男道ばなし

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《非定形》の切腹 大石甚吉VS武市半平太

小中英之の「愛情一本」

《意地》ずくと《筋》ずく

小中英之の「愛情一本」

わが親仁の腰折れ

爺道の有段者?十河義郎氏

爺道事始

「剣道五百年史」に見える依田新八郎の実像

空前は絶後の始まり・依田新八郎

葛飾北斎と妙見様

藤田五郎のふたつのこだわり

男伊達のネーミング

腐れ外務官僚へのお手本にしたい板倉勝重

アイデンティファイ神:宮武外骨

水野十郎左衛門v.s.幡随院長兵衛

ならず者の思慕

熟考したことがない人は困る

侠客の詠草

塚原ト伝V.S.輪島功一

将門の首が引寄せた千代田城

唐獅子牡丹v.s.昭和残侠伝にみる改作の罪

テキスト ボックス: waltherP38

 

 



男道ばなし(21)

《不攻》という敬意の美徳

新美吉孝と足利尊氏

(2007.11.25)

 

神風連、歴史書の多くが「じんぷうれん」と読み、三島由紀夫が「しんぷうれん」と呼ぶ《乱》または《変》は

明治910月に颯と起り、間もなく終結する。

状況は三島の『奔馬』でビビッドに辿りうる。

『奔馬』は短いながら末尾に銘銘伝を備えるが

ここで静かに光を放つのが熊本鎮台警部・新美吉孝である。

新美は巡査4名を率いて群浦付近の大見嶽に潜む残党の逮捕に向った。

 

山頂では折りしも、再起を見限った6名

古田十郎、加々見十郎、田代儀太郎、同儀五郎

森下照義、坂本重孝が屠腹せんとしするところ。

 

山を下りてきた山人にその状況を聞いた新美は

逸る一同を制して、木の根方に腰をおろし、悠然と煙草とくゆらせたという。

 

同様の光景は南北朝期にも見られる。

太平記の楠木正成の一族郎党の見事な死の陰には

足利尊氏の配慮があったという説が多くの史家文人により

提起されている。

 

対立人物への敬意は勝者のゆとりあってのものかも知れないが

それにしても

現代人の多くは、勝利の余得をむさぼりすぎているようにおもうが、いかが。

 

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男道ばなし(20)

《非定形》の切腹

大石甚吉VS武市半平太

(2006.5.6)

 

たとえば空手の試合にも《組手の部》と《形の部》がある。

よく、「剣豪もし相撃たば」が問われるが、これを《試合》とするならば

切腹という作法は《形》に相当するのではあるまいか。

この文章の趣旨が、死を弄ぶように見えては心外なので

敢えて触れるが、死に追いやられるのではなく、大儀のために

誇り高く切腹をする場合には、死に方に最大の美を求めることであろう。

ならば、後世の者がそれを賛ずるならば本望ではあるまいか。

およそ切腹は《定型》の筈であるが、剛勇の士は《破調》を望む。

いや、現代なら《硬式》とのたもうかも知れぬ。

先ずは、土佐剛直の勤皇の士、武市半平太の場合。

当時、公武合体を是とする容堂公に「不敬行為」があったとして死を賜る。

半平太は有終の美として《三文字腹》企て、実行する。

凄絶な場面になることを想定して、真意が伝わるようにその旨を関係者に

含めておいたという。

無論、これを立派に実行している。ときに慶応元年閏5月であった。

対するは下って慶応4年、堺港守備隊所属のこちらも土佐藩士

8番隊小頭大石甚吉である。

事件は開港していない堺港にフランス海軍兵士22が上陸、

土佐藩軍隊旗を奪うなどの狼藉があったため、土佐藩が発砲

7名を死なしめたことにフランスが猛抗議、

新政府が土佐藩関係者29人中の20名に切腹ということとなったが、

当日あまりの凄惨さにフランス側が11名までで打ち切りとなったもの。

結果的に、土佐藩士が武士の死に様を見せつける機会となったのであった。

このとき、大石は「十文字腹」を選んだという。

左から切り下げ、右に引いた後でさらに切り下げるというものである。

そしてこれも立派に履行された。

もっとも心に残るのは介錯の形である。

半平太はあらかじめ、介錯人に十分に見届けるまで介錯を待たせてあった。

その上、通常と比べのものにならないプロセスを踏んだため、

前のめりに身を投げたのである。

そのため、介錯人両名は背後から心臓を貫いたという。

大石は自分に《魂魄》があるかどうか確認するとして

声をかけるまで介錯をするなと制しておき、

切腹後短刀を右に置き、手をついて威儀を正し、介錯を請うたという。

両者の比較は愚であろう。

難易度の差とフィニッシュの差を論ずるまでもあるまい。

 

参考:北影雄幸著「司馬遼太郎作品の武士道」

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男道ばなし(19)

《意地》ずくと《筋》ずく

(2005.12.28)

 

《武門の意地》という

根源的に大切な行為を正当化・美化する言葉がかつてはあった。

ところで当今はというと、《意地》などという原理は

《偏屈》の類語・派生語にまで貶められている。

《意地》という名のもとに取られる行為の中には、

確かに《偏屈》すれすれのものも間間あるが、そういうものは、正しい日本語では

《小意地》といって区別すべきものなのである。

本欄で頁主は、ことごとしく《男道》を言挙げしているのだから、ここでは

一言に縮めて言わねばないだろういう。

定義する。《男道》とは、『客観的には《責務》を全うすることであり、主観的には《意地》を全うすること』であると。

たとえば。

先日、わたくしには、出なければならない会合があった。

が、その会合には過日、わたくしの主宰する会合を

全くの我侭から忌避した人間たちも出ることが明らかになっていた。

かつ、その会合に対してわたくしは

《義理》はあったが《責務》は然程にはなかった。

出席を避けるという《意地》を優先させたのは言うまでもない。

一見、実にくだらぬことながら、この行為の中には

一本の気高い絹糸が通っていると信じている。

人の世に協調協力は必須だが尊厳を失ったら人間ではない。

己の尊厳を現代で唯一確認できるのは《意地》だけなのであるのだから。

世は、冷静・客観的に考えれば《責務》重視の時代。だからといって、

《責務》主義で貫くと、《筋》の側面が見えなくなってくるのも事実。

もし、これではいけない、のであれば、《筋》を守るべし。

そしてその《筋》を守るために必要なのが

まさにこの《意地》なのである、頁主は思うが、いかが。

 

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男道ばなし(8)

 

小中英之の「愛情一本」

(2005.9.10)

 

30年前、頁主の所属する「短歌人」に同世代の男がいて、彼とはときおり二人で会って酒そしてたまには何と珈琲!を飲んでよく話した。ある日彼が言った。「Yodaさんは「短歌人」で誰が好きですか」、いちに、同世代をあげると彼は言った。「わたしは小中英之です。ここに入ってくる人はほとんどそうでしょ。今この中で歌壇でまともに流通しているのは彼一人ですよ」と。

当時だって「短歌人会」に若手は居た。その内の小池光ら10人は「自選ベスト10」を結成して「十弦」と称していた。わたくしは仙波龍英らと「死の花」、棚橋信雄らと「穿」、杉本隆史らと「ノート回覧」、さらに暇に任せて限定100部個人誌「不羈」で騒いでいた。

こういう連中が声高に「飲談;論談までいかない」する傍らに小中さんはほぼひとり「中年?」でおられたのである。若者の常、「先輩を囲む」などという殊勝さは絶無。それでも氏の発言は常にひとり「歌論」だったか。一度だけ一喝されたことがある。

『おまえさんたち、もう少し、高尚な話をしろよ』

そのころ二度、『おまえはちょとこい』と誘い出された。一度目の結末は26時ごろ『しょうがねえ高瀬のところへ行くか』という流れとなり、もいちどは小中さんの所に泊めて頂くなりゆきとなった。印象ぶかい思い出多々だがこれは語らない。

こういう場での話はひとつに決まっていた。『あなたはねえ、惜しいんだよ。そろそろ大人のことばづかいにしなさいよ。もう《俺》って書く年齢じゃないだろ。俺もずいぶん変なことやったよ。でも卒業したぞ』この一連は二度や三度ではない。今思えば、恐らく小中さん自身がそれこそ《異神をさがして》苦闘の末、安心立命された方だったのであろう。

この一環として本をいただいた。てれくさいので「愛情一本」とかましておく。有斐閣の「注釈万葉集《選》」である。歌会に来られるなり斜め後ろから左腕をぽんぽんとたたかれた。振り返ると『これをちゃんと読むのよ』と言われた。それなりにちゃんと読んだ。無論今もときどき読む。

でも。

亡くなられたのは短歌人《離会中》。遠くからお礼を申し上げた。

 

なお、前項には小中さんにこうお答えしていた。

 

兄者 俺に教えよいつどこで俺の性根は脱臼したのだ

無論、頁主には血縁上の兄はいない。

 

 

「剣太刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清けく負ひて 来にしそのなぞ」を採っても小中さんは「違う違う」と言われそうに頁主は思うが、いかが。

 

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男道ばなし(7)

わが親仁の腰折れ

(2005.8.17)

 

犬と歩くと早朝から蝉が圧倒的であることに圧倒される。この蝉の声によって思い起こされることがある。

思い出す歌があるのだ。どう見ても腰折れであるが。曰く

 

あらがねの土を灼くらむ焦がすらむ夏来るらし蝉鳴きしきる

 

口述であったので表記は頁主による。

わたくしが学生時分に歌を作っていることを親仁は知っていた。ノートでも見たのだろう。親仁がそれを知ったということは、母に次のように言われて判ったのである。

「あいつは歌を作っているだろう。早く止めさせたほうが良い。続ければ、必ず、人生を誤る」と言ったというのである。「大きなお世話だ」

だが、今、思えば、確かにわたくしは人生を誤っているといえる。世間の《芯》からずれたという意味で。少なくとも、これをやらないわたくしの友人諸氏は健康な人生を送りつつあるのだから。

何年かした、蝉のうるせえ、ある夏、親仁から突如、「じつは、わたしも歌を作っていたのよ」といわれたのであった。時に確か24・5歳、親仁はわたくしより丁度40歳上。「テンロウをいう名で同人誌を出していた。天狼星の天狼だ。」といって冒頭のものを2度呟いていたのである。「一緒にしねえでくれ」と胎はつぶやいたが、ことばでは「シリウスですね」とだけ応じた。当時は自認する驕慢児、顔に軽侮が浮かんでも消さなかったろう。親仁は眉ひとつ動かさずに言うべきと思ったらしいところを続けた。「予科の頃、チブスに罹ったのよ。また今年も寝ていなければならないか、という思いで病院で作ったのだ」「そうか、親仁は2年遅れて出ていたな」とこれも内心、雌の蝉のように黙っていた。

その父は10年前、88歳の誕生日に突然亡くなった。前の日に妹が頼まれて届けた新調の眼鏡は、その朝、使ったらしかった。

母の次兄が亡くなったのはそのだいぶ後。三兄が家に来てこういった。「Yoshiharuさんも歌をやるらしいので、私の腰折れを聞いてください。兄弟が死ぬのはさびしいものですよ」

 

さなきだに寂しきものを氷雨して兄の訃を聞くあわれなるかな

 

「ようく判ります。ご胸中、伝わります」といった、もう、顔に憐憫は出さなくなっていた。

頁主も失笑を買いながら繰り返している。ああ、生とし生けるものとやら。憫笑・失笑を受けても、辞世のトレーニングがてら、乗りかかった船は漕ぐべきと頁主は思うが、いかが。

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男道ばなし(6)

爺道の有段者?十河義郎氏

(2003.3.8)

 

爺道(じじいどう)なる能書きを発案していじっていると徐々に面白くなってくる。この間から、「現存する有段者は誰か」と考えていた。候補がいた。いや、おられた。その方は頁主との接点は「短歌人会」という結社で、おつきあいは20年前後。十河義郎さんという方である。他界されて10年くらいになるだろうか。

職業は必ずしもその人の中核を示すものではないが、氏は海軍機関学校からそういうコースへ進まれたらしく、戦後は国防関係の役所に務められ、一時期その部門の教育機関を主宰され、最終のお勤めは旧航空機会社系の自動車会社であったように思う。

さてその断片または側面。

1.歌会での作品評は常に肯定的であった。言い方は悪いがどんな作品でも必ずその長所に触れられた。

2.奥さんを亡くされたときは手放しで歎かれた。膨大な挽歌を発表された。「『俺が先に死んで、残ったお前を悲しませることは絶対にしない』と言っていたことだけが守れました」と聞かされたときの頁主の衝撃は小さくなかった。

3.一度、堰を切ったように長編の文体論を開陳されたことがあった。わたくしには追いきれないほどの詳細な思考であった。

こんなことではとても実像に迫りえないが十河さんを知るむきは前回の「仕様」を見ると大いに頷かれるのではなかろうか。再掲する。

 

オヤジ

ジジイ

スタンス

自信なさそう・右顧左眄

△偉そう・◎不動

文化の志向

若者追尾

◎自己回帰

返  事

はいはいっ!

△応!

表  層

若づくり・笑顔

年の功・△渋面

内  奥

権力平伏

◎恬淡

特  技

お手・ちんちん・大袈裟

懐手・逆袈裟

象  徴

木鶏

どうやら十河さんには△印の部分が該当しない。逆に◎印が十分に該当する。いってみればその像は「恬淡」につきる。

こうして見るとここで△のついた部分は「恬淡」とは相容れない「イヤミ」な部分であるということも判ってくる。これらはつまるところ、「衒い」だ。

今残念に思うのは氏と武術の話をしたことがないということである。わたくしが聞かれてお答えした田宮流居合道の逆袈裟斬りの話などは生兵法笑止の限りであったかも知れない。古武士然とした氏こそ鞘鳴りがお似合いであったろうから。

ある夜、池袋の往来を歩きながら十河さんは言われた。「ヨダさん。この横断歩道ひとつ渡るにしてもああやってはみ出す人がいるでしょう.。ああいうのはわたしは嫌ですねえ。ヨダさんはどう思われますか」

十河さんから頂いたものはこのコトバと、.病院に届けていただいた白い花、お祝いに頂いた硯箱がある。やはり、「爺.」と表現するにはかなり高貴すぎるかも知れない。

わが「爺道」は廉潔の士十河義郎さんより生臭そうである。人格の鍛錬度の差、やむを得ないと思うが、いかが。

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男道ばなし(5)

爺道事始

(2003.1.25)

 

爺道(じじいどう)なる「道」がなくてはならないのではないかと最近強く思う。2か月ほど前から思っていたが、本日57歳になるに及び、ほんのすこしばかり述べてみたい気がする。

「オヤジ」という蔑称がいつの間にか定着した。「主体性がない」「汚らしい」いわば「意気地なし」の代名詞として。哀れというほかはない。この事実を思うと、俄然、「爺道」が光輝溢れる存在に思えてくる。

   無論、ジジイも蔑称である。しかし、この語には手垢がついていない。かつ、「自称」として使われていることもない。さらに、なぜか、頁主が四半世紀にわたって大事にしてきた「男道」が昨夏「海人」同様に、Tシャツに刷り込まれてnanjaku青少年諸君の背中を飾ったというやや寂しい状況もある。頁主の求道精神を大いに刺激する事象でもあった。

   さてわが始める「爺道」は60歳にて初段をめざす。ところで、toshiyoriは気が短いので一挙に「オヤジ」との対比として掲示し、本稿は早々に切り上げることとしたい。

 

オヤジ

ジジイ

スタンス

自信なさそう・右顧左眄

偉そう・不動

文化の志向

若者追尾

自己回帰

返  事

はいはいっ!

応!

表  層

若づくり・笑顔

年の功・渋面

内  奥

権力平伏

恬淡

特  技

お手・ちんちん・大袈裟

懐手・逆袈裟

象  徴

木鶏

いずれおりおり、細説してみたい。わが修行の途中経過も本欄で述べてみたいところである。

 

爺道六級なれば恬として地水火風空じりっと歩む

 

  つまるところ、往年のジジイの定番「頑固」を「強固」という「高み」に昇華させようと、とりあえずそう言ってもよい。なお、この意図はこんがらかっていないと頁主は信じるが、いかが。

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男道ばなし(14)

「剣道五百年史」に見える依田新八郎の実像

(200..22)

 

前回は依田新八郎について《嘗て読んだ印象》から夢想して拙文を認めたが、今回その実体を少々得たので史実に近いところをも報告がてら述べておきたいと思う。

 

著者富永堅吾氏(明治16〜昭和35)は東京高等師範卒業後、広島高師・東京高師等で教鞭を執った教育家で同時に有数の剣道研究家であった。代表著作「剣道五百年史」は氏の13回忌に当る昭和47年に文部省の学術図書刊行の助成を得て500部の限定版として刊行されている豪著。これが平成8年の復刻版によって広く流布されるところとなったものである。そして以下は依田に関する記述の全文である。

 

《第十一章 徳川中・後期に於ける重な流儀と剣道家》から 一、機迅流 依田新八郎秀復

当流は依田新八郎秀復を流祖とする。依田は剣術のみならず神保忠昭について楠流の軍学を学び、又浦上浅右衛門に法蔵院流の槍術を学んで印可を得、自ら工夫を加えて一流を創始し機迅流と号した。丹波篠山公に仕え、二代三代と家業を継いだのであった。

かの天真伝一刀流の白井亨が、寛政二年八歳のときに入門し、七ヶ年間学んだのは当流三代目の時である。白井が兵法未知志留辺に述べているように、当流は至って荒い稽古で、防具を着け、しないを以て大声をあげ強く乱撃するものである。余程身体が剛強で腕力があり、又剛勇精悍の気象でなければ達せられぬ。という流風であったとある。天保十二年六月二十日に歿したが、年八十二であった。(太字は頁主)

 

同人に軍学的視野があったとか槍術の素養があったとかは寧ろ意外であった。案に相違して「研究の徒」であったのかも知れない。前節の本も家のどこかにあることゆえいま少し探ってみるのもおもしろいのかも知れないと頁主は思う。いかが。


男道ばなし(13)

空前は絶後の始まり・依田新八郎

(200..2)

 

江戸時代に依田新八郎という武芸者が実在した。「心形刀流」を学ぶ。同流は信州伊庭是水軒の創始になるが、「あまねく諸家の伝を極めた」とされる言わば「集大成」の流派である。「それ心形刀とは口伝、書伝もあれど、心は己が心、形も同じく身の形,、刀はその用いるところの刀なり。しかれば、何流といえども、その理、用を離るるものに非ず。云々」要するに「心形刀流」とは「剣道」というような一般名称に近いといっているのである。正統性がその拠って立つところである。

同流もまた組太刀が多い。虎尾剣、捨発刀、剣忍城等々、戸部新十郎氏の作品にもしばしばあらわれるところ。

新八郎には元宮某というライバルが居た。双璧といきたいところだがどうしても一歩をゆずる。新八郎は疑う。当人に一歩と見える差は他者には二歩三歩の差ではないかと。彼は奥義に迫ろうとする。奥義は遠のく。とこうするうちに疑いが生まれる。疑いは新しい疑いを産む。「俺の一生、先人の境地に至ることを究極の目的とするのが果たして最善なのか」と。「自分の剣こそ後人に取り入れられるほどの一派をめざすべきではないか」と。「この先人追究は元宮にまかせれば良い修行ではないか」と。新八郎が疑いに疑った挙句、最後に疑ったのは、心形刀流の剣義だった。

「集大成が何になろう」と一転、彼は一剣を磨く。同流の根源は「それ兵法は、心の妙徳なり。故に修力実らざれば、更に得難し。本、勝負なし。勝つを求めず」とある。もっともだ。だが、どこかなじめない。そうはいっても、同流の唱えるところにも一理も二理もある。とりあえず、新八郎は剣捌きの速度を上げることに集中する。同流の形を殆ど二倍以上の速度で処理しようとする。普通ならできまいが。

「伏し拝むいがき(齋垣)のうちは水なれや心の月の澄めば映るに」という「静」の境地を抜けようとする、「動」または「乱」の日々。

結果、依田新八郎はある日、抜けた。自分の剣をつかんだのである。速度の差は既に質の差である。流名を「機迅流」と称することにした。勝負にこだわる刀法であるから竹刀を用いた。もともと「虎尾剣」というのは「燕返し」の異称という説もあるように迅速を旨とする。倍速の「燕返し」が弱いはずがない。勝ちに勝った。ただ、「機迅流」は徹底的に論理を嫌った。剣義を避けた。「泰平を貪る小利口な能書きの時代」を新八郎は冷笑した。しゃあしゃあと能書きをいう剣士の軽薄さをあざわらった。「ちょっと考えれば思いつく程度の当り前のことはわざわざいわぬものさ」

男盛りを過ぎつつある頃、新八郎はひとつの現象に愕然とする。偏屈の自分の下にも剣名を慕って来た弟子はいる。並外れた良い若者ばかりだ。時流におもねるやつは1人もいない。だがその十余名の弟子のだれひとりとして自分の剣技の半分の域にすら及んでいなかったのである。「能書きを笑った罰だな」「やつらには済まんことをした」と瞑目するばかりであった。当然道統は絶えた。

頁主が依田新八郎の名を知ったのは三分の一世紀ほど前である。文庫本の「剣豪列伝」に「機迅流」流祖という記述をみたばかりであるが、いたく気に入り、当時稽古していた勤め先の亀戸の道場の名札では「依田新八郎」を僭称していた。三島由紀夫さんが死んだころである。

上記は戸部新十郎さんの「兵法秘伝考」を読んだ後の春の夜の手枕の産物だが、おそらくこんな人だったのではないかと頁主は思う。いかが。

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男道ばなし(12)

葛飾北斎と妙見様

改名の由来A

(2001.12..2)

 

広辞苑によればこうである。

葛飾北斎

江戸後期の浮世絵師。もと川村氏、のち中島氏。江戸本所に生まれる。葛飾派の祖。はじめ勝川春章の門に入り春朗と号し、のち宗理、画狂人・戴斗・為一・卍など画風とともにしばしばその号を変えた。洋画を含むさまざまな画法を学び、すぐれた描写力と大胆な構成を特色とする独特の様式を確立。版画では風景画や花鳥画、肉筆画では美人画や武者絵に傑作が多く、「北斎漫画」などの絵手本や小説本の挿絵にも意欲を示した。代表作「富嶽三十六景」(17601849

名前の話を続けることになる。上記の名に別の資料から期間を添えて書き足すと、春朗(安永8−寛政6)群馬亭(天明5−寛政6)、このように以下、併称が多い。宗理(寛政7-10)俵屋宗理(寛政811、文化59)百琳宗理(寛政79)菱川宗理(天明8−寛政6、享和3、文化2)北斎宗理(寛政8−10)可候(寛政10−文化8)北斎(寛政9−文政2)不染居北斎(寛政11)辰政(寛政11−文化7)錦袋舎(文化27)画狂人(寛政12−文化14)画老狂人(文化23、天保5−嘉永2)九九蜃(文化2)雷辰(文化912)天狗堂熱鉄(文化11)鐘裏庵梅年(文化9)月痴老人(文政11)前北斎為一(文政5−天保4)為一(文政3−天保5)不染居為一(文政6)藤原為一(弘化4−嘉永2)卍(文化58、文政78、天保4−嘉永2)、百姓八右衛門(天保5−弘化3)三浦屋八右衛門(天保5、弘化3)土持仁三郎(天保5)是和斎(天明1-2)魚仏(天明2)穿山甲(享和3)ということになる。

日に3回というのを含めて、生涯93回の引越ししたというのも凄いがこの改名にも驚かされる。しかし、よくよくみてみると同じ名を並行して使っていることが判り、文章書きがジャンルによって筆名を変えるのと同様と思われる側面もある。ただ、絵画だと文章以上に制作年代順に並べられ易いので、経年順にとらえられてしまうのであろうか。また、ある時期に「北斎」の号は弟子の亀屋喜三郎に与えてしまったと、「前北斎」と名乗ったりしている。

ところで、あらゆる世事に疎いはずの北斎が、自分の生涯引越し回数だけはふしぎにも93回と記憶していたという事から、「意識的に転居を増やそうとしていたのだろう」とか、移転歴100回を誇る先人の幇間俳人「寺町百庵」を意識していたのだろうともいわれているようだ。

ともあれ、数多くなると意味を探したくなるのは人情の常、千葉周作同様「妙見菩薩信仰=北極星・北斗七星」に拠っていたというから、無論「北斎」の「北」はしそれに拠るわけだし、「辰政」の「辰」も同様となる。なお、別資料からは欠落しているが「戴斗」の「斗」は当然これにはいる。ここまではだれにもご納得いただけるところ。

師「春章」の一時を頂いたのも束の間、自然の法則あるいは万物の「基礎」に目を向けて「宗理」と名乗る期間がしばらくがあった。そして名の変遷は急に熱いものへと傾斜し、「狂」も「熱」も、そしておそらくは、究極を意味するらしい「一」という方向へ走ってゆく。「基本」から「デフォルメ」へのシフト、「常道から情動へ」のシフト。

名を画風の象徴とするならば、(頁主の尊敬しない)ピカソと同じような画風の変遷を個体発生的な変貌のステップとして踏んだものかとも思われる。

そして、北斗星を戴くなどどいう由々しい号を思いを及ぼした結果、その転回点にこそ、北斎と妙見様との「徹底的な対話・懇談・或はディベート」があったのではないか、と頁主は憶測に至ったのであるが、いかが。

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男道ばなし(11)

藤田五郎のふたつのこだわり

改名の由来@

(2001.11.2)

 

この画面で藤田五郎というと、かの「男が咲かす死に花は花なら赤い彼岸花」を主題とする「拳銃無頼」の主人公・緑川五郎の同名モデルを思いされるむきもあろうが、ここでの同名氏は新撰組副長助勤齋藤一のことである。藤田五郎は、最後の藤田五郎に至るまで齋藤一を含めて4度名を変えている。

1844年(弘化元年)に生まれた時の名は山口一という。明石藩足軽の家だが、父が旗本株を買い江戸に住んだのだそうだ。気と喧嘩は生来強かったらしく、小石川に住んでいたころ、鞘当からからんできた無頼旗本を抜き打ちに斬り、その仇討ちをかわすために京都に逐電する。

出奔先の京都で苗字のみを変えるこの時が19歳。変えて、齋藤一。同年新撰組に応募、副長助勤、三番隊長として鳴らす。沖田総司、永倉新八らと共に最強といわれる。何故齋藤かは知る由もないが、世を忍ぶ変名であれば「よくある名」を使うというのいうのが常套だろう。

鳥羽伏見で敗れ、下総流山で近藤勇を失ったあと土方歳三らと会津に入る。土方負傷の間は新撰組120人を隊長として率い奮戦。当時、会津藩は新政府との和解を視野に入れた政策をとっており、援軍には変名を求めていた。その要望を容れて、山口次郎と名乗る。これは本名プラス1という発想で何とも判りやすい。

会津開城に際して北へ向う土方に対して山口は会津公を裏切れぬとして袂を分かち、藩に残留。鶴ヶ城開城後も抗戦するが、矢玉も精魂も尽きた9月に至り解兵に応諾。明治2年陸奥の地に会津藩の再興として与えられた斗南(となみ)藩に移って謹慎生活に入るが、この時に一戸伝八と改名する(25)。この名は居住地の三戸郡五戸村への土着を決意したに因むと思われる。だがよくよく1が好きなようで姓を一戸とする一方で、名を伝八としたのは3と5を加えたものか。

ちなみに斗南の地は当時の権大参事山川浩によって、次のように歌われている。

 

みちのくの斗南いかにと人問はば神代のままの国と答へよ

曲折の後、28歳にて旧会津藩士の娘と結婚。これを引き受けた媒酌人が何と松平祐堂(容保)であった。藤田五郎の名はこのときの新生を祝して容堂が与えたという。そしてこの名が大正4年78歳まで終生使われることになる。

人生の方はその後、尊敬する会津軍の先輩、鬼官こと佐川官兵衛に引かれて警視局警部補となり600人の副指揮官として西南戦争に参加し、宿縁の薩摩兵と交戦。積年の鬱積を「目にも見よ」とばかりに剣に訴えたものか。

逆賊といわれた会津への徹底忠誠した者がその精強ぶりにより(ここが榎本武揚とちがうところ)中央の任官につながる珍しいケースだが、会津へのこだわりと、自己の存在を綴りあわせるような数字へのこだわりにこそ、彼の粘着的本性を見るように頁主は思うのだが、いかが。

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男道ばなし(10)

男伊達のネーミング

(2001..21)

 

幡随院長兵衛死後4年、江戸幕府は町奴らの猖厥に終止符をうつべく、承応3年11月に火付盗賊改に、かの海老責め拷問のクリエーターといわれる辣腕無比の旗本中山勘解由直盛を起用して、男伊達の200人余の掃蕩作戦を展開、町奴の幹部33人が一掃された事件は本シリーズでも前に触れたが、その町奴中の「大物」の名が三田村鳶魚の著作で紹介されている。

もとより、江戸時代の町奴の存在価値は「男伊達」、その「男伊達」といえばつまるところ「自己主張」そのもの。その「自己主張」を「ネーミング」から窺って見ると面白い。切ないまでの自己規定が垣間見える。その、33名を頁主は「名乗りの心持」によって分類してみた。

〔威勢のよいもの〕大たん者又三郎、曽我の五郎、そがの十郎、跡見ず左源太、赤銅惣五郎、町野百、百里惣兵衛

 「大胆者」「跡見ず」と見得を切る心持は格別だったろう。「百」は本名が絡むかとも思われるが、一方で「大きさ」を誇ったものか。

〔乱暴を衒うもの〕消炭五兵衛、たたき勘兵衛、釘抜権左衛門、かぶき四次郎、ふとの五兵衛、鼠火弥五兵衛、鉄玉弥兵衛。

 怒りやすいのが「消炭」、しつこいのが「鼠(花)火」など洒落を含む。さらに「釘抜」は指の力自慢、「傾き」者、肝が「太の」とは見得そのもの。

〔流れ者を自嘲するもの〕浮雲又衛門、さき行次郎八、うつつ市郎兵衛、夢の一郎兵衛、枕十兵衛、葉流小六、どだん弥五太夫。

そこはかとない「哀愁」がある。浮世を仮寝とする思いからだろうか。「どだん」は、今は「どたん」と読んでしまうが正しくは「どだん」という筈の「土壇場(首切り場)」から採っている。この辺は開き直り。

〔道化で逆に衒うもの〕てれつく喜兵衛、手ばな権左衛門、こせう飛平、あれの小兵衛、それの勘左衛門、おあぶらて文左衛門。

 このような名を被せるのをみると、道化にもひとつの衒いの美学とでいうものがあったのだろう。

〔本名らしいもの〕あまの六兵衛、松葉勘太郎、佐藤左平、木がの勘兵衛、大間九兵衛、金小六

これはこれ。

気づかれたかと思うのは、2人1対の名があることだ。いつもつるんでいたのだろう。たとえば、曽我の五郎とそがの十郎、うつつ市郎兵衛と夢の一郎兵衛。

ところで、鳶魚の著述では上記とは全く別の排列になっていたので、当初、「それの小兵衛」の意味がわからなかった。「逸れ野」などと思ったのだが。カップルということから見直すと「それの」は「あれの(勘左衛門)」の相棒だったのである。「荒れ野」ではなく。

ところで、もうひとつの、難解名・「おあぶらて」を頁主は「お脂掌」と読んでいる。

また、これのように名前を通じて自分をもてあそぶ「現代の例」はというと、頁主の知り合いに自称「男伊達もどき」の「俳人もどき」がいて、閏牙彦(うるふ きばひこ)などと名乗っているが、この辺の衒いは、いかが。

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男道ばなし(9)

腐れ外務官僚へのお手本にしたい板倉勝重

(2001.8.16)

 

 

広辞苑によればこうである。

板倉勝重(徳川家康の臣、伊賀守、駿府ならびに江戸町奉行、のち京都所司代)(15451624

本来税金である役所の金を、薄汚くも、かつ、心まずしくもちょろまかして、休日に女房子供に法外な飯をたっぷり食わせて、その席上で「パパが偉いからこんなことだってできるのよ」などという、はれんちなかみさんの前でトクトクとする外務官僚ががいたらこの上ない恥だと思うのだが、しんじつ、そういう手合いが居るらしいからあきれる。まあ、板倉さんは広辞苑の扱いを待つまでもなく、歴史上の働きは地味だが、その気骨は隆々。その仕事は公正無私だったと評判が高いという。

学校を出て任官早々に、みーはーTV番組(頁主も観てしまう弱みがあったが)に出て恥ずかしげもなく「国民は・・・(何様だ。わらわせるな!)」などと黄色い嘴とピーマン色の脳でほざくヒヨッコ官僚どもにも大いに勉強してもらいたいものだ。

京都所司代は、朝廷・西国大名との調整、五畿内の訴訟処理等、きわめて総合的にして厳密な対応の望まれるポスト、いわば京都大使であった。かつ、勝重の就任は16019月とあるからご存知、関ヶ原の丁度1年後である。当時駿府、江戸町奉行を経て、京都町奉行であった彼は推薦を受けたときは1千石、所司代は2万石というまぎれもない出世であった。

本多正信から任用の打診を受けた勝重の回答は「妻と相談してご返事したい」とのことであったという。信じられますか。今の家庭第一のひよひよビジネスマンじゃああるまいし。しかし、真意は次のようなものなのであった。

曰く「古来重責に着くものは身を滅ぼしやすい。縁故を縋ってくる者と女房の口出しがその主な原因であると思う。わしはそれを断ち切りたい。そなたが、口を出さぬと約束せねばこの話は断る」と。無論、よくできた女房殿は不得要領ながらも諾。「では行ってくる」といったその背中に、妻が「お袴が乱れております」と直そうとした途端、「今言ったばかりではないか」と激怒、その場に座り込んだという。

木下藤吉郎の功績の多くが「ねねさん」のヒントに負うような小説があるせいだろうか、一心同体気取りで夫の仕事に当然のごとく口を出す女や、従業員でない妻になにかれとなく会社の仕事の相談をする管理職もいるやに聞いている。「ねねさん」はともかく、あとの例は頁主の理解を超える。

無論、「内助の功」などとは悪しき封建時代のたわごとにすぎないと思うし、妻の家事分担への価値は頁主も理解しているつもりである。

だが、ほんとうとは思わないにしても、野球監督の女房が「采配に口を出しかねない」という事例や、あるいは、税金での私腹肥やしの場面で「女房が腕まくりして公私混同に猛然と参加する」ような現象は絶対におかしいと頁主は慨嘆するが、いかが。

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男道ばなし(8)

アイデンティファイ神:宮武外骨

(2001..7)

 

広辞苑によればこうである。

宮武外骨(名は亀に因みトボネとも読む)

歴史家、本名亀四郎。廃姓骸骨とも称。讃岐生れ。「滑稽新聞」などを発刊、政府批判・風刺により再三筆禍にあう。東大法学部の明治新聞雑誌文庫主任。著「筆禍史」「死刑類纂」「賭博史」など。(18671955

頁主の知るところによればこの記述には訂正が要る。ご当人は18歳の時に戸籍上の本名を「外骨」と改め「是本名也」の印鑑を併せ持っていたという説の方が正しそうであるので。或は、広辞苑は煩雑を避けて上記の表現をとったのかもしれない。

ついでながら、「トボネ」は広辞苑にないが、亀の形状とは全く一致している。このように「アイデンティファイ癖」は若い日に既に兆していたのである。

頁主がうなるのは彼がその「公器」ならぬ「私器」・「滑稽新聞」に施したキャッチコピーである。明治34年の創刊号(A4判、20頁、月2回刊)に載せた発刊の辞にあたる「贅六文学・本紙の主義」は次のとおりだったそうな。曰く、「哲学上理想主義」「政治上進歩主義」「経済上実利主義」「宗教上楽天主義」「編輯上遊び主義」「発行上金儲主義」ですと。

この後、不敬罪など編集方針への弾劾・お叱りを受けて立ち、自称も「贅六文学」から「野蛮文学」へと対応、さらに加撃されると今度は「肝癪文学」と言い換える。さらにこののち、趣旨貫徹のために「肝癪と色気」と改め、「天下独特の肝癪を経とし色気を緯とする。過激にして愛嬌あり」というコピーまで付したという。天晴れ、カウンターカルチャーを小領域ながら(無論、それで十分)形成しているのである。

こんなにもアイデンティティにこだわり続ける、いわば元祖であった。元祖を神と呼ぶのならばさしずめ「アイテンティファイ神しん」であろう。

「天下独特」と自称するなど、驕慢もここにきわまる。いいねえ。「過激にして愛嬌あり」とはそのまま「男道のきわめつけ」でもある。

この、「遊び」に徹した紙面は発刊から8年の後、その名も「自殺号」をもって幕を引くが、これは「私器」としてわがまま放題を尽した挙句の「陣払い」だったのであろう。

彼の発刊の辞の排列を見ても「真実を秘めた韜晦」が窺えるが、やはり、つぎつぎとかぶせ続けた「贅六」「野蛮」「肝癪」「過激にして愛嬌」というキャッチコピーの背後に頁主は「孤高の矜持」をありありと見るのだが、いかが。

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男道ばなし(7)

水野十郎左衛門v..幡随院長兵衛

(2001..7)

 

広辞苑によればこうである。

水野十郎左衛門

江戸初期の旗本奴の頭目。名は成之。1650(慶安3)父の遺領を継いだが、無頼の旗本を糾合、市中で不法の行いが多く、切腹を命ぜられた。幡随院長兵衛との喧嘩は有名。(〜1664

幡随院長兵衛

江戸時代初期の侠客。浅草花川戸に住み、町奴の頭領。水野十郎左衛門を首領とする旗本奴と争い殺された。没年は1650(慶安3)とも1657(明暦3)年ともいう。

喧嘩だけが全人生の実績という両者だが、「かぶき者」とあれば是非もなく、喧嘩の顛末が時代の正史「徳川実記」にとどめられるほどのものであったのは正に男冥利ともいえよう。ところで、両者の年齢は、水野の方は不明、長兵衛の方は生年が1622(元和8)ということになっており、明暦3年死亡説をとれば没年は35歳ということである。

両者の対立は江戸の三分の一を焼き、10万人の死者を出した明暦3年正月の大火のあと、多くの家屋が再建されはじめて労働者不足が起こるところから顕著になる。つまり労賃の高騰が人足を使う側の無役の旗本・水野と、口入れを営む長兵衛の対立を深めたのである。雇い主に対して発言力を強めようとする長兵衛の姿勢が対立をしんから深いものにする。そして血を見る喧嘩。最初に長兵衛側ついで水野側から各1名の死者が出る。これが7月、そしてその18日に長兵衛が殺害されることになる。

芝居の筋はさておき、「徳川実記」では長兵衛が水野邸に赴き、花街へ誘う長兵衛とそれを拒否する水野の押し問答の末、長兵衛が斬られたということである。

翌日、水野の届を受けた老中の裁定は、浪人相手の切り捨て御免、つまりは水野にお咎めなし。そして幕府はこれを機に口入れ屋を潰し、人足を低賃金に押さえこむ。

長兵衛側の仕返しをご存知だろうか。4年後に復讐計画が持ち上がるのだが、このときに幕府は全員を捕え、処刑している。

長兵衛の死から7年後、勤務不良で評定の席に呼ばれたときに、白装束で髪を金の水引で束ねたこと、さらに、切腹の折に介錯を拒否し、自らの腿に刀を突き立てて切れ味を確認したこと、さらに生前に白無垢に替え紋と称して虱を縫い付けたこと、等をみても「かぶき度」は格段に水野が上なのである。一方、長兵衛は剛胆さだけは超一流であるが、三田村鳶魚の随想や芝居の脚色で美化されたほかは、「かぶき度」は水野に一歩も二歩も譲るもののようである。もともと水野十郎左衛門の親仁殿という人が二代将軍秀忠の「はとこ」で、「かぶき者」のはしり、例の「鎌○奴(=かまわぬ)」の御仁であるからその外れぶりも筋金入りであったらしい。つまり、もともと肥前浪人の幡髄院長兵衛とは土台のハンディがあったのも致し方ない。

頁主にもそれなりに意地の張り合いのマネゴトはときおりあって、その都度、「オレは水野、あいつが長兵衛」と思っていたが、最近は「どうやらオレは長兵衛の方らしい」と思い始めた。伊達を押し通すより渋い侠気を漂わせざるをえなくなったのは多少年齢のせいと吐息をつくべきか、いかが。

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男道ばなし(6

ならず者の思慕

(2000..19)

 

久しぶりで会ったAneから得た話である。この年はChichiの7回忌、Hahaの3回忌に当る年でもある。その話題にはその時は触れず専ら清談を交わしていたのだが、ふと、こう言った。

さる新聞紙上に川柳の穴埋めクイズがあって、そのなかにこういうのがあったが、あなたは判るか、というのだ。

そして示された川柳とはこういうもので、この□に最適な語は何か、という問いであった。

 

母の□は親父の腕にしなび居り

 

どう考えても1音。「あ」から「ん」までをあてはめて見る。「毛」「目」「手」など、身体髪膚ことごとく当てはまらない。答えを聞いてぎょっとした。

 

母の名は親父の腕にしなび居り

というのだ。

生きのいい若衆が女に惚れた。しんそこ惚れたのでその名を腕に彫り上げた。その男は喧嘩も放蕩もしたが、仕事だってやる時はきっちりやった、のであろう。墨をほどこすからといって、即ならず者とはならないが、ここではそういうことにしておきたい。やがて若者は一途なままに、一緒になり、子を設け、そして、その妻にも死なれ、老境に至った。そして今や壮年となったその子が、その親父のしなび腕を通して、母を追慕し、かつ親父の若き日の色恋に思いをはせる。

凄い凝縮ですね、と恐れ入った。

 

あまり、わたくしが恐れ入るので、Aneがわたくしに恐れをなした。

「そんなに良い句なの」

「絶品です」

しかしだ。わたくしには、画龍点睛に見える。

 

母の名が親父の腕にしなび居り

 

こうした方が、お袋さまには悪いし、無論作り手の意図からは遠ざかるが、親父殿の哀愁がいちだんと募るようになると思われるが、いかが。

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男道ばなし(5)

熟考したことがない人は困る

(2000..2)

 

「広辞苑」によればこうである。

坂本竜馬

幕末の志士。名は直柔(なおなり)。土佐藩士。土佐勤皇党に加盟。江戸に出て勝海舟に入門、航海術を学び、長崎に商社を設立(のち、海援隊に発展)。西郷・小松・木戸らと計り薩長連合を策し、大政奉還に尽力。京都の近江屋で中岡慎太郎共に幕府見廻組に殺害。変名才谷梅太郎。(1835〜1867)

久坂玄瑞

幕末の志士。長州藩士。字は実甫。号、江月斎。吉田松陰の妹婿。兵学を松陰に洋学を藩校に学ぶ。尊王攘夷を唱え、1864年(元冶1)兵を率いて京都に入り、蛤御門(はまぐりごもん)の変に会津、薩摩の兵と戦い負傷、自殺。(1840〜1864)

どうしても好きになれない人物がいる。わたくしには坂本竜馬という人である。むろんわたくしは情報源としては「司馬遼太郎」以上のものをもたないし、多くの竜馬党だっておそらく殆どが司馬氏によっていること思う。条件はあまり違わない。

たしかに、仕上げたことがらは、史上に大きな価値をもっている。だから、偉いにちがいないし、ファンがいてもよい。しかし、どうにも好きになれない。よく気取った人々が「生理的に嫌い」というが、もともと好悪は「生理的」なものであるから、「生理的に嫌い」というのは、馬から落馬する、というほどみっともないのだけれど、まあ、それは良い。

しかし、ここではその嫌いを「論理的」にいうと、どうやら、わたくしの竜馬像では決定的に「思考」が欠けているのである。恐らくは、司馬氏の著述に信を置くにしても、生涯一度も「考え抜いたことがない」人なのではないかと思えてならないのだ。

あまりにも、思考速度の速い人間は考えていないように見えるとか、「大賢は愚に似たり」とかいうが、どうも竜馬さんはちがうのである。何かをちょっと聞き込むと「ああそうだそうだそうだ」とばかりにそれを無邪気に実行してしまうのではないか。実は、よく似た人物がもう一人いる。 

その名は、ご同郷の岡田以蔵。この人はさすがに広辞苑には登場しない。だが、他者の言をすなおに飲みこんで、ためらわず実行するもののようだ。行動力が生命線であるのなら、職能の差こそあれ行動様式は同じだったのではないか。だが、考え抜かない行動には、責任がなく、責任がない限り功績は大きくはないのである。むしろ、功績者はそう導いた人なのではないか。

対極を挙げるならば久坂玄瑞である。この人は史料が少ないらしいが、少なくとも「熟考」と「行動」と「誠意」を3つながら感じさせる人物である。

最近、「生れてから一度も熟考した事のないような人」が「重任」を「重任」しているように(別にM総理とは言っていませんよ)大いに思うので、敢えて、人気抜群の人物にけちをつけてみた。

結論的に男道には「考え抜く責任感」が必須だと思うがいかが。

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男道ばなし(4)

侠客の詠草

(2000.5.20)

 

 

天の事知らぬ我が身にあらねども義理の綱断つ剣持たねば

 

「わたしも世の中の情勢を知らないわけではありませんが、義理の綱を断つ剣を持ちませんので」一代の男が、意のままにならない苦衷を決然と告げたいきさつは以下の通りである。

作者は幕末の侠客で十代目観音寺久左衛門こと松宮雄次郎という。この歌を詠んだ時点で彼は43歳、画は師について学び、書も能くする文化的側面も併せ持ちあわせながら北越戊辰戦争を自己流で生きた人物であるといわれる。越後は弥彦近くの観音寺村に住み、上州から信州一円にかけて子分を1000人以上も擁した。1万石の兵力を100人と見れば10万石に値する勢力ということになる。

ところで、観音寺村は与板藩に属する。与板藩2万石は譜代ばりばりの井伊家でありながら、佐幕離脱を目論んでいた。松宮は博徒稼業は将軍家あってのものであるとの信念から当然佐幕に傾く。ときに北越は奥羽列藩同盟に会津藩も加わって佐幕優位。そうでありながらも、いや、そうであるが故に、地縁の深い「弱者」与板藩を見ると、義侠心から肩入れをせざるを得ない気持ちに松宮はなってゆくのだった。

戊辰戦争はやがて次第次第に西軍優位の色が濃くなってくる。松宮の配下は命知らずを買われて、その名も「特攻組」を結成して死に急ぐ。

さて、形成逆転してこんどは優位に立った与板藩は世話になった松宮を死なせるにしのびず、勤皇への寝返りを勧める。「今来れば悪いようにはしない」という次第。このとき、松宮は冒頭の歌を返すのである。

この「持たねば」の「ねば」に男の強い「意志」を見るのである。「知」より「意」なんですよ。「算」でなく「散」。男一代名は末代。判りやすい歌である。

このあと、転変を経たのち、松宮は明治6年に畳の上で48歳の生涯を閉じる。

それにしても、2万石を「弱き」と見立てて肩入れした気概は「抜山蓋世」に近いと思のであるがいかが。

参考:中島欣也(戊辰任侠録)

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男道ばなし(3)

塚原ト伝V.S.輪島功一

(2000.4.22)

 

 

起こしに来た者がいたのでつい先日、夜中にTVの輪島功一を見ていた。相変わらずの軽妙さで、種々の行動について回顧談を自注的に語っていた。ちなみに、輪島はわたくしが唯一か少なくとも随一に愛したボクサーである。彼の行動の華といえば、それこそ枚挙にいとまがないが、最たるものはあの「カエル跳び」に尽きる。この行為を相手に「何だこいつは。ボクシングを冒涜するのか」思わせ、つまるところ怒りに追いこむという心理作戦でもあったのだと述懐していた。

当節に真剣勝負なるものがあるとすれば、わたくしは躊躇なくプロボクシングのタイトルマッチを挙げる。世に選手権試合は多いが、わが空手道選手権を例にとっても、実際には毎年ある程度限定された対戦相手同士の切磋琢磨の感があるし、何年も何年も同一人が王者になる柔道など、どうみても「境涯一度きり」という真剣勝負とは見えにくい。たとえば、K1・大相撲も、もし、負けたら引退という一回性があればもっと形も変わってこようものを。

連戦の面白さも一方にあるが、種目によりけりで、武蔵対巌流の対戦成績が武蔵の3勝26敗などというのでは興ざめではないか。だから、境涯一度(辰吉のような例もあるがそれでも数度だ)というとどうしても、今のところボクシングのタイトルマッチになってしまうのである。

ところで、強い兵法者の代表格である塚原ト伝の真剣勝負デビューは17歳とされている。ト伝は次男であったため鹿島神宮の新官職である伯父の塚原家に入り、家伝の「鹿島神道流」を学び腕を上げてゆくことになる。

もともと鹿島神宮は東国に配せられる防人を対象とするトレーニングセンターであったので、周辺地域の武術は栄え、戦国期には既に「鹿島七流」が存在し「神道流」はその代表格であったという。一方、京には「京八流」があり、「鞍馬流」をその代表格とする。

当時新右衛門という名であったト伝は流名を上げるニーズもあって、この鞍馬流の使い手落合虎右衛門と対戦することになる。将軍、管領の目前、場所は清水寺境内であったとされる。

新右衛門は必勝でなければならない。そして、勝つ。その勝敗の経緯は残されていない。そこで、津本陽氏はその方策について、今なお残る「必殺の嵌め手」を使ったのではないかと推測するが、その技とはなんと「カエル跳び」なのである。

具体的に示せば、まず敵の頭上に激しい左片手撃ちを加える。当然、敵はその刀身を受け止めるが、間髪を入れず、膝を折ってしゃがみこみ、防備ががら空きになった敵の喉を突き上げるというものである。

繰り返し使えば間違いなくリベンジを受ける技法だが初対面ではまずこれを喰らうであろう。

彼はこのあと修行を重ね千日参篭して「一の太刀」を開眼し、「鹿島新当流」と命名する。「一の太刀」は、間合いの取り方に工夫こそあるものの、真っ向から撃ち下ろす極めて正統的な技である。多くの門弟を持つときにコワザは有効でないと判断したものであろう。

対手の前で大きくしゃがみこむことは、いずれにせよ、大きな賭けである。ただの一度の勝負にその大きな賭けを取り込む気風のよさは美しい。そして、ある程度勝利を確信した計算づくの「賭け」よりも、対手の自尊心を揺さぶろうとする「賭け」の方を頁主はより美しいと思う。なぜなら、対手の「自尊心」を揺さぶるのは当方の「自尊心」だろうとおもうのであるが、いかが。

参考:津本陽(百舌と雀鷹えっさい

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男道ばなし(2)

将門の首が引寄せた千代田城

(2000.2.26)

 

頁主は、茨城県北相馬郡守谷町というところに住んで3年になる。「北相馬」というと多くの人に「福島県ですか」といわれる。不思議だ。

ところでこの「守谷町」は一説にいうと「古都」なのである。平将門が「平新皇」に祭りあげられてから、恰度、項羽が劉邦に連戦連勝のあと、初めて屈したと同じような形で、平貞盛・藤原秀郷連合軍に奇跡的に敗れるまでの3月の間に、宮城を作るのである。完成したとは考えにくいが着工はされていただろうと見るのが妥当のようだ。後世、御用学者が「欺宮」と呼ぶのがこれだ。その宮城はあわれにも「京」を模したとされ、小貝川を琵琶湖に見立てたのは定説だが、その他はわからず、現在の茨城のあそこここが比定されてきている。

その一説は「守谷」をあげる。母方の出身地だという説もあるから。

少年の頃から義仲をのみ愛していたので、将門は見向きもしなかったが、「将門記」のほか「日本乱史」や童門冬ニ、吉川英治の小説を介するとその多くが将門の「侠気」に触れている。当然関心が深まる。

頼られれば肩入れするというのは、侠気のない権力者にも見られる行動様式だが、自分の不利に働く肩入れができるかどうかは「侠気の有無」(「知能の高低」? それは論外)の識別に使われてもよいだろう。それに類する事象は多い。

将門は大らかにかれこれを迎えたとされる。兇徒も来たが被抑圧集団も来た。反骨、解放、勢い、驕り、それぞれあったろうが、いまなお、武将とされる人物で同時に「侠気」を伝えられる人物はまことに少ない。当然だ。ちょっとでも権力が身につくと、すぐ保身に走り、「侠気」を「凶器」と勘違いして証拠隠滅のようにひそかに捨てる惰弱の徒輩はそこいらのへなちょこ管理職をみればぞろぞろぞろぞろいる。上ほどひどいじゃぁねえか。

ところで頁主は大手町に通っている。東京大手町の1−1−1にかのM物産があり、敷地内に将門の首塚がある。京に晒された首が、リベンジを企図し胴体を求めて飛んだが遂に武蔵野で力尽きて落ちたのが当地だというのだ。伝説の起こりは古かろうが、江戸時代になって腑抜けのサラリーマン武士しか見ていなかった江戸っ子に、将門の侠気はうけたのだといわれる。神田明神に祀られていく社会心理もうなずける。

朝よく拝ませて頂く。男道を踏み外さないために。やはりそれらしい御仁が朝の忙しいのに立ち寄っておられる。敬意。中にはM社の受注祈願もあるというのだが、まあ氏子の商道なら致し方ないか。

某日、やはり同社の体育会と思しい面々が塚の前で拍手を打っておられる。ははあ、墓前でなく神前というお考え。さすが。

ところで、大手町1−1−1は大手門の正にまん前。かの首は実はその後に霊力を回復し、花も実もある太田道灌に憑依して、何年かの後に一時期「宮城」と呼ばれる千代田城を造営させたのだ確信するにいたった。将門研究歴の浅い頁主にはこのような話が既にあるものかどうか知らないが、いまのところ広く流布されている話ではないと思われる。いかが。

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男道ばなし(1)

唐獅子牡丹v..昭和残侠伝にみる改作の罪

(2000.1.15)

 

「唐獅子牡丹」は1960年代に流行った東映映画「昭和残侠伝」の主題歌と思われている。それはほんとうは正しくないのだ。しかるに、わたくしが「昭和残侠伝」を唄うと「替え歌ダナ」という声が必ず聞こえる。つまり、多くの人はほんとうの元歌を知らずにいるのである。

今の言い方でお判りのように、ふたつの歌は、実際には逆の形で「元歌」と「替え歌」の関係にある。映画館では無論、ビデオでも歌の題名は「昭和残侠伝」。これをレコード会社が広く世に送り出すときに、詞を「補作」して「唐獅子牡丹」と題名も変更したのである。事情は両者の歌詞を読み比べれば、なんとなく判る。見ていただこうか。

「昭和残侠伝」           「唐獅子牡丹」

 

エンコ(浅草公園)生まれの浅草育ち     義理と人情を秤にかけりゃ

やくざ風情といわれていても        義理が重たい男の世界

ドスが怖くて渡世はできぬ         幼馴染の観音さまにゃ

しょば(所場)がいのちの男だて       俺の心はお見通し

背中で吼えてる唐獅子牡丹         背中で吼えてる唐獅子牡丹

 

親に貰った大事な肌を           親の意見を承知で拗ねて

墨で汚して白刃の下で           曲りくねった六区の風よ

積り重ねた不幸の数を           積り重ねた不幸の数を

なんと詫びようかおふくろに        なんと詫びようかおふくろに

背中で泣いてる唐獅子牡丹         背中で泣いてる唐獅子牡丹

 

白を黒だと言わせることも         朧月でも隅田の水に

どうせ畳じゃ死ねないことも        昔ながらの濁らぬ光

承知のやくざな稼業          やがて夜明けのくるそれまでは

何でいまさら悔いはない          意地で支える夢ひとつ

ろくでなしよと夜風がわらう        背中で呼んでる唐獅子牡丹

 

流れ流れの旅寝の空で

義理に絡んだ白刃の仁義

ばかなやつだとわらってみても

胸に刻んだ面影は

わすれらりょうか唐獅子牡丹

 

「残侠伝」の詞は作曲同様水城一狼氏(ついでながらこのお人の氏名は映画の字幕にもでてくる)、「唐獅子」の詞は作詞の大ベテラン矢野亮氏のものである。元歌は「やくざ」「ドス」「墨」「白刃」「畳じゃ死ねない」等々物騒であるので、映画館から飛び出すに際して行儀よくしたものだろうか。

矢野氏の「補作」という、原作者には失礼な言い方のプロセスをへて、「物騒語」は消え、詩情めいたものが台頭してきた。このなかでは、「義理と人情」「観音様」「夢」がそのキーワードになってきている。

一方で、元歌の特質は逆説調である。「〜いても」「〜みても」という優れて口語的な逆説口調がなんとも説得に富み、親しみやすい。そうよ。ここがいいのだ。

長くなるので結論に駆け込むが、「残侠伝」の花田秀次郎の本質は「やせがまん」の挙句の「散り急ぎ」にある。がまんがまんのプロセスはこの手の筋立ての必須要素だが、もうひとつ、序破急の序を踏まえているとも見て取れる。

要するに、「観音様に救われること」や「夜明け」は待たない。他力には期待しない。こらえて他日を待つのでなく、自己を「ばか」「ろくでなし」と規定して、「今」「ここ」「われ」とばかり、刺し違えを念頭に散り急ぎに走る本質は、実に、正に、うたがいなく、正真正銘の男だてなのだ。極小の武装で、散り際の時機に動くことに価値がある。(もっとも結果は、風間重吉のような加勢があって助っ人は死ぬが当人は生き残るという奇跡が続くけれど。)

要はここのところの死を辞さないという行動様式を基本的に外した「補作」は拒否に値すると考えるのですが、いかが。

蛇足

短詩形への添削はなおこわい。自身の推敲だってあぶないあぶない。

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