歌詠みの俳句読み

★☆

8ンナップ

(その1)久保純夫氏の出題をめぐって(2006.7.23

(その2)「ぶるうまりん」のスタンス(2006.7.28

(その3)ふたたび、マンゴーを読む(2006.7.30

(その4)未定「特別作品」泉史氏の《煙突と輪転機》を読む(2006.8.14

(その5)『光芒創刊号の質量(2006.8.22

(その6)ぶるうまりん4号田中悦子氏の《ニ十五時》を読む(2006.9.27

(その7)光芒3号柿本多映氏の《秋風》を読む(2006.11.26

(その8)光芒4号 森澤程氏の《『インディゴ・ブルー』自選20句》を読む(2007.3.15


■玉門関 □武馬久仁裕句集

2010.9.1 ふらんす堂

 

現代俳句の鬼才、ぶま・くにひろ氏初の《俳句紀行》である。

句と散文を織り交ぜての工夫の境地であるが、ここでは句のみを引く。

以下はその意味では「陸のみあって海のない地図」の恨みがある。

 

沙州とは全ての星の降るところ

星降る夜硬貨五枚を地に落とす

 

戈壁砂漠或る夜烈しく飛天堕ち

彼の女舌翻す戈壁砂漠

 

蝋梅密かに惹かれている私

偶像となった魯迅に狼狽し

 

玉門関月は俄に欠けて出る

 

昼顔がひそひそひそと誣告する

忠烈祠炎天軍靴雅語飛天

 

パイナップル爆弾のようないやらしさ

マンゴスチン食べて眺めて久保純夫

 

薺咲く道に来て故意に恋する

ボヘミアの離れ離れの雲に乗る

 

先頭から2句ずつは相前後して配されている。

明らかに2句カプリングの志向がある。

沙州(敦煌)での、戈壁(ゴビ)での大自然との抱擁、ロウバイの遊びもいわば旅心。

7句目以降で従来本来の境地が滲み出るようだ。

本来のゾリストが紀行文とのコンチェルトを奏するごとし。

このあたりは別項でゆるりと述べたい思いが強い。

武馬さんは『雑技団』等のメンバー、本集は『獏の来る道』に次ぐ第3句集である。

 


 

(その9)ぶるうまりん6号 杉山あけみ氏の『乱反射』を読む(2007.7.7

乱反射×乱反射―思惟の光線をわたくしが乱反射する

 

【作品】

01頭骸こじあけられている蝉時雨

02シーソーの均衡へ黒揚羽かな

03白玉のつるり平均寿命なる

04便箋の余白は余白敗戦日

05空箱の底に眼のある野分晴

06大厄日無事やファーブル昆虫記

07白露今日YS11型機飛ぶ

08百二十ヘクトパスカル小鳥来る

09すいと鳴く夜の脚立とヘルメット

10蓑虫の垂れレゴリスの乱反射

11秋計る10スムートと耳ひとつ

12そう言えば少し猫背やホツケ焼く

13冬に入るレントゲン車のモスグリーン

14鴉どこまでも漆黒御講凪

15音立てて玉葱腐る憂国忌

16手がかりは血痕竃猫みじろぐ

17月曜のアリバイポインセチア買う

18ミステリー仕立てのっペい汁すする

19したたかに引きあう磁力大枯野

20極月の皆透明になりたがる

21枯はちすテラの単位の記憶量

22近火かなペットボトルの不安定

23仙台の曲がり葱このていたちく

24狐火や指にざらめの二三粒

25熱燗の手酌つくづく縹色

26氷壁の垂直もしかして奇数

27時雨華やげり右手に醤油差し

28冬眠の銃創どこまでも透明

29いつせいに桑解け無声音のT

30発端はヤコブの家系笹鳴けり

 

0

知の勝った、思惟の結晶と思しい一連を楽しみつつ拝誦した。率直はわたくしの習いにつき、不調法はお許し願いたい。

杉山さんの一連には、《意味と視覚》の合成することを要請されている気分になるものが少なからずある。

《意味と視覚》といわずに、《筋書きと挿絵》、《論旨とイメージ》と呼んでもよかろう。作者側からすると《誘いと呈示》なのだろう。

わたくしの関心は、『前言語状態のものを言語に運ぶとき、俳句の作家はというより杉山さんはどういう思考をだどるのだろうか』という点にある。この先、少しばかり、微細な解体を手がける野暮はご寛恕いただきたい。大昔、日本の家電メーカーは米国メーカー製の冷蔵庫を解体してその設計技術・製造技術を考察したことでもある。ただ、こうすると、その理解はそれなりにあったという。

01から04は本編の導入であり、前項の形態がかなり明瞭である。

01頭骸こじあけられている蝉時雨

⇒冒頭は、導入のための山門のようでもあり、蝉時雨の音量の圧倒性を契機として、芭蕉をもちらつかせる野晒しの趣向でいざなう。

02シーソーの均衡へ黒揚羽かな

⇒シーソーの均衡と地上最も比重の小さそうな生物の対比で、バランスというものの微妙さを問う形が提示されている。

03白玉のつるり平均寿命なる

⇒白玉という均質性の追求の産物ともいえる菓子をガイド役として『平均寿命』という

何とも空しくして意義深そうに見えるものと引き合わされる。

俳句では結句までの奥行きが字数的に短いから、導入から気付きまでが瞬時に起こる。

この流れは、言ってみれば《頓悟》に近い。されば、杉山さんのこの作品でわれらは《引導》を受けているのであろう。

かくして、冒頭3句、われらは、およそ頷きつつ序の舞を鑑賞するのである。

この先もこれまでの形で11句のわたくしのおさらいにお付合い頂く気はない。次は大きな初句の話です。

01を、わたくしは、頭骸こじ/あけられている/蝉時雨 とぎこちなく区切るが

14鴉どこ/までも漆黒/御講凪

27時雨華/やげり右手に/醤油差し

という句が別にある。

このことは、杉山さんは、時に初句を重くして初速を上げ、その加速度で2陣3陣を抜く《疾風の術》も行使するのである。

さて。別項でわたくしは杉山さんの作品から本編で最も愛する作品として次の3句を引いた。

20極月の皆透明になりたがる

25熱燗の手酌つくづく縹色

29いつせいに桑解け無声音のT

これらに相通ずるのは《万象を総括する》冴え冴えとした世界がたまらなかったのである。歌ではあり得ない境地。

20では、空気の冴え、落葉、その他人事まで年末に収斂する気配がある。

『皆透明になりたがる』は力強く治まっている。

29も似た境地。『桑解け』には手許の小歳時記では追随し切れないが、

桑の葉の解け落ちた後であれば、幹の黒々、恰もYかT。これに着眼して発音と引っ掛ける。

かつ、風は蕭々の風情もろとも万象を総括する。

25は景こそ小ぶりだが、『熱燗の手酌』には大きな一日の人生が集合されている。それを、

一括、『縹色』と喝破している。

以上、心酔の弁。

あとは、解体解析から、すこしばかり付言したい。

歌会ではしばしば、『この歌の意味の判る方説明して下さい』とあるので、歌会なりせば、という観点からでもある。

05空箱の底に眼のある野分晴

⇒『眼』は穴だが、穴ながらも世界を見る主体としては侮りがたい。なお、眼は野分の縁語たりうる。

10蓑虫の垂れレゴリスの乱反射

⇒蓑虫の殻を『レゴリス=惑星表面等にある堆積物』と見たてた呈示。

おそらく、敢えて野晒しから導いた一連であるので、

杉山ジェットコースターが『ファーブル昆虫記』『YS11型機』『ヘクトパスカル』と傾斜を深め、

一気に『レゴリス』『スムート』へと突入する。かつ、この作品は標題となる作品。

たしかに、あのもぞもぞ、ががさがさと、嘗て誰が『レゴリス』と見立てただろうか。しかも、乱反射の特性まで。

11秋計る10スムートと耳ひとつ

⇒飛球をバックして追いかける楽しみに似た作業が未知の語の検索だ。『スムート』は長さの単位、

それもローカルな話して、余り背の高くない某大学の学生の身長を以て1スムートと称するそうである。

作品のミソは150メートル位の大きさに数センチのものを加えるオカシみであるが、

やはりきちんと体の部位を収めているあたりに杉山さんの面目が光る。

次のピークとしては、後半にミステリアス系が居並ぶ。

16手がかりは血痕竃猫みじろぐ

17月曜のアリバイポインセチア買う

18ミステリー仕立てのっペい汁すする

杉山さんの薬籠にある語彙については知る由もないが、空に開く花火の如く8方いや64方に広がり、色もさまざまである。

19したたかに引きあう磁力大枯野

21枯はちすテラの単位の記憶量

これら、時空の偉大性をさらりと呈示せれるのは、俳句の力か、杉山さんの特性か極めて今後も友としたい一連である。


(その8)光芒4号 森澤程氏の《『インディゴ・ブルー』自選20句》を読む(2007.3.15

短歌の社会で、読み手と書き手のコラボレーションに待たねばならぬ作品が出てきている現象を大変、頼もしいことだ思っている。

《誰にでも正しく読まれることが前提の意味の通る歌》は、「読み手は凡俗である」と決めていた大昔ならいざ知らず、

現代短歌としては、いささか、おふやけではないか、とわたくしは比較的強く思っているのである。

無論、今日現在も、「わかり易さを専一に」を目指す人々が絶対多数であるが、

そういういう人たちはわたくしとは道を同じくしない人々であると整理している。

これに対し、私の見る俳句は、少なからず《言語のオブジェ》的な趣きがあり、

多くの俳句作家もまた読み手とのコラボレーション、いやいや、もっと進めて《力較べ》を前提としているのではないかと思われる。

そんな、『歌詠みの俳句読み』である。

森澤さんの句は、(a)瞬間を急定着したもの、(b)丁寧に読み手をいざなうもの、(c)読み手の対峙をあおるもの、

という少なくとも3つながらの傾向があるように思われる。

入学やきのうは長く船に乗り

前記(c)に当たる句;

『入学』に端を発して『きのう』『船』を起用する。

こういう作法はわたくしの中では《神的な感覚》に属する。意味を追うてはいけないか。

でも、追った末に、《緊張の前の弛緩》、《本番の前の準備》にわたくしは行き着いていた。

菜の花やここまで来るとみな女

(c)的な(b);

《男が脱落する種族》との前提があるようだ。『菜の花』は《平穏》《境涯》《鄙》の喩。

よって、女の里の平穏、ひいては女であることの矜持が漂ってくる。

三人に道狭くなり夕桜

(c);

これは珍しく意味的追随を許してくれる。道幅が山が深くなるにつれ細くなる。

桜も近づいてくる。

夜の駅男らに梅雨終わるらし

(c);

梅雨期の終わりのスナップショット。畳まれた傘を持ち歩く男たちが見える。

『らし』は男と女の、違った、女と男の《結界》か。

短夜の回転椅子にもう一人

(b)的な(c);

ここにもひとり、月の客。『回転椅子』は《思案》の喩。

夜明けには帰つていたる素足かな

(b);

同居の相棒が帰ってきた。

寝具から飛び出した『素足』に、伴侶であろうか、その持ち主への親しみが見える。

ひとりずつ改札機ぬけ原爆忌

(b)的な(a)

;無機質、機械的に、人為の重大な日との対比。追随を可能にするスナップ。

蓮池の深さを想うペダルかな

(b)

自転車をペダルを踏み下げる拍子から池の深さを思う同期性の妙。絶好。

蓮根に脚のイメージが重なる。

蜘蛛の糸みずうみはもう溢れそう

(b);

『蜘蛛の糸』は雨の見立て。

ひらたい水際を描ききった。句の叙景ははるかに暴力的だ。主犯は『もう』。

どの靴も苦しきかたち蝉時雨

(b);

凡俗は人の営為の跡を《足跡》に求めるが、森澤さんは、《靴自体》に求めている。

新規性が光る。『苦しきかたち』は言い過ぎたかに見えるが、これがなければ読めないだろうなあ。

男には言わず西瓜の抱心地

(a);

『西瓜』の『抱き心地』とは即ち自身の『抱き心地』。

作用反作用の法則。弾性などがテーマ。つまるところは《女性の矜持》。

花火屑触れ合いながら落ちにけり

(a);

燃え殻の捩れるさまの写生。すげえ。

八月の空よりはずす梯子かな

(a)   的で(c)的な最終的な(c);

(b)   奇想天外。洋画の手法を薬籠から取り出している。

老いてゆく舌が西瓜の種を吐き

(b);

『舌』が『老いる』は、ぞっとさせられる新規性。種子を探るのは『舌』の高度技術に違いない。

永き夜の用なき紐となりにけり

(c)的な(b)的な(c);

『夜』の『紐』。いくつかの想定に引き込まれる。

孤絶とも妄念とも。作者の実像がわかれば勢いがつくのだが。

活けられて一夜過ぎたる藤袴

(b)的な(a);

一見したものが心中の何かを呼び覚ますことがある。

「あら、この花もこの家になじんだんだ」といった感覚であろう。

追体験可能な気分の描写とも読める。昨秋は鉢の『藤袴』を毎日見ていたわたくしであった。

日常と非日常なる葱きざむ

(b);

《思惟》の対象が《葱》。対象と主体が一致する、西田幾太郎さんに近い境地。

木の瘤に冬の一日はじまれり

(a);

朝日が斜めから『木の瘤』に当たる。瞬間の収穫。

着膨れて肉屋の秤みつめおり

(b);

《風袋》という観念。そこから、《中身》が陰画としてぬっと浮かび上がる。

いつよりか棚をはみ出し鉄の鍋

(a)

《さざれ石》伝説のように、『鉄の鍋』も徐々に巨大化するのだ。

ここはかりは《女性の疎外感》。これには拙者も得心して御座る。

ここでやはり、(b)と(c)、或いは(a)と(b)or(c)の相関について、

《(c)的》と《恣意的》の連想思いつつ、述べねばなるまい。

ただし、これは森澤さんの心中にないしは脳中に忍び込む行動なのであるが。

写生はもとより俳句の根底であろうから、(a)は基本だ。

しかしながら、「生を写す」となると、感覚・思弁の余地が入ってくる。

思い切って「論理は普遍、感覚は個別」と言い切ると、

コンセプト、思弁等は普遍に傾き、テイストは個別に傾くだろう。

無論、ここでは、思弁傾向を(b)、感覚傾向を(c)に近づけて書いているのだが。

ここで、自分の大命題と本一連をつなげてしゃべる気はない。

ただ、森澤さんの仕事を見てこのあたりに意識の深い作家なのではないかと思った次第なのである。

(b)と(c)の渾然不分離。20句だけでも楽しい。

 


  (その7)光芒3号柿本多映氏の《秋風》を読む(2006.11.26

 

「光芒」の3号には2人の同人外寄稿各10句がある。

先ずは、柿本多映さんの《秋風》から

 

二百二十日棹を担いでゆかずとも@

天象のでんでん虫を呼び入れるA

烏賊とけて水母がとけて詔B

敗戦日水の秘めをる黄色かなC

どうしても記憶が曲がる蝉の穴D

身体を回せば桔梗ひらきけりE

峠では薄目をあける黒揚羽F

頭蓋骨淋しからねど通草割れG

YASUMASA触つてゆくよ幽霊はH

ヒトヲケシマタ秋風ニナツイテユクI

 

【余韻】の限度

二百二十日棹を担いでゆかずとも@

短歌的余韻というのは作者が責任を負う余韻であると思うが、

この句はそれ以上に余韻の主体が読み手に委譲されているように見える。

わたくしはこの句の後に作者の指定どおりに《よいのに》を補う。

となると次に、《主語》を考える。ふたつある。

それは、第1節を副詞句と読むか、主部と採るかに依存する。

前者であれば、《二百十日になにもわざわざ棹を担いで釣にゆかなくとも》という

人事の作になり、

後者であれば、《二百十日という存在がわたくしを通り過ぎてゆく。

しかも、ものものしく棹まで担いで》という、心象句となる。

後者は、すこしムリだと思うが、俳句ではありうると思う次第。

 

【大戦】批評

この一連には大戦への批評が伴奏となっている。

烏賊とけて水母がとけて詔B

敗戦日水の秘めをる黄色かなC

どうしても記憶が曲がる蝉の穴D

Bでは詔勅の《呪詛性や絡め取る粘着性》とその餌食となった《海中の異類》の呈示。

Cでは《黄色》をどさりと呈示して『敗戦日』と取り合わせ呈示。

Dは終戦時記憶の喩の呈示。

と採りたい。いずれも『押し付けざる呈示』である。

ここでは前項以上に作者の主体性が顔を見せている。

こうなると次の1句には何の解説も要らないことがわかる。

ヒトヲケシマタ秋風ニナツイテユクI

 

【動き】と小体とそれを引き出すもの

天象のでんでん虫を呼び入れるA

身体を回せば桔梗ひらきけりE

峠では薄目をあける黒揚羽F

シロウトらしく告白しよう。

こういう歌は好きである。

それぞれに、重苦しさを負わされた作りであるが、機知がギラリと見える。

抜きかけた刀身のような。

自身のでんでん虫への、或いはその喩に堪える事象への、ふとした気づき。A

自己のふとした心身の動きを契機とした桔梗への新鮮な気づき。E

黒揚羽にも心の動きがあるのであろうという思惟。F

 

これらをことばでなぞっても、言語を多少いじっても、下句をつけても

歌にはなり得ない境地、領域であるのだ。

 

【異界】への通路

頭蓋骨淋しからねど通草割れG

YASUMASA触つてゆくよ幽霊はH

 

或いは、先の《大戦》の延長線上、或いは圏内に位置づけうるだろうがここまで来れば異界。

Gも日常語展開は不要。

Hは作者のご友人か安倍の保正か。

 

これも歌でやると損ねそうな素材である。

 


 

(その6)ぶるうまりん4号田中悦子氏の《ニ十五時》を読む(2006.9.27

「ぶるうまりん」の4号は須藤徹さんの第三句集『荒野抄』の批評特集号である。

抄出を見ても大いにそそられる句集であるが、

各論客がそれぞれに、自説展開。

読み方の参考にはなったがこれでは、とても口を出せたものではない。

よって、その次に位置する田中さんの作をゆるゆる拝読する。

 

先ず、間違いなさそうなのことは俳句作品は《完全燃焼系》であるいうことだ。

巻等エッセイで須藤徹さんが芭蕉の『依所一筋に思ふべからず』を

『俳諧を制作するその精神である「俳意」をワンパターンにしてはいけない』とし

理論展開のひとつの脚にしているが、

これは「俳意」によって一句がたちどころにに《丸焼け》になるよいうことを懸念したものだろうかと読んだ。

 

田中さんの作品もすぐれて完全燃焼的である。

一気に火柱となり周囲を亜圧倒する。

最たるものは次の2句。

三島忌や過去という消し難きものA

寒の海まったき色もて人拒むH

わたくしがよく見る歌の世界だと、

これらの後に《であるから》か《でるのに》をつけて

《上句と下句の咬み合わせ》にあれこれを講ずるのである。

これ推敲といい技巧と呼ぶ。

かつ、あれこれ講ずるためには、このパートが完全燃焼すると具合が悪いので

火加減を調節する方が短歌的技巧になじみ易い問い言うこともあるだろう。

是非ではない。プロパティの違いなのである。

 

詩的領域にあるものに手を染めておれば

まず、《前言語状態》の情動やら知性があって

それを言語化するときに意を用いることはただ一つ。

ジャンルジャンルの己の信ずる《プロパティ》にあてはまるように仕上げて行くのだ。

これを瞬時にコントロールするのは誠に豊富な暗黙知であるのだろうが。

 

さて、ここで、作品の川を渡りましょう。

 

大樹一本千の小鳥を飛び翔たす@

三島忌や過去という消し難きものA

透明な声の身に入む女優の死B

火星接近地上に降りた青聖樹C

冬の街青色ダイオード流れ出すD

ふるさとの冬だるまさんがころんだE

クリスマス光の海の逃亡者F

冬の川原風景を死者流れG

寒の海まったき色もて人拒むH

寒病棟暗き迷路に父捨つるI

寒の水掬うたび指熱くなるJ

寒晴れやたましい研がれガラス展K

寒紅の濃きは罪とも人見舞うL

春燈泣き目のピエロ売られけりM

春の夜の扉を開く二十五時N

裸婦描く少女の指や春の雪O

身に潜むけものの臭い春の闇P

囀りやのちの目覚め促せりQ

永き日のいびつに暮れてビル解体R

囀りや百の鳥語を聴き分けよS

 

さて、さて、シロウトの物言いは分類から始まります。

わたくしにはこの一連はベースが視覚聴覚嗅覚に基づく描写にあり

それが少しずつ描写から離陸する状態を得てゆくように見えるのである。

 

【描写】が鮮明であるもの

大樹一本千の小鳥を飛び翔たす@

冬の街青色ダイオード流れ出すD

寒晴れやたましい研がれガラス展K

絵画です。同じ描写でも@Dの動的な感覚は短歌の成し難い域である。

Kは歌でもやるところ。但し、こんなにきりりとは行かないけれども。

 

【描写】に【心的ベクトル】の働くもの

クリスマス光の海の逃亡者F

冬の川原風景を死者流れG

寒病棟暗き迷路に父捨つるI

寒の水掬うたび指熱くなるJ

春燈泣き目のピエロ売られけりM

身に潜むけものの臭い春の闇P

囀りやのちの目覚め促せりQ

永き日のいびつに暮れてビル解体R

描写に価値観をぽん!と盛り込む。

大方は批評の眼。シャリ(=描写の土台)に載せるネタ(=価値観)のようだ。

このケースの中でより叙情にちかいものは、視覚でなく、聴覚・嗅覚によるもののように見える。

 

【心眼】での【描写】

これまでを《皮膚》の喩えれば、最初の群が《表皮》次のものが《真皮》というところか。

その奥にあるのは筋肉ということになる。

 

透明な声の身に入む女優の死B

火星接近地上に降りた青聖樹C

ふるさとの冬だるまさんがころんだE

寒紅の濃きは罪とも人見舞うL

春の夜の扉を開く二十五時N

裸婦描く少女の指や春の雪O

囀りや百の鳥語を聴き分けよS

 

ここでは此の世のものは、見聞嗅できるものは、全て希釈化されている。

半眼を閉じた《心眼》に近いかも知れない。

一首の純粋経験のエキスといおうか。

ともかく、ここでこの方向性がばらけているのに一驚する。

《依所》が一筋ではないのである。

 

俳句と歌のプロパティの差にちょこまか触れているうちに長々しくなった。

時を改めて再考したい。


(その5)『光芒』創刊号の質量(2006.8.22

しばらく、創刊号を携えてあちらこちらであれこれしていた。そこで、いくつか書きたいことが像を結びはじめている。

この号には《招待作品》として2家の各10句がある。

刻刻と刻刻刻と年の暮れ  和田悟朗

『大道芸人』なる一連から。

ああ、句の短さをさらに縮める手法があったか。

むろん「あかあかや」とか「ははははは」とか戯れ歌もあるけれど

この方は正気で句の範囲を圧搾している。内圧の高まりもいかばかりか。

こちらの方には深刻に近い重圧感が看て取れる。

 

梅の昼鋏に鈴の蘇る  宇多喜代子

『梅』という一連。

聴覚で極めてある。

無論、鈴の音と鋏の音の違いは織り込み済みだろう。

こちらも饒舌を謹んだ風、気品と呼ぶべきであろう。

 

さて、同人各位は、一見してさまざま。恰も四色の四神のごとし。

むろん、初見の諸賢につき傾向を述べる浅はかを自戒せぬではない。

しかし、素直に、単純に思うところは膨らんでいる。

それをグラスにあけてみたいのである。

無論、連作であるからその一連の作意はあるし、それがその作家の常日頃のものなのか

本編固有のものなのかわからないところもある。

また、書き手のリクツにあったものだけ挙げて評文をかざることだってできる。

しかし、わたくしは、それをやらない。というより、やる必要がない。

何のことはない。楽しみのために書いているのだから。

☆☆☆

いきなりの身体髪膚水漬くらし@  久保純夫

鉄兜いずこも同じ夕闇のA 

木の股を確かめているかの帝B 

久保さんのこの『熱帯・煉獄篇』は往時の大戦・愚戦へのコメントであることは

読み重ねるにつれはっきりしてきた。久保さんのイマジメーションの豊かさも読むごとに理解できてきた。

読むにつれわたくしの視点が《ロング》になってきたので、1か月前に読み泥んだところが

心頭に定着したのである。

かわって、ひとつ見えてきた。

久保さんは、二箇所に《和歌》を埋め込んでいるのである。

野暮を野暮に書けば、@はスコール×大伴家持(この×は‘掛ける’と読んでください)

そして、一連でも並べて書いてあるAは西行の百人一首の作。

何となく、和歌-短歌-天皇制、などという図式が走って消える。

Bは天皇の自省を意味するのだろう。『木の股』は冷血漢の産道であるから

「朕はここから生まれたのものか」となるようにわたくしは読んでかしこまるが。

久保さんは総合的論理構築の人であろうか。

 

いっしんになりゆく月のうさぎかなC  森澤程

水槽の一匹愛す雪の原D 

森澤さんは、句の核心を定めていて、それに肉付けをする工程を持つ作家のように見える。

CもDも同じように主役の『うさぎ』や『一匹』がこの句の中にはまって動き出すではないか。

この例示に限らず、多くの作品についてこれは言える。

いま、「動き出す」と書いたが、これは作者の凝視あってのこと、

動き出すまで見つめる作家なのであろうとお見受けする。

 

プール出づ最も重き足二本E  岡田耕治

夏草のすぐそこにある眼かなF 

岡田さんの作品は一句の完結性が高い。潔癖な作家なのであろう。

字面からは明らかではないが、おそらく作家自身の足であり、眼であろう。

その、足や眼が明確に語られている。

であるから、ここまで語られると「何故重いのか」「何故すぐそこなのか」と読み手は考えさせられる。

そして、読み手は、結局、《人の存在》、つまり、「人間には体温がある」とか

「人間には生活がある」とかそういうところに行き着くであろう。

そしていう。「そうだよな」と。

 

母子草から暮れてゆくユーラシアG  高橋修宏

黙秘する桜の中の桜の木H 

これは間違いないであろう。

高橋さんは初句に重点を置く作風の実践者である。

プロベースボールでは有能な一番打者を《核弾頭》と呼ぶ何とも奇妙な言い回しがあるが、ここではそうはいうまい。

高橋さんの句はその大半において優秀な《リードオフマン》に率いられているのである。

鮮やかな一撃のあと、その句は恰も飛翔するがごとし。

すなわち、Gは絞り込まれた起点、Hは主人公の役柄の先取りである。


(その4)未定「特別作品」泉史氏の《煙突と輪転機》を読む(2006.8.14

『未定』の86号はずっとわたくしに待たれていた。1年有余の沈黙の後に手にした1冊は何やら懐かしい。

両号にまたがる齋藤愼爾氏と川名大氏の意見相互披瀝(論争とか争論とかいうよりもこう呼びたい)も

興味深く注意深く読み比べたりもした。とにかく熱い。

いろいろな作家作品を読み、さまざま述べてみたい考えがあるが、先ずは巻頭の泉史氏の掲題の20首について。

 

わたくしが俳句を好むのは、かつ、短歌より30年先を行っているというのは

(実際には、短歌は俳句より30年遅れている、というのだが)

その刺激が強大だからである。

 

大きく言えば、刺激にふた流れがある。

その一は、無理なく《共感》、つまり《腑に落ちるもの》と

その二は《驚感》つまり《肝を消されるもの》とのふた流れである。

 

摂津幸彦にささげる、と付されていることを標題と考え合わせればそれは明白に《もの書き(或いは印刷業の方)の死》が主題と判る。

 

蒼空を死後も稲妻彩どれる

夕三日月捨てしかがやき船にあり

硬質の愛惜が確認できる。喩も追尾できる。

 

戯れ経てテーブル千の音出せり

定型の傘撒き散らし西洋刃物

ともに音数も破調、起用される語も破格。

故人の作風・人柄が投影されている。

 

これらは、正に、《よく腑に落ちる》哀悼句である。

号泣も落涙も表に出さない、わたくしには《俳句らしく》見える。

 

さて、

桐一葉瞼をつかむ女の指

水かきに処女の骨ある天の川

女性と親交のあったかの在りし日の姿をこのような字句の起用で表されることには

やはり、ぎょっと、《肝を消され》かかる。

 

いずれにせよ、この流れで泉さんの俳句業の強靭さを手ごたえ十分に享受した次第。

 

最後の句はさらにもう少し飛んでいる。

 

ガウディの眼を鋸で挽き万年青の実

万年青の実に《異才》を想起する。或いは《異才》を追うて万年青に至る。

その《異》はガウディの建物のように峻険なのであろう。

かつ、「鋸で挽く」は親しく掌に取ることの美称。と野暮ながらわたくしは本句に接近している。

「作家と読み手のコラボにより短詩形は完成する」と念ずる歌詠みの野暮な深情けの接近である。


(その3)ふたたび、マンゴーを読む(2006.7.30

この1週間、ずうっと「マンゴー」の句を考えていた。

挙句、スタンスを転換することにした。どうやら《南洋文脈》の解明に囚われすぎたていた気もするので。

そこでまず、一連の中でこの句の位置づけ、意味づけへの洞察志向を緩め、

久保さんの世界という観念を分析から遠ざけたのである。

無論、章題の『熱帯・煉獄篇』を念頭に唯一おくことにして。即ち、一個の素材として。

そこで、マンゴーを凝視する。

http://pharm.u-shizuoka-ken.ac.jp/~yakusou/BOTANY/B_GARDEN/PICT_LINK/mangou.htm

 

マンゴーのように手足を縛られて

 

手足を縛られた状態というのはつまりは「人間としての尊厳」を完全に奪われた状態である。

知、情、意すべてわがものでなく、六根も同様である。

ここで起こる疑問は、先ず、「これは誰なのか」

ついで、「そして(縛られて)どうなのか」をどう埋めて読むかということであろう。

 

マンゴーを見ていたらほろりとダルマが思い起こされた

くだらん塾があろうことか数学の例題さえ「暗記物」におとしめてから

リクツは判らなくても出題に適う答えが書けるようになり、

解けない問題に対して「ダルマ」の絵を回答として描く美風も廃れたかに聞く。

マンゴーはダルマを髣髴させる。

ここでダルマを再度想起すれば、「縛られた状態」というのが何やら幾分か観念的な領域のものに見えてくる。

戦時下の思想統制に組み込まれた《皇軍》の一兵卒の心魂を

追体験しているように見えてきた。

それならどうなのか。《全くもってどうしようもない》ということなのであろう。

 

それでは、章題なしの、独立1句だったら?

ただ、この論は《場》を無視するので対象作家によっては無意味な仮定になることも無論ある。

 

それを敢えて侵せば。

主語は作者自身。そして、所属する社会・組織の枠組みの統制を受けている自己の凝視の句ということになる。

ただ、こう読むと、この核の中に《反発心・抵抗心》の芽が読み手の中に芽生えてくるが

戦時下として読むと《諦観》しか出てこない構造となり、書かれていない部分の作用が全く違ったものになってくる。

句の襞をはからずも身近に撫でた思いが残った。

 

ベアトリーチェの手引きにより煉獄を見た詩人もいるようだが、

久保さんの手引きにより、投げ出された事物を観察させて頂いたようである。


(その2)「ぶるうまりん」のスタンス(2006.7.28

 

もうひとつのご神体は「ぶるうまりん」である。第2号から4号を手にしつつ逍遥遊を起こさばやと存じ候。

2005年7月刊の第2号に「ぶるうまりん俳句会」が誕生して2年近くが経過したとある。

編集・発行人須藤徹氏、編集チーフ田中悦子氏

《ぶるうまりん宣言》なることあげは極めて明快さに打ち出されている。

     清冽な叙情と静謐な向日性を目指す磨き上げられた個性

     日常性を越える眼差しと鋭い誌的ジャンプ力

     ジャンル外の芸術、思想等を摂取できる豊かな知性と感性

 

ここではもっぱら作品にからんでみたい。

春の蠅けむりのように猫に狎れ 須藤徹

「けむりのように」の起用、通常こういう場面に被せない「狎れ」の奇矯さが楽しい。

マヌカンを根こそぎ脱がせ長き夜 田中悦子

「ねこそぎ」は強固、「長き夜」の据えは空恐ろしい。

 

カルタ取りだんだんけものになってきた 平佐和子

秋・・・どうして私がいるのだろう 山田千里

天高くぺけっとツナの缶開ける 杉山あけみ

雑煮喰う切れなが目んたま皆似てる 末永こるり

口語脈には一様にべたつきがなく、洞察的因子が漂う。

 

冬青空現れるはずのエリア 村木まゆみ @

切り花のしづかさ春愁水底 土江香子 A

なまえなくした合鍵のかたち 野谷真治 B

さらにスペースを狭くする性向を持つ句群。わたくしはそれぞれに必要物を補填する。

作者はひとしく、それぞれの句の主体を注入増量せよといっているのだ。

つまり、@には今見えていない「青空」を、Aにはさらなる春愁を、Bはなまえの主体たる「自分性」を。

diy的な読みを求められているようにわたくしには見える。

 

いつも吠える犬め死んだか冬の月 渡辺隆夫

俳句の無頼脈は愛するところ。無頼の決まりやすい詩形だ。

水面下鴨の脚朱くひらひら 成川寒苦

これも無頼、加えて、韜晦・自尊を嗅いでいる。

夏日追ふ高度一○○○○時速一○○○ 西野洋司

大柄を視覚で支えようという趣向。

いつか行く暁の空走る 井東泉

一連冒頭の「いつか行く夜空の向こう雪が降る」を見れば《死》の暗示と取れる。 


(その1)久保純夫氏の出題をめぐって(2006.7.23

0.はじまるまえに

このサイトを開くときには、わたくしとって《俳句》は必須であると考えた。「俳句に比べ短歌は30年後れている」ことを危惧する歌詠みとして、また、俳句のよき摂取者として、サイトで触れながら、自ら愉しみ、また短歌関係諸姉諸兄の閲覧に供しよう考えていたのである。

そしてこの間いくつかの卓越した句集にも触れて、俳句もしくは俳句作家の優越性に慄然としたものである。これによって、わたくしの俳句好きも昂じた。

爾来7年、どうもわたくしのサイトの俳句の項は貧弱を極め、佳品の一部を備えつつも客観的に見て、読み応えの乏しさは覆うべくもなかった。

この間、わたくしは、幸運を願い、そしてそれが叶えられた。つまり、一転、幸運なことに、本日はわたくしの両手に、気鋭の2誌がある。『光芒』の創刊号と第2号、そして『ぶるうまりん』の第2号から第4号である。

まずまず奥深く分け入らばやと存じ候、という次第である。

1.光芒の輪郭

『光芒』は季刊にて、《俳句と批評誌》と号する。創刊は2006.3.10、発行は光芒の会、発行人は久保純夫氏、編集人は高橋修宏氏、かつこの時の同人は森澤程氏、岡田耕治氏である。無論これに数名の寄稿執筆者が加わる。冒頭に創刊の辞があり、「この詩型はあらゆる文芸のなかでももっとも先鋭的なところがあります」「あらゆる桎梏から離れ、なにものにも臆することなく、自由、奔放、大胆、そして緻密に」などとある。前項については『異議なし』を、後項については『宜う候』を申し上げたい。

2.久保純夫『熱帯・煉獄篇』20句を読もうとするが

創刊号には久保純夫氏が溢れかえっている。先ず、@題記の同人作品、そしてA特集が久保純夫句集『光悦』であったこれに7氏が寄稿、さらにB著者の『光悦』自選20句とCエッセイ『光悦』の周辺、加えてD特別作品「サンクチュアリ」116句、さいごにE現代俳句時評「〈もの〉進化論」である。

 わたくしは、短歌とは「読み手の書き手のコラボレーション」であると信じるゆえ、俳句も同様と考える。久保さんの時評も、《師系》をめぐる考察のあとで、〈もの〉には溢れんばかりの情報が填まっていて、ものには事物の変化やら累積された文化やら、読み手の経験やら、社会状況やらの要素が重層・複合するゆえ、過去に比して途徹もない存在となっており、それが呈示されるというところから、俳句は最も過激で先鋭的な表現方法を持つ、としている。

 言わんとするところは似ているが、わたくしは、「言い回しの加減から読み手と書き手の呼吸が成立する」と考えるのに対して久保さんのものは「もっと即〈物〉的」であるのだ。いみじくも詩型の差が出たとも言える。

さて、題に戻って正直に書こう。まず、

第1句 熱帯の濡れ髪の夜を立ち尽くし

については、わたくしの語感を頼りにいわんとするところに迫り、それが可能であるかに見えるが、

第2句 おおきみやアジアの端に腐れゆき

に触れると、途端に60年あまり前の南方の戦線につれてゆかれ、《腐れ》の状態の吟味がはじまる。同時に《腐れ》の主体は何であろうかとの思案も始めなければならなくなる。

さらに2句読み進めると先に触れた時評の最後の行で「あなたはこの句をどのように解釈・鑑賞しますか」と設問のあった次の句がそそり立つのである。つまり、次の作。

マンゴーのように手足を縛られて 

恐らく、久保さんのサイドに「作者の想定物」以外を不正解とするつもりのないことは文脈から察せられる。ただし、作者が意図した方向へ読者が多少なりとも歩を動かさなければ、責任がどちらかにあるかは別にして、俳句という詩型を利用できなかった、という意味で惨たる失敗なのであろう。その意味ではコラボというのと本質的な変わりはない。

    しかし、ここでは踵を返すことにする。なぜなら、ここで挙げた句は、いわば、久保さんの《汗》という物質なのである。汗であるならば、食べたもの、飲んだものを調べるくらいの準備は必要であろうから、出直そうと思う。幸いにも、句集をめぐる評論が前後にあるのだから。

    さらに、わすれてはいけないヒントがあった。先の時評に宣言があったのである。『しかし、私たちは知っている。前衛が一瞬のちに後衛化する現象を』と。

以上