邪宗門

芥川龍之介

 

 芥川龍之介と云う作家は少し変わった作家である。「文学者」として教科書にも登場するのでその評価は非常に高いものであると思われているが生前からその死後数十年に亘って文壇では高く評価されていなかったと云うことは意外な事実である。橋本治によれば「芥川をいじめ殺した当時の文壇」(「三島由紀夫とは何者だったのか」)と書かれている。ちくま版全集1巻の中村真一郎氏も文壇での評価の低さと一般読者からの評価の高さについて書かれている。これは私にはかなり意外なことであった。
 芥川の魅力はその人工的で審美的な文体にあろう。特に初期の王朝ものをはじめとする格調高い文体はその溢れんばかりの才能と共に美しい。ただその芸術至上主義、物語性(これは後に芥川本人によって否定される)、児童文学の執筆、そして短編がメインであった事が文壇での評価に繋がらなかったのであろう。更に「私小説」に重きを置く近代日本文学では芥川のような才能は相容れなかったのかも知れない。志賀直哉が絶賛したとかいう「一塊の土」や晩年の私小説などは文壇を意識して書かれたものかもしれない。しかし私はやはり日夏耿之介の指摘通り初期から中期にかけて書かれたものが芥川のベストではないかと考えている。

 芥川龍之介は私が初めて全集で全作品を読み通した作家である。35歳と云う短い生涯に残された作品はそう多くなく「全集読み」のしやすい作家である。先にあげた「一塊の土」や晩年の自伝的私小説などは好きではないがそれはそれで興味深い。「王朝もの」の中では「好色」がユーモアと皮肉が綯い交ぜで不思議な読後感がある。また「神々の微笑」のような日本人の文化に鋭く切り込んだ作品も忘れがたい。キリスト教伝来の頃、日本の南蛮寺にたたずむオルガンティーノ。日本での布教活動は好調でこうして寺院まで建つに至ったがその顔は浮かない。そこへ日本古来の八百万の神々が現れる。神々はオルガンティーノに「お前の祈っている神と日本人の祈っている神は違う」と言う。日本人は外から入ってきたものを「自分のもの」にしてしまうと指摘する。オルガンティーノの浮かない顔、それは日本人との根本的な文化の差であった。芥川はこの作品によって日本人の文化を鮮やかに分析して見せた。晩年の「河童」は明らかに「ガリバー」中の「ヤフー」に想を得ており両者の読み比べは面白い。
 ちなみに「トロッコ」の主人公と私の名前は漢字も同じ同名である。あの走って帰る帰り道の夜景、それは人生の残影であろうか、それをある雑誌社の社員となった主人公が回想する巧みな構成を理解し味わうのには随分と時間がかかったものである。文学とはどのように読んでも面白いものであると思う。

 「邪宗門」は未完の長編小説である。「地獄変」の姉妹編として書かれその格調高い文体と多彩な物語で読むものを魅了する。近代文学の最も優れた伝奇小説のひとつであると思う。未完であるのが惜しい作品である。読んでいただくと判るがまさに一番盛り上がったところで「おあずけ」をくう様な作品である。おそらく芥川龍之介と云う人は生粋の短編の名手であったのだろう。三島由紀夫が「文章讀本」の中で森鴎外を「短編の文章」として紹介しているように芥川もまた「短編の文章」の名手であって長編向きではなかったのあろう。しかし本作では立派に「長編の文章」であると思う。尤も三島が例に挙げる鏡花程の長編向きの文章であるとは言えないが。

 「文芸的な、余りに文芸的な」で芥川と激しく論争した谷崎潤一郎であるが谷崎もまた「残菊物語」という優れた伝奇小説を未完のまま残している。未完でありながらその面白さ、文章の美しさは比類が無い。両者がどのような結末を考えていたのかは判らないがあれこれ想像して見るのも一興であろう。


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