事件

小栗虫太郎

 

 阿部公房の小説だったかエッセイにライオンの名前についてのエピソードがあった。かつて人間は名もない怪物に怯えていたが、その怪物に「ライオン」という名を「つけた」とたんに人間は「ライオン」を征服するすべを得たというのである。このエピソードは阿部氏独特の寓話であるが確かにどうやら人間は分類しジャンルを決めレッテルをつけないと落ち着かないものらしい。例えば音楽におけるクラシック、ジャズ、歌謡曲…更にはクラシックの中でも交響曲、室内楽…、更には古典、ロマン、近代…、その上最近ではもっと細かに多様なジャンルを「つけて」いる。それはそれで便利であるし、一つのジャンルに絞り込めるという利点もあるのだが、さてその分類にはまり切らない「怪物」となると、まさに文字通り怯えてしまうらしい。

  小説でも1970年代に再評価が進んだ夢野久作、久生十蘭といった作家がいる。主に作品発表の場がいまや伝説的な雑誌「新青年」であったため「探偵小説」に分類されていたが、最近では「異端の作家」という分類に入っているらしい。小栗虫太郎もその「異端の作家」に一人だが、恐らくここに上げた3人の中で最も極端なスタイルをとった作家であろうと思われる。夢野久作の土着的で饒舌なスタイルとも久生十蘭の練りに練り上げた洗練とも違う、いわば観念的で悪趣味の限りを尽くしたような文体のスタイルは世界にも例を見ない作家ではないかと思う。特に初期の名探偵(超探偵というべきか)法水麟太郎の登場する作品においては、贅沢なペダントリー、異常ともいえる展開で読むものを圧倒する。「後光殺人事件」において登場した法水は、「聖アレクセイ時院の惨劇」を解決し、そのあとに踏み込んだ最大の迷宮がこの「黒死館殺人事件」であった。「ボラフォラス以東にただ一つしかない」「ケルト・ルネサンス式の城館(シャトウ)」に住む「臼杵耶蘇会神学林(うすきジェスイツトセミナリオ)以来の神聖家族といわれる降矢木家」で起こる惨劇はさしもの法水をもってしても尋常ではない事件であったようだ。

 江戸川乱歩は「黒死館」単行本によせた序で「論理の貴族主義者、抽象の詩人の比類なき情熱と、驚嘆すべき博学と、凄愴なる気魄をもって、世界の探偵文学史上に、あらゆる流派を超越した一つの地位を要求する事が出来る」と最高の賛辞を書いているが、反面常識人であった乱歩はこの作品が「トリックが大部分具体化に耐えない」事も指摘している(具体例をあげたい誘惑も強いが取り合えず作品が「探偵小説」のかたちをとっている以上読んで確認していただきたい)。ただ乱歩は決して「具体化に耐えない」探偵小説を標準以下に見ているかといえば先の賛辞にもあるとおり、「抽象論理の一大交響曲として、おびただしいペダントリを各種楽器の音色にして、楽しむ」という的確な指摘もしている。

 はたして、この作品の中に現われる夥しいペダントリーは一体どこからどこまでが本当なのだろうか?現代教養文庫版の改題を書かれた松山俊太郎氏によるとかなり虫太郎による創作も混ざっているとうことだが、自動人形テレーズやウィチグス呪法典や希伯来(ヘブライ)文字、カバラの原理による暗号、カペルロ・ビアンカがカテリナ・ディ・メディチの娘だという奇説、事件の本筋とは関係なく出てくる膨大な書物の羅列などはこの作品のムードを高めるに重要な役割を担っているであろう。中でも私が好きなのは法水が黒死館の住人と繰り広げるゴットフリート、ポープ、ファルケ等の詩の引用による心理的駆け引きのシーンである。

 「ところでセレナ夫人、その風来坊はいずれ詮議するとして、時にこういうゴットフリートを御存じですか。吾れ直ちに悪魔と一つになるを誰が妨き得るべきや(ヴァス・ヒエルテ・ミツヒ・ダス・イヒス・ニヒト・ホウテ・トイフエル)―」
 「ですけど、その短剣(ゼツヒ)……」と次句を云いかけると、セレナ夫人はたちまち混乱したようになってしまって、冒頭の音節から詩特有の旋律を失ってしまった、「その短剣の刻印に吾が身は慄き戦きぬ(ゼツヒ・シユテルペル・シユレツケン・ゲエト・ドウルヒ・マイン・ゲバイン)―が、どうして。ああ、また何故に、貴方はそんなことお訊きになるんです?」としだいに亢奮していって、ワナワナ身を慄わせながら叫ぶのだった。「ねぇ、貴方がたは捜していらっしゃるのでしょう。ですけど、あの男がどうして判るもんですか。いいえ、けっしてけっして判りっこございませんわ」
 法水は紙巻を口の中で弄びながら、むしろ残忍に見える微笑を湛えて相手を眺めていたが、「何も僕は、貴女の潜在批判を求めていやしませんよ。あんな風精(ジルフエ)の黙劇(ダム・シヨウ)なんざあ、どうでもいいのです。それよりこれを、いずこに住めりや、なんじ暗き響音―なんですがね」とデーメールの「沼の上(ユーベル・・デン・ジユムフエン)」を引き出したが、相変わらずセレナ夫人から視線を放そうとはしなかった。

 つい、面白くてどんどん書き写してしまうが、まさにペダントリーの作家虫太郎の面目躍如たるところであろう。

 引用の中でも特に異様なのは日本語に付けられた片仮名のルビである。時にドイツ語、英語と混乱しているが国名、人名、書名、詩句に始まり果ては驚駭噴水(ウオーター・サープライズ)、襟布(カラー)、卓上(デスク)といった調子である。これも虫太郎の人工的な文章のスタイルを引き立てる重要な役割を持っているのであろう。

 ところで作中法水が「僕はその『ペトリューシュカ』がストラヴィンスキー作品の作品の中では一番好ましいと思っているのです。恐ろしい原理哲学じゃありませんか。人形にさえ、口を空いている墳墓が待っているのですからね」いう個所がある。黒死館が書かれたのは1934年、ペトリューシュカがシャトレー座でモントゥーの指揮、ブノアの振り付けで初演されたのが1911年だから虫太郎が知っているのは当然だけれども、何故かこういう個所を見つけると嬉しくなってしまう。私は録音の歴史には全然無知だが、芥川龍之介はストラヴィンスキーの「春の祭典」のSPを愛聴していたそうである。大正期から昭和初期において日本でストラヴィンスキーは知識階級に人気の作曲家だったのだろうか。

 こういった作品について書き出すと取り留めもないことをどんどん書いてしまうが、虫太郎のほかの作品、事実上のデビュー作「完全犯罪」は探偵小説といえるにせよ、極端に会話の少なく、延々と描写の続く「白蟻」などは一体、どのジャンルに属する作品なのであろうか。私は虫太郎は恐らく小説において思想や人間の感情などを表現する気などまったくなかったのではないかと思う。あくまで文章の修辞と修飾語に拘った作家ではなかったのだろうか。黒死館の登場人物にしても血の通った人間は一人もおらず、ただ、ペダントリーと超論理の操り人形のような印象を受ける。その文章を最大限に生かせるアリバイとして「探偵小説」が選ばれたような気がするのである。

 どちらにせよ小栗虫太郎は「怪物」として、その作品はあらゆるジャンルを超越して生き続けていくのであろう。

 本書は創元推理文庫「日本探偵小説全集6巻小栗虫太郎集」に収録されている。本書は「白蟻」を除く代表的作品を収録したお買い得な文庫である。

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