地下室の手記

ドストエフスキー

 

 ドストエフスキーと云う作家ほど有名な作家はいないだろう。しかし彼の作品はその巨大な思想、複雑さ、そして何よりもあの本の分厚さから敬遠している人が多いのではなかろうか。私もそうであった。学生の頃に「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」は読んでいたものの他の作品はおそらく一生読むことはないと思っていた。しかし本作「地下室の手記」を読んでその後に書かれた5大長編はすべて読んでしまった。理由はまず面白かったからである。しかし実際こうやって紹介文を書くのは大変な作業である。私がドストエフスキーについて書くのには俎が小さいようである。そのへんは差し引いて読んで頂きたい。

 おそらくドストエフスキーの5大長編作品の中で最も読みやすいのは「罪と罰」であろう。この小説はよく言われるように推理小説としても読みえる小説である。単純に推理小説としてだけではないのだが犯人の心理状態を克明に追う緊張感はなかなか手に汗握るものがある。ちなみにこの小説の事件そのものは意外に短く7日間の物語である。作者自身が最も愛したといわれる「白痴」は悲劇的な内容ながら清澄な雰囲気をもつ不思議な小説である。私も最も好きな小説である。また印象的な美しい「絵になる」シーンが多いのも特徴的であろう。黒澤明が映画化しているのも無関係ではないだろう。「悪霊」は個人と社会の力学を描いた傑作でこれを越える政治小説は書かれていないと埴谷雄高も指摘している。さまざまなものに「憑り付かれた」人々とその悪意に満ちた物語は戦慄的である。正直私はこの作品はそのあまりの大きさ故理解出来ているとは言いがたい。「カラマーゾフ」は云わずとしれた傑作。続篇も構想されていたようだがこれだけでも十分に完結した内容を備えている。
 以上のようにドストエフスキーの作品はまず第一に面白い小説である。思想や哲学という前に作品自体が芸術作品であって一級のエンターテイメントとして読まれても良いと思う。読み進むうちに様々な事を考えさせられる作品であって何かを考えるために読む作品ではないと私は思う。

 さてその後期長編群に先だって書かれたのが本作「地下室の手記」である。本作は一言でいえば「引きこもりの手記」とでもいえようか。ただその「引きこもり」は自覚的であり「私」の「理論」によっている。構成は2部にわかれ第1部では現在の「私」による独白、第2部は「私」の学生時代の回想となる。第1部で「私」によってネチネチグチグチと語られる自意識の問題、社会との関係性の問題は現代社会でも通ずるもので驚かされる。「虫けらにもなれない」と卑下しそのくせ「お前などなんとも思っていない」という自意識の高さは醜悪ですらあるが近代人を見透かすドストエフスキーの筆致は強烈である。第2部の回想は友人ともいえない友人とのまさに地獄の宴席を中心に描かれる。ここでも「自分自身を疑ったことのない人間」への計り難い憎悪、「彼等が『私』を無視していることなど『私』は気にしていない」事を証明するための一人暖炉の周りを何周も歩く。醜悪で滑稽ですらあるがこの「私」を笑い飛ばせるだろうか。

 思想や科学、更には「人間」。これらは近代になって「信仰」され「憑り付かれ」たものである。このことは20世紀以降思想家からも批判されたがドストエフスキーは自身の実体験からその矛盾とやりようのない怒りを小説の中でぶちまいた。この「大いなる愚痴」はそのまま現代に引き継がれた。「この逆説家の『手記』はここではまだ終らない。彼はこらえきれずにさらに続けた」という「地下室の手記」の最後は印象的である。


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