春の雪

三島由紀夫

 

 私は今までに3回「春の雪」を読んでいる。1度目は中学生の頃、背伸びして読んだのがはじめであった。その頃の感想は殆んど覚えていないが古風な恋愛小説ぐらいに思っていたのであろう。2度目は大学を出た頃に読み返した。この時の感想はかなり異様なものである。中学生の頃に読んで完全に「恋愛小説」だと思いこんでいたのだがなんとも奇妙な弁解だらけの恋愛小説であると感じた。主人公松枝清顕は厭な奴だし大体ヒロイン綾倉聡子を愛するのを無理やり理由をこじつけているようにすら見える。「春の雪」と「仮面の告白」の間にはあまり差がないようにさえ思える。「仮面の告白」の「私」が松枝清顕だとしても別に違和感がない。前者は同性愛者で後者は異性愛者にも関わらずである。この感覚は私を三島から遠ざけ数年間殆んど三島由紀夫を読まなくなってしまったくらいのものであった(例外的に「金閣寺」だけは再読しているのだが)。さて3度目はついこの間、本作品が映画化されたのでぼちぼち読み返してみたのである。今回の再読は中学生の時のような熱狂もなく、割合冷静に読んだつもりであるがやはり三島には蜜と言うか毒がありそれを純粋に楽しんで読んだといえばそうなるだろう。勿論弁解だらけの恋愛小説という感じは拭えないが物語と全然関係ない今まで気にも留めなかった箇所に引っ掛ったりなかなか面白かった。この稿を書いている時点でまだ私は映画「春の雪」を見ていないのだが、この奇妙な恋愛小説をどのように映像化したのかは気になるところである。例えば清顕が聡子とはじめてキスをするシーン。

 「その軽い力に誘われて、清顕は自然に唇を、聡子の唇の上に載せることができた。」

 どうという事のないキスシーンだろうが「唇の上に載せる」という表現はどう考えても変だ。普通は「唇をあわせる」とか「重ねる」という表現を用いるだろう。まるで動作の後から感情を引き出そうとして無理に「唇を上に載せ」ているようである。三島由紀夫程の日本語の耽美な扱いになれた人が使う表現とは感じられない。この違和感をどのように映像にしたのだろうかと考えると確かに面白いのではあるが(多分普通にキスするだけだと思うが)。
 また別の箇所、友人本多が清顕のわき腹のほくろに気付くシーン、これは「豊饒の海」全体を貫く「輪廻転生」の証しを読者に提示するシーンである、はどうであろうか。

 「清顕は左腕を上げて後頭部にあてがっていたので、左の脇腹の、ほなかな桜の蕾のような左の乳首よりも外側の、ふだんは上膊に隠されている部分に、極めて小さな三つの黒子が、集まっているのに目をとめた。」

 これに前後してこんな描写もある。

 「月が丁度深くさしいって入るその左の脇腹のあたりは、胸の鼓動をつたえる肉の隠微な動きが、そこのまばゆいほどの肌の白さを際立たせている。そこに目立たぬ小さな黒子がある。」

 これらのシーンには「若い肢体」だの「しなやかな体」だの清顕の肉体が最大級の言葉をもって描写されている。男の私が読んでも興奮(というと変だが)するほどの艶めかしい男の裸体の描写である。作中本多もその黒子を取ってやろうと思う。これを清顕の肌に触れたくなったと解釈するのは私の考えすぎだろうか。これは先程の「唇を上に載せた」と書いた人物の文章とは思えないほどである。
 映画を未見であるからなんとも言えないのだが、映画とはこういった表現をスクリーンに濃密に執拗に描きださなくてはならないのではないだろうか。ただストーリーを追うだけでは小説を、いやあらすじを読んだ方がましであろう。清顕の裸体のシーンなどはそこだけ特別にその肌の質感、しなやかな肢体を描写するべきだろう。「唇を上に載せた」というぶっきらぼうな(本文では更にその状況がこと細かく描写される)表現、清顕の肉体の美しさだけをスクリーンに描き出すのが監督の仕事ではないだろうか。少なくとも私は原作を読んで細部のこういった描写に「映画的」なものを感じたのだが。


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