新刊歌集/歌書Cores

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新刊歌集から

蛇足ながら抄出歌は著者の得意分野を引いているとは限らない。むしろ、頁主との共感度に因っている。

活気ある歌集に関する情報を切望します。頁主までMAILください。

⇒2000〜2003年刊行歌集

⇒2004年刊行歌集

⇒2005年刊行歌集

⇒2006.7年刊行歌集


額という聖域―斎藤史の歌百首(寺島博子)2008.12.22〔不識書院〕

2009.7.12

寺島さんの博覧ぶりは凄絶ですらある。

同一作歌の100首を対象とする評論なので

本来であれば自己の知見の掘り下げやすい形態のはずであるが

数多くの前例に触れている。

たとえば、書名である次の一首の考察にあたっては文化人類学者山口昌男の論考を引く。

 

額の上に一輪の花置かれしをわが世のことと思ひ居たりし(魚歌)

 

ここで寺島さんは山口さんの

「選ばれるためには常人と同じであってはならない」キーに論考を絞る。

結果、

「額は銃殺刑の狙撃対象であること」に着目し

同作品の発表された2年後、昭和15年の『新風十人』に見える次の歌を以て

冒頭の作品の額を

「青年将校の命を絶った場所であり、史にとって心眼を開く尊い場所であった」として

《聖域》と位置づけたのである。

 

天皇陛下万歳と云ひしかるのちおのが額を正に狙はしむ

 

無論、この1首に関する著述はここからが転回点となる。

2・26事件の栗原中尉の言辞に触れ、塚本邦夫の論述を受けて

寺島さんの結論に到達するのである。

考察もさることながら全編を通じて引用される齋藤史の作品数もまた膨大である。

つまり、史の手がかりを得たい初心者やかなりの史の愛好家にとってみてもそれぞれ

《楽しめる》研究書となるとであろう。

寺島さんは『朔日』の同人、初の評論集であるが

歌集に『未生』『白を着る』がある。

 


呑・舞 dont mind(大山敏夫)2008.12.16〔短歌新聞社〕

2009.5.9

 

男歌の創作技術は天与のものだからこれはひとえに天寵に由来する。

だから書き手は少なく、殊更に気を入れて読む人は更に少ない。

大山敏夫(こういう場合にかぎりさんはつけない)を読むさえその部分を

はずして読む人が多いのではないかと懸念する。

だが、本サイトではそうはいかねえ。

酒の歌、というより酔いの歌から。

悲しいけど清酒の味の解らない大山敏夫を赦してくれよ

でも、しかし、だつて、けれども、その後は言ふな折角の酒だ呑まうよ

胃に悪いビールとけふも聞き来しが構はず呑みて胃壁を洗ふ

空想が好きで浮き上がる感覚も得られて酒を呑んで寝転ぶ

大山さんが点描する男性性の構成要件に着目する。

懶惰よし爆発またよし。自分も他者も。

うーむ、沈黙もある。

ごろ寝の場合ではない目覚めよと言ふごとく四度(よたび)電話が鳴りぬ

破滅又は自爆型だと囁かれゐし日よ十分吾若かりき

負けん気の強さは歌に現われて言の端々に出でき懐かし

このところ怒つてばかりと俺を言ふ結局解つちやない人の声

絞りたる藍染の上に立てられて縄文の壺は男そのもの

日常詠はしばしば素っ気ない。

しかしこの「サスペンデッド」の状態をわたくしは共有しやすい。

皇太子妃出産のニュースに沸くゆふべ谷塚斎場の君に逢ひにゆく

またこんなに伸びたと指をかざしつつ爪切探す週に一度は

万葉に「呂」の多くしてわが好む「呂」といふは背骨連なる形

次の両首には逆に「未発語の意思」が読み取れよう。

「ドンマイ」と叫びわなわな震へゐしかの日の四肢を笑つてゐたり

「今」実力が発揮できねば解雇さるかういふ厳しさが欲しわが工場(こうぢやう)

いつしか黒き夜となる窓のそと降つてゐる雨の音しみわたる

大山さんは「冬雷」の編集責任者、

その『なほ走るべし』に続く7番目の歌集である。


夾竹桃と葱坊主(内藤明)2008.12.25〔六花書林〕

(2009.5.7)

 

真摯の斧の一閃のもと、

詩的閃光が走り、健全な精神が醸す熟成の風合いが全編を流れる。

内藤さんのこの歌集にはそういう風貌がある。

まずはゆるやかな力作から。

食卓に茄子とゴーヤと皿があり写生されたるかたちのままに

わたつみに照り翳りする午後の陽を身籠りし人と遠くみてゐき

そうはいいつつも、潔癖な人柄のなせるところか、自他の歪み、不備、欠損を掘り下げる視線には深いものがある。

宿酔の(あした)ベンチに見上げゐる雲のまなかにわれは寝転ぶ

ウィルスが内より侵せし桃の葉を一枚一枚手に収めゆく

チェロ抱え横たふわれをふるはせて地より湧き来る無伴奏組曲

上記の視線は世俗とのこすれから来る心の痛手にふれて増幅される。

圧巻。

脊柱に突き刺さりたる鉄鏃(てつぞく)の錆びてうつすら(あけ)を滲ま

きりきりとわが粘膜に(さや)り来る季節の穂先、文明の棘

機械打壊(ラツダイト)の記憶を残す石の斧探さんとしてWWW(ウェツブ)に入る

これぞわが怒りのこゑとおぼされよ二度とは言はぬ二度とは言へぬ

にんにくを丸ごと食ひし翌朝の胃の腑のごとき怒りといはむ

手遊びは沈思の副産物である。そのときの歌から。

針金を伸ばし縮めていぢめをり卓上に今クリップはなし

考へてゐるにはあらず偏屈なぐい呑み一つてのひらに在り

《現代》への問いかけは内藤さんにあっては日常のことのようで、

そしてそれはいつもストレートである。

(ナウ)ならず(シン)にあらざり土塊(つちくれ)の「世紀末の卵」に亀裂走れり

なかぞらにぴんと張つたる一本の綱あるごとし朝を出づれば

箱あれば箱の形に身をなして猫の渡世にや刃物は要らぬ

そして回想の視線。

もういいよ、言はれて開く両の目にいくつ(よぎ)りぬわが影法師

以上、この《精神のパノラマ》は内藤明さんの第4歌集。内藤さんは「音短歌会」の重鎮である。


星の夜(森水晶)2008.12.24〔ながらみ書房〕

2009.5.5

 

ひとつの思いを挺身的に提示する歌集は当今見当たらない。

森水晶さんは果敢にそれを実行している。

まずはご一瞥を。

幾人(いくたり)かの愛人のなかきわだちて澄みし目をもつ君を選べり

愛人を複数もつという表現は歌集の存在とぬきさしならぬものにする。

この一首があればあとは読者はパレードに圧倒されるばかりとなる。

無論、本著を閉じる読者も森さんは想定しているだろう。

挺身とはそういうことであろうから。

眠る君の若き体の傍らに在ることの不思議に甘く息苦し

夫ありと告げしも君はただ薄く微笑み浮かべ花みておりぬ

綿シャツをはだけしままに背を向けて石投ぐる君のうつくしき若さ

わが罪を子供のために目つぶりて許すと言いし夫を蔑む

赦せば有頂天拒めば仏頂面諳んぜる詩のひとつもなきに

髪を撫づる少年に倦み想うのは僕の先輩≠ニう美青年

君こそはさがし求めしわが(カルマ)°ケ高まりて涙流るる

ダイヤよりうつくしきものを捧げんと心臓にそと手をおくひとよ 

若き汗哀しく匂う胸にもたれてミサ曲のごとき蝉の声きく

罪深きは恋ではなくて愛のなき夫とわれとが暮らしおること

『業』『罪』も見え隠れするが基本線は愛人たちとの日々。

なお、その殆どを直球勝負で全うしていることにわたくしには賛同する。

さて、上記一連の終章のような位置づけの作品。

人妻を恋すと詠みし万葉の歌碑をみつむる人妻のわれ

歩み来てつめたい車に乗りこめばフロントガラスに星星の降る

無論、徹頭徹尾、上記の作品ばかりではない。

ぴしりと決められた構図や日常のスケッチもあふれている。
金色の檸檬の雫したたりてドライジンなる海にたゆたう

空よりかすべり落ちくるビロードの黒きリボンの夜の来にけり

麻を着た初老の紳士は薄青き新聞ひろげる初夏のベンチに

森水晶さんは「響短歌会」「月光の会」のメンバー。その第1歌集である。

が、本著の姉妹編とも言うべき創作性の高い私家版「アウトロー」がある。

本著を一人称の物語として読むべきか否かの疑義にとらわれる

読者は是非実物の「星の夜」に当たられたい。


古谷智子歌集=現代短歌文庫(古谷智子)2008.12.18〔砂子屋書房〕

2009.5.5

 

古谷智子さんのこれまで集大成の歌集。第1歌集は完本。

あらためて、古谷さんの作品を俯瞰するとその多彩さが目を射る。

『神の痛みの神学のオブリガード』より

まなこふとそらされたことも記憶してひとはみずから哀傷を得む

かの辻で必ず君が見返るをまさびしきまで疑はずゐる

絶海の孤島に群るる海雀言葉を病むはこころ病むゆゑ

原宿に群るる少女ら無秩序の無頼に生るるヒロインはあり

ここでわたくしは《心裡の影》に目をとどめさせられた。特に3首、4首目の彫りの深さに。

『ロビンソンの羊』より

野の花を摘みきてやらな稚児地蔵の黙坐の列に射す晩夏光

天蓋の桜花のもとに踊りゐるいづれも老いたる背の花あかり

馬の脚 蜥蝪の前肢 鳥の翼 鯨胸びれ 文字書く双手

億年の時流れゆく映像に一つ(くが)より陸分かたるる

ここでは観察眼。無論、見えざるものに及ぶ観察眼。

『オルガノン』より

突きすすむローカル列車秋の野の紫苑ほほけしその奥処まで

ここにして人待つ時間の流れにも心に沿ひて干満のあり

まつはれるソバージュの髪一息にかきあげて首打たれてもよし

押し殺す<笑ひ>の深き奈落よりこの世の秘事はたちのぼり見ゆ

ここでは、凄みが見える。自己投影でもある。、

『ガリバーの庭』より

白波のギャザーまとへるき小陸地二百余島を香港といふ

ゆっくりと天地熟れゆく気配して栗の大樹をこぼれくる鳥

少し泣きてそれより崩るることはなし母は小さき砦となりて

高層のビルの窓外みつしりと闇あり闇をむさぼりて見つ

観察はさらに踊って《定義》にさえ肉薄する。ほぼ古谷哲学である。

むろん、哲学といっても、くだらない理屈倒れという意味ではない。

古谷さんは「中部短歌」メンバー。本編は「ガリバーの庭」に継ぐ第5歌集である。


 

改命(大津仁昭)2008.11.25〔邑書林〕

(2009.5.3)

恐ろしさをたたえた歌集だ。

自分をこの世の営みの埒外においている視線が際立つ。

のっけから《空の始》まりを扱い、《過去世》を視野に入れる。

 

天蓋のモザイク一つ抜け落ちてそこより空が始まりし頃

窓ごとに過去世(かこぜ)のあかり運びゆく夜の高架を渡れる列車

この世のものでもあの世のものでもない、言ってしまえば

大津さんの詩精神に存在する《もの》の提示はわたくしには身近に感ぜられる。

 

ケミストリ反応式の右辺より新薬「涼しい死後」の晶出

足のみを彼岸の川に浸すから霊滲みて夏の夜も涼しき

非公開陳列棚の古楽器を避暑地となして小人らの夏

臓器みな植物ならば晩秋は身内(みぬち)色づきこころ紛らす

時絶ゆる太陽系に拍手せむ地下に生まれし(はね)もつ種族

ときには可憐な(とは言い切れないが一応)作品もちらつくが。

 

あらたまの年のここちはさて措きて降り初めし雪は天使百人

大津さんの目は形象と同時に本質を穿つ。詩人の目である。

女性が無常の本質をあらわし、チェリーの発育を葉桜に見出し、

身近なものが体を離れた瞬間に過去世のものと結束することを見逃さない。

 

石道を白のスカートすべり来し夏 肉体の在処は問はぬ

葉桜は染め戻されて花盛りさても幼き暴君潜む

あやまちてサングラス落つ 沿石と馴染みもとより遺跡のごとし

畏敬を抱きつつ読み進んだ。

現在が過去と折り重なっていることを確認する視線に。

 

透き通るはつなつの詩よ ペン先にインク途絶えし後の軌跡に

生ありし獣の呼吸ありありと机上に切れたる皮製ベルト

帰天者は住みにし星をなつかしみ地球以外も秋の夕暮れ

秋立ちぬ わが敗走の必然をやがて錦の風に隠さむ

あとがきは述懐にとどまり自己紹介らしきものは見えないが

大津仁昭さんはEsの所属、イメージングのバイブルこと『爬虫の王子』につぐ第7歌集である。


Floating Here and There(岡本育代)2008.11.17〔角川書店〕

(2009.4.8)

副題は《第五歌集『流れ流れて』抄録》とある。

かつ、《ANTHOLOGY》とある。

つまり、自作の英訳版という位置づけである。

 

流れきてまた流さるる人の世は見えぬ力に背押され生く

I floated

and I floated again

as if my back was pushed

By a power I couldt see

・・・・・Im now in grief of life

英訳に際して《grief》が出てくる。こういうところに

自ら訳す妙味があるのだろう。

岡本さんは心理詠の訳もお得意のようだ。

人生は闇を分けゆく船なりや岩礁あまた見え隠れする

is life a ship

sailing in darkness?

many rocks

were seen on and off

ahead of the ship

日々の描写が本領であろう。以下続々。

間借りとて行動半径狭き日々小窓を空けて深呼吸する

in a tiny house for rent

the daily life

a narrow range of activities

opening a small window

I take a deep breath

 

冷え切りし心の底にほのぼのと入り来し春よ 満作(わら)

Oh spring !

to come

e into my shivering heart

heartwarmingly

・・・・・witch-hazels came out

 

灼熱の砂漠に立てるピラミッドその稜線に陽は落ち暮るる

the pyramids

standing in the burning desert!

the sun sets over the ridge line

and darkness comes

after sunset

 

壁白く屋根は茶色の町並みを縫いつつ川は滔々と流る

weaved together

a row of hours

with white walls

and drown roofs

a river is flowing swiftly

 

水流が左に渦巻き対洋画北より差し込む南半球

the South Hemisphere

where sea currents

swirl to the left

and the sunlight

comes from the north

 

闇を裂き消えゆかん夫の生命乗せ救急車走るただひたすらに

breaking darkness

an ambulance runs and runs

very fast

carrying the life of my husband

as it is slipping away

 

授業中窓辺に差し込む小春日に転た寝する生徒()も一つの景色

a student in class

taking a nap

in the sunlight from the window

in Indian summer

this is a scenery for me

 

高層のビルのはざ間は風の道 加速しながら春嵐過ぐ

the space between high-rises

is a street of the wind

a spring storm

speeding up

passes through the space

 

もともと英訳を期待して作歌するのであろうか。

工房のことは語られていない。いや、語る必要もない。

だが、どうしても、対比読みをする。

まだまだ、わたくしには、英語短歌はもの珍しい。

岡本さんは「醍醐」のメンバーその第7歌集である。


てまり花(及川知子)2008.11.5〔ながらみ書房〕

2009.4.8

 

及川知子さんの作品は、ご自身周辺の人々との心の交信ででき上がっている。

だから、「あとがき」にあるその情報が作品を知るうえで

たいそう有力な手がかりとなる。

手がけられた仕事は、保健師。

その後の関係先は高齢者センター、老人ホームとある。

木の精もお花の精も寄りて来よ障害の児らの花いちもんめ

運動会の綱引きの子のいっせいに踏ん張る足は大百足なり

宴席に眼すわりて言いつのる男の悲哀を見てしまいたり

集まれば互みに仕事辞めたしと言いてはおれど本音にあらず

次の子も同じ遺伝子持つならば堕ろすと言いき若きその母

人間模様の描写は粗いタッチが特色。だから、その特性がよく伝わる。

 

事務机片っ端からかきまわし現金のみを持ち去りし奴

指紋とうこの不可思議な紋様を追いゆく人よこれも職業

職員の採用試験日 挨拶も態度もおおかた女は優る

旅行詠、これも作者に密着したケレンのない作風。

 

あまりにも真青な空が続くゆえ飛行停止の錯覚にいる

質素なるパンにコーヒー、鳥のさえずり、ミュンヘンの朝の豊かさにいる

セカンドライフまでの小休止のときの作。

 

春眠のまどろみに聞く鶯の声きよらけし退職したり

粗大なる物小気味よく捨てたればいよよ目指しぬシンプルライフ

多くの時を周囲の人々のハンディキャップを補完する仕事に充てた半生。

その中での《自分のとき》。とても落ち着いている。

 

この世とも彼の世の音とも聴こえたりMRIの冥きトンネル

杳き日の少年野球の監督の夫の腕は快音放つ

紅色の鍾乳洞に似る(くう)をわが胃カメラはしずしず進む

星がひとつまた消えました うつつ世の歌の交わりさびしく卯月

くろぐろと古木のさくら胎内に若木が生れて花開きおり

習志野市の市花があじさい、また園長でもあった施設「あじさい学園」にちなむという。

及川さんは「たんか央」のメンバー、その第1歌集である。

 


吉野裕之集(吉野裕之)2008.10.30〔邑書林〕

2009.3.26

 

ひとつの歌集を一語で形容するには、形容者と被形容者の双方に

度胸がいる。とくに被形容者の方に。

その語とは《軽妙》である。

多くの作品に「言い切っていない」ような余韻がありところどころに

《飛行機雲効果》を生成している。

一見に如かず。

ビル街を来て雷雨 魚らの交尾のときの声を聞くまで

ほくほくはやきいも ぽくぽくは木魚 ああ、ぼくたちは啄木が好き

一瞬 Violet(むらさき)のそら現われ消えたり 轟音、走る 海まで

おかしさの長さ十秒ゆるやかに鼻から口へ笑いを移し

これが時々昂じる。そのときは《飛行機雲》は詩的オブジェに変身する。

これも一見を

ぼく達がいま歩きいるコラージュの街に空飛ぶ鯨を見たか

目の前の裸木の群れゆっくりとわれをあふれて風景となる

地下鉄に乗り換える駅人びとは木槿の花の顔をしている

象がささやく夢を逃げだしてむらさき色の朝焼けにいる

なつかしい言語のようだネクタイのようだ五月に立つわがビルは

日常の素直さもないではない。これにはさっぱりした少年美がある。

要するに好感を持って読んでいる。

やんなってしまう暑さのなか母と約束していた墓参りにゆく

砂がさびしい公園にいて陽だまりの恋しい犬のかたわらにいる

ゆっくりと膨らんでゆく水があり十月はまだ夏を育む

かなしいことばにすればひかりが来るあなたに教えられた通りに

運ばれてゆく紙の束ビンの束指の先には秋が来ている

吉野さんは時々歌集という縁側から読み手の居る庭に下りてくる。

不思議な語の排列を見せ付けて「どうですか?」と訊いてくる。

不思議さについてわたくしがどう考えているかを質すような構文だ。

むろん、「Fine」と答えたくなるような不思議さ。

これまた、ご一見を

人間と螢の距離にある闇を思い出しつつ自然な感じ

歳月と思う夜半に降る雨をかき分けてゆくふたりの会話

私の体を通ってゆくことが正しいという春蝉の声

豚のようにやさしい(まなこ)豚のように激しいことば ま向かっている

ぼくの名が調べられたる気配あり砂鉄のような気配とおもう

要するに吉野さんの思惟には《居付き》がない。天性なのであろう。

一見に如かず。

本集は『セレクション歌人』と銘打たれた吉野裕之さんの20年ぶりの第2歌集である。

 


花霞(荻本清子)2008.10.25〔短歌新聞社〕

(2009.3.24)

 

すでに本サイトおなじみの荻本さんである『銀河街道』『紅葉界』『感動体』

本集は既刊の9歌集に未完『花霞』を加えた総括編。

新現歌人叢書版である。あるが、

 

『河と葦』より

20台の第1歌集、自我の探求の視線が今なおみずみずしい。

裸電球低く吊るして縫う母らその背のかぎり寒波は襲う

血縁を愛さぬある日打たれたる頬の多量の血が鳴りたてり

恐慌に権力に追われ農夫らのゆくてに光る万の野ぶどう

数え歌野へ先立てて青春期わが立っている空地はなきか

軌条敷くゆくてに締まる光りあり<オオアレチノギク>ひしめき咲ける

『暁は』より

これより、さまざまの展開が点描ながら読み取れる。

鉄橋の錆色にじむ砂の(すじ)踏みにじりつつ傷みは走る

わがためにわれは祈らず花びらをはがすごと二枚の手をひらくなり

『垂直』より

森のなか鳥もひとも一包にねむりあれわれに祈りあれ

『飛橋』より

一樹一樹呼びおこされて朝が来る遠い時間にかえらんものら

電気消ししのちの書庫にひっそりと光る背文字<聖書>を愛す

『谷の雪』より

人として生れしかなしみ歌うかな地平を走る水の分厚さ

『紅葉界』より

蘂吸えばほの甘さありにがさありはろばろとわが生れし家あり

『異郷歌篇』より

母の()に母亡き今年柿の実の熟るると聞けば急きてゆきたし

『銀河街道』より

雪中に上布を晒しいにしえも山野に抱かれ生きし里人

『感動体』より

新しき中国と古き中国を学ぶと幾冊か本を借りきて

ひととせに一度(ひとたび)飾りて包み仕舞うほそくまみを開く女雛よ

『花霞』より

見覚えの養老山塊変わらざる久遠の姿を心にとどむ

花霞丘に早くに咲きいでし梅の花に身を寄せ時過ぐ

ひと流れはいかが。ところどころに見える破調はわたくしの好みである。


猫のまつり(吉岡迪子)2008.10.12〔短歌研究社〕

(2003.3.22)

 

前編猫、といわけではないがこれほど猫に満たされた歌集をわたくしは

知らない。まずはご高覧を。

吉野建ての一階にのら猫が数匹住み二三階には鼠と人間が住む

死に場所を求めてかさまようわが猫を連れ戻したるはわたくしのエゴ

逃げ腰のなるわたしより落着ける鼠のうぶら眼 潤んだ黒いろ

冴え冴えと月が従きくるあの月は弥生人にも従きゆきし月

いずこよりまた来て待つや白猫の白抜けるごとし月明りの中

ことばはありませんね。第二陣。

描写は正確無比、思い入れ十分。

わが猫が怒りあらわに耳を倒すその時の眼たしかに三角なりし

すれ違いて立ち止まる猫あきらかに人間の会話その背に聞きいる

わが猫は帰路の途中かのっそりと虎の風格もちて歩むか

出身は野良のわが猫顎二重にたわみて中年の顔になりたる

わが猫を葬りてより雨となるそんなに降ったら猫が風邪ひく

以下の論理に頷いていた。

定期的に野良猫駆除をする寺に鳥獣慰霊の碑が新しく建つ

夫君のご登場。

これ歌になるぞと己のことを言うすでにわたしの歌見たごとく

あんたとはどんな死別をするのだろう雲を長らく眺めいて言う

そしてやっぱり、猫、猫。

猫の髭が弧の形にぴんと張りつめる眸ぎらぎら何か訴えるとき

玄関まで追いきて猫は未練げなり子が幼きころと同じ眸に見る

水溜りを歩みきて猫はわが前に後脚かざしびびびとふるう

猫はすっかり人格を帯びている。

猫たちの闘いの日やがて始まらむ慌てるな人間も晩婚なのだよ

庭の朴は猫のまつりの一部始終見ていたはず今朝はそよとも動かぬ

猫嫌いの来客に終始頭なでさせ猫って可愛いねと言わせたりわが猫

吉岡さんは「どうだん短歌会」のメンバー、その第1歌集である。

 


草身(大久保春乃)2008.9.30〔北冬舎〕

2009.1.31

大久保さんの歌はわたくしの鼻先まで寄ってきてちらつく。

バンビの鼻先の蝶のように。

なづの木のさやさやさゆらさよならの手紙百通ことごとく海へ

唇に生れてはこぼれほとばしりことばは昨日のきぞの意味をくらます

逆恨み逆撫で逆手 鏡中のぜんまいはきのうへと逆巻く

鳩群れを右へよければ右へ右へ鳩群れはじりじりとにじる

コトバへの執心が強い。

そのコトバへのこだわりが作者とわたくしの心をよくよく近づける。

つまり、この黄蝶は何度も鼻先に寄って来るのだ。

身体を以て歌を作るときが少なくない。

丹念に砂をかぶせてゆくように合わせ鏡の背より老い初む

朝まだき夢とうつつのみくまりに白梅は白き指さし入れる

たちうちのできないものに逆立てるつるばみ色の心のほさき

うつぶせのままにとろけてゆく君の足裏にうすら黄色の木目

つづまりはしらほねの身を折りたたむあなたがもういいと言うまで

ようやく、わかったことは大久保さんの歌が、大久保さんの心の周波数と同期化しているためらしい。

対象の特質ひっぱり出して、自分の装身具にする手さばきも小気味よい。

フランボワーズは木苺なればたわめても思い直しても赤紫

ぐるりとグラスを取り巻いている文字たちがじゅわとかぼわとか夜に溶け出す

畳の目に逆立つ本は右斜め斜めに雪崩(なだ)れながら踏ん張る

いびつなボタンを並べてはまたしまうようにあなたのことは誰にも言わない

さよならの握手であれば手袋をはずすのだったと そればかり思う

とても静かに歩いていると肩の上で風がゆっくりとまだらになる

キキ、といい、しばしのちまたキキ、というわたくしの歯車のとどこおり

クリスピーな、いやだね外国語は、ハキハキした叙情である。

これはわたくしのクリスピーな部分と無類に共感、反応する。

煮えてゆくカレーにほぐれてはこぼれほとほと耳の形のくぼみ

そこまでは神の領域 夕光に風車ちぎれて回るまで回りきる

お目障りでございましょうと紅の色うっすらと刷く茗荷の酢漬け

まろまろとした雨粒の際に君は立ちこの世の<時>にさゆらぐ

一行に立つ歌はいにしえの武士の刀のひとふりなりと

もういいからもういいからと寄せ返す波間にそっと(はし)をもたげて

逃れたいのではなく深まりたいのです ふたたびの水の命に

こちらこそ、こちらこそ、と重ねあう 散りぎわのさくらのように

いまを連ねて行けるだろうかはつ秋の桜はなびらしんしんと降る

歌で読み手に充足感をあたえることは容易くない。

大久保さんは『熾』のメンバーその第2歌集である。

 


榠樝の実(大和類子)2008.9.3〔ながらみ書房〕

2009.1.30

自身の境地を自身の目で見つめ言葉になすということは出来そうで実は難しい。

風やめば春日(しゅんじつ)うらら放心のわが身を置くは紅梅の下

雪しぐれ過ぎれば真青の空見えて錯誤はいつも美しくある

大和さん、いや、類子さんと書くが、三分の一世紀前を思いだすとき、

あの類子さんが歌うこの<あの世>は特に切ない。

しかし絶妙の静謐の境地である。

生き残りまたの別れの五月晴あの世があるを信じませうか

あの人もこのひととてかくれん鬼の私はいづこを探す

()のひとり鬼が島にゆきしかばせんなし梅雨じむ風は人間(ひと)の世

手をたたき狂ひ踊れば何処より神や降りくるさびしらの神

楕円形くわりんの青実宙に向き語りてゐるか次の世のこと

長々とこの世に在りて視しものは霧にまぎれて去る(せな)ばかり

自己観照の渦の中に自分を据えてはその観方を深める。

歌にそういう機能を託しているように見える。わたくしには、かなり求道的にも見えてくる。

台風は去れども曇り日風はまた精神(こころ)といふも持ちゆきしかな

唐突にすとんと落ちしは夢の中落ちたる底ひの暗きは目覚め

周辺への視線も、しん、としている。

卓上の白ばら崩れぬ流亡も逃亡もなき夜のつまさき

まことなり飢ゑたる戦後幼子の食べて死にしとへびいちご

薄日射しひとけ絶えたる午下がり垣根越しなる犬の眸に逢ふ

八月の風はことばを持たぬ故われは唱ふる呪文のごときを

くれなゐの木槿の花はひとひばな落つる無惨や地は抱きとむ

大和類子さんは『短歌人』のメンバー静謐の第4歌集である。

 


花を選る(吉川一枝)2008.9.30〔短歌研究社〕

2009.1.11

吉川一枝さんは弓を引く。

武の歌はいつも清清しい。

無心といふむづかしき課題もちながら唯ひたすらに弓を引く我

磐梯を背にして広き安土あり山射るごとく的に向かへり

だが、道場以外の吉川さんにはおどろくべきナイーブさがある。

こだはりてなほこだはりて暗闇の背中にひびく胸の鼓動が

おふくろの味を出さんと調理する一味たりぬは亡母への思ひ

人恋ふる心は萎えてこのごろは人の心に踏み入るを恐る

臨機応変歳の功よと思ひしに何をかたくななわが心なる

存在も空気のごとしと思ひしが確執あればとても目ざはり

雨の中歩むを好みしは過去のこと梅雨空続けば明けるのを待つ

身体の歌。これはむしろ恬淡の域。

当然に我がものと思ふこの身体わが意に添はざる臓器みつかる

空腹にバリウムコップ一杯に胃袋の重さつくづく感ず

「頚動脈に少し硬化が見られますコレステロール少し下げたら」だつて

美容師さんの目、ならではの目。

心地良き髪切る音に美容師の立場でみてゐる鏡のなかを

ひと時を飾りて花は歳を経るわれは身を飾りしときあらざるや

げ動物への愛情、猫の歌は哀しいものが多い。

干柿の味を覚えし鵯は丁度食べ頃どこでわかるの

卵より一回転して飛び出せる目高の稚魚は目ばかり光る

十二年われを和ませくれし猫意識ある間は尾を振りてをり

剣道の素振りよろしく羽振ふ鵜の幼鳥は飛び立つ準備す

ほっとした歌に出会うとわたくしもほっとする。

げんこつが飲み込めさうな口開けてあくびの後の安らぐ時間

気に掛けし越冬人参蒔き終へて肩の重荷を下ろした心地す

吉川一枝さんは『響』のメンバー、その第1歌集である。


碧き湖(山岡弘道)2008.9.1〔ホサナ舎〕

2008.1.7

『碧き湖』は、諏訪湖の近くに身をおきつつ、郷土のさまざまな景観やらを

ストレートに歌い上げた山岡弘道さんの前集後、わずか2年間の集成である。

この間の制作1,500首からの抄出400余首とあるから、その勢いは推して知るべし、相当に強いものがある。

秀つ嶺に残れる雪の遠景と競ふがごとき白きはなびら

翳る日を(そびら)に負へば桜木(さくらぎ)の白き花びら黯々(くろぐろ)と見ゆ

孫の誕生へは一入の思い、しかし、息の連鎖は、家系の存続とも、母親の息づかいとも読めるが後者と採りたい。

一握りの小さきいのち世にあれぬ重なる息の連鎖のなかに

そして、定年退職。

確実に老いへと向かふ人生の一こまなるか退職の朝

整髪料を付けざる日々はやすやすと過ぎて職退きし現し身思ふ

そして、記憶にもなまなましい、豪雨禍。

天上の雨粒ひとつなきまでに降り続きゐて地上に溢る

水門は開け放たれぬ。濁流は(うみ)と川との境すらなく

息女の婚礼。多彩な2年間のピークでもある。

アベマリアのソロに合はせて歩む吾に娘のドレスが纏はれくるも

自適の生活であろうか、観察にも精彩の色が濃い。

諏訪湖は中心的な存在感を強めてくる。

我が(いへ)の開け放ちたる部屋べやに低周波のごと蝉のこゑ満つ

碧天を二つに分かつ白線のやがて乱れて飛行雲散る

おそ秋のこの静けさを包みゐる悲しきまでの碧き湖

天空を塵のごと舞ふ黒きゆきこの手の平を覆ひて白し

わかさぎは銀の腹見せ釣られをり冷たき(うみ)をさ迷ひしのち

青鷺の萎ゆるを見たり(うみ)の辺に床に入りてもなほ気掛かれり

この間、多くの悲喜が去来する。

往きし猫を思ひ泣きたきときあれど妻滂沱たればわれとどまりぬ

この薔薇に似たるかをりを嗅ぎしかと記憶の中の心探りぬ

戒めを破りし悔いの残りゐて激しき夏の過ぎゆかむとす

我が柔き心の裡を探り来る羊衣まとへる誘ひ一つ

山岡さんは、あさかげ短歌会、ナイル短歌工房のメンバーその第2歌集である。


(とき)を気ままに(大河内つゆ子)2008.8.31〔本阿弥書店〕

2008.12.30

 

自身の軌跡をくっきりと見返し整理できる人生もあり、

そういうことに真っ直ぐに向き合える人柄もある。

大河内さんにはそういう要素が備わっている。

松明けて街に渋滞戻りくる殺伐なれど活気を満たし

春風はつむじに変じ襲い来て築三十五年の我が家軋ます

ひとり居の刻を気ままに浪費せりおのれに規律課すこともなく

既にこの両首でおわかりのように、大河内さんは事象を実に丁寧に捉え、

その過程がなければわからない現象を忠実に展開、提示する。

雨上り空席多き地下鉄の主なき傘は赤き花柄

終バスに()き乗り込むに一日の疲労感みせみな無口なる

華やぎて明かき町並懸命な上弦の月()が見上ぐるや

枝打をされし街路樹ひこばえの数多を伸ばし緑競える

ベランダに花咲きやらぬ紫陽花は葉のみたわわに暑をしずめいつ

あとがきにも《傘寿》とあるが実際には既成の年齢概念を超える行動様式が伺える。

独り往くロマンスカーの隣席に架空の道連れ置きれ娯しむ

顕ちてくる香に誘われて下戸われも利き酒をなす喜多方の蔵

隣席の女性(ひと)と意気合うひとり旅別れに交わすメールアドレス

テキストを片手に開くインターネット未知の画面に吸い込まれゆく

仕事に関しても《わが人生悔いなし》とおそらくお考えだろう。

店仕舞いの一連はやはり圧巻である。

百年を祝ぐ化粧品組合のその半ば越すわれの商い

「いらっしゃいませ」の声上ずりて憚れる開店初日の声よみがえる

店先に紅、おしろいと並べしに化粧知らねば途方にくれし

商いの終のシャッター平常心保てと降ろす耳にたつ音

店仕舞い為せども(さが)は脱けざりき人の気配にふとも窺う

わが内の()は尽きたるや店仕舞いなせど未練の起こらぬ不思議

老い猫の寝息の柔く耳かすめ同床異夢に過ごすあかつき

二十年馴らせし猫の旅立ちぬ雲おもく垂る初冬の明けに

さすが、エステティッシャンのさきがけ、この言葉づかいはわたくしには忘れがたい。

永代橋の(かみ)は美形の清澄橋高速道路は阻み隠せる

大河内つゆ子さんは「白南風」の同人、その9年間の成果の第一歌集である。


しろうるり(高橋みずほ)2008.8.30〔邑書

(2008.12.28)

 

毎回個性的な集題を輝かせる高橋みずほさんであるが今回もまた『しろうるり』である。

しかし、今回は大いに違っていて、「あとがき」にヒントが明記されている。

「《徒然草》60段に出てくる」とある。

調べた結果をさすがにここに書くのは止めにして各自お調べいただくことにするが、

このヒントを読んだ後、かつて「高橋みずほはふわりと読まん」としてきたわたくしの

読み方がひとつの正解だったのだという思いに到達した。

さて、高橋さんは、突然、読者眼前に真理真実をどさりと置く。

そこがとってもかなしくて涙がわいてくる穴のようです

雨はとおくより来て水の田を凹ませながら見えなくなりぬ

あるいは、その断片やひとつの特性をもって真理真実を指呼する。

黄の花はへちまの育つ長さへとおのきしぼむ

うすき藍ひとの暮らしの時の息夕餉の支度の蓋のおと

肩に波音のせて歩めば海の風香る

青空刻む声のはじまりに朝顔のねじれをほどく

生きてきた木目の幅をみせながらほっとりと椅子が置かれて

これが、もう少し深まると、ある象徴、兆候をもって真理真実を導こうとする。

かすれうらがえりてしまうのどにもわだかまる音の渦

枇杷の葉にのこる葉脈の擦り音ずらす空っ風

小さき風のかたちして生きて終りぬかさぶたのこし

葉の重なりて落葉ぬれて重く地球の温さとなるまでの

これが最も高まった作品が次の1首。

太陽と海面の対峙を全自然界の象徴として自ら感じ、感慨の共有を呼びかけているではないか。

波をゆする陽をみたか陽を突き上げる海をみたか

☆☆☆

高橋さんの声にはせ参じてよめば上記のようになるだろう。

ただ、上記のグループはディテイルを理詰めに読んでいてはわたくしのいうようにはならないかも知れない。

以上のものを知的な作品群とよぶならば、これ以下は情的な作品群と呼ぶことになるだろう。

さらに、ふわりと接することの可能な作品である。

山鳩の胸深く声を出すとおくの森から聞こえるような

厚雲のあつさのなかの遠き雲さびしき音がはこばれて来る

ぽたりぽたりと皮膚に涙の重さを知る日暮れ

うさぎの耳が風をつかんで立つ日暮れ草のしずくを嗅ぎわけながら

ずるずると屋根落ち軒にたれるゆきはるのしずくとなるまで の

水族の呼吸も人の吐く息も体の波打つうちより出でて

ときおり意識的なやまとことば脈がある。

わたくしにとって好ましかったのは次の両首であった。

秋の庭動かぬ池のみどろみどろ蜻蛉(あきつ)越えゆく (あした)

蜻蛉(あきつ) 空気の闇に生まれくる透明な翅たたせたまま

高橋みずほさんは「BLEND」のメンバー

『しろうるり』は『りん(亠+回)『フルヘッフェンド』に次ぐその第3歌集である。

 


 

寒風の文字(永島道夫)2008.8.11〔角川書店〕

2008.12.27

さて、冒頭作品から。

舗装路に凹凸ありてうつる雲くるまが踏むに飛沫(しぶき)となれり

水溜りを水溜りと言わない作品をこの位置に据える戦端の切り方に

先ずは注目させられる。永島さんの矜恃が予測されるではないか。

しかし、読み進めると、永島さんのこの視線はひとつの傾向としてよく見えてくる。

自身の目での事象の再確認というステップである。

監視カメラに見つめられつつ引き出しし紙幣は財布に仮住まひする

改札機に入れたる切符つかの間にわれを追ひ越し直立したり

「考える人」はロダンの亡きあとも定めのやうにまだ思案中

善玉と悪玉のゐるわがからだいつも善玉の旗色わるし

また、永島さんのノートには人間らしさがごろごろしている。

同僚の中にある組織で永らえる人々の老獪さ軽薄さをさらりと

三枚に下ろして処理する庖丁さばきにはけれん味はない。

前回と同じと結ぶ説明に質問もなくすんなり通る

内聞と約束せしにすもれて早耳自慢にひろめられゐつ

自尊心をくすぐりながら断ちきれぬきはまでわれを追ひつめてくる

しかしこれが自己洞察となると、食い込みはもう少し深くなる。

まあいいかとなべてを許しつきあふに堪忍袋の一つで足りず

すぐ顔にいでてしまふに正直の上に重石(おもし)のふた文字を置く

わが胸を輪切りにしたる写真にも弱き心はうつらずにゐる

鬼のゐぬ間の洗濯と言ひながら内心とつても寂しいのです

そして、ときには、防衛策。

汎論を言ふなほつとけほつとけと耳のうしろに意思をもつこゑ

意に染まぬところは聞こえぬ振りをして悔いはのこれど丸くをさめつ

おふくろさまの挽歌も冒頭の視線と共通するものがある。

死亡時刻確定をする医師のさま母の産みたるわれが見てゐる

思ひのこすことはあらぬか母の(ほね)壷に納まり壺より軽し

そして、最も心に残ったのは「自己から分離された自己を見つめる自己」という視点であった。

言ひかけて忘れてしまひし言の葉は(なづき)のいづこを彷徨(さまよ)ひてゐむ

ししむらを一度抜ければ魂は会議ののちも帰り来たらず

永島道夫さんは「朔日」のメンバー、『寒風の文字』はそのユニークな視線を湛える第2歌集である。


短歌の源流を尋ねて(綾部光芳)2008.7.20〔短歌研究社〕

2008.12.25

 

すこし間の遅れた執筆であり、弊サイトご訪問諸賢がすでに多くご感想をお持ちであろうことを恐れる。

本著は450頁を超える大著であり、副題が示すとおり、《実作者の立場から》考察を加えられた

実に、筋肉質の文献であり、研究書としての功績も大きい。

本編は4部立てであり、さらに巻末に『余禄』を備える。

第一部 入間・飯能の和歌文学

第二部    表現と言葉

第三部    秀作の条件――『無明抄』より

第四部    大野誠夫断片

第五部    贈答歌の世界――『和泉式部日記』より

 

ここではその本質をほんの少しお見せしたいと思う。

先ず、綾部さんは、自身の生活基盤の地、入間の歴史を万葉まで遡り、本来の〈いりま〉が

平安期に〈いるま〉へ変るさまを史料とともに読み手に示し、

土地の特徴でもあり《入間様》とも呼ばれた《逆言葉》を紹介するなど興味深い記述が随所にある。

 

『表現と言葉』も多彩で、漢字かなの表記やオノマトペはもちろん、

古語の現代語短歌化に精力が注がれている。

 

さて、そのピークを唐突ながら引こう。

石見のや高角山の木の間よりわが振る(そで)(いも)見つらむか 人麿

石見(いはみ)なる高角山(たかつのやま)の木の間よりわが振る袖を見てゐむ妻は 現代短歌訳

 

未通女等(をとめら)袖布留山(そでふるやま)瑞垣(みづがき)の久しき時ゆ思ひきわれは 人麿

袖を振る巫女(みこ)の不布留山み社の瑞垣久しくわれ恋ひにける 現代短歌訳

 

ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 人麿

(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えて振り返り見れば月は傾く  現代短歌訳

例作5組から3組を引いている。

無論、現代短歌訳は綾部さんのもの、本項で注目すべきは実はこの後にある所論で

あって、実に多くのことがらが詳述されているのであるが、大きく思い切っていえば

原作にある「パワー」を「理解容易性」につけかえたものとして自作を語り、

敷衍して、「原作の本質」、「反歌である場合の特質」に触れている。

作品の多くが綾部さんの主宰する「響」の誌上を初出としたものであり

改めてフィールドとしての結社誌の意義を痛感させられた。

 

論考は多く長考型であり、表現は常に熱唱型であることは

弊サイトでの紹介は、実は『騅』を渡し舟に乗せるような難事なのである。

是非、原著の深みに浸っていただきたいところである。

 


君の夕日に染まってゐたい(濱谷美代子)2008.7.28〔角川書店〕

2008.11.4

 

濱谷さんの、《初恋》に象徴される純朴・原点をめぐる日常は、

素直な人間性に貫かれていて、

読み手に素直な、納得・共感を引き起こさせる。

初恋のやうなこころを容れませう森のしづくに満ちたうつはに

初恋のやうな顔して今すこし君の夕日に染まってゐたい

時に華麗、時に沈着、であるが第一歌集らしいみずみずしさが随所にある。

うつくしき空と思ひぬ握りゐててのひらの闇ここに放たむ

よろこびのパーツあつめて自画像を白い言葉に塗りかへてみる

時の経過の中での、自己を再確認。

折り返し地点は疾うに過ぎてゐて午睡の夢が雨に濡れます

曾祖母、祖母、母、年古りた楠も。きず受けて立つ日本の土に

闇に揺るる裸電球ふるさとに置いてきぼりの心を点す

そこはかとない相聞の彩り。

ありのままに対ふ覚悟す木蓮の白にたしかな鼓動を認めて

相聞の腹はじけゆく熟れすぎのトマトは今朝のトレーにのこる

かの夏の恋の偏差値高くして予感のままに閉ぢた小説

ああ風よわれをいざなへ結び目のほどけたる赤ゆえに未来は

君の吐く二酸化炭素に染められて鮮やかな赤に一致する舌

なないろの個性を生きてわたくしの耳に澄みをり君が潮騒

去ったひとびとへの追慕の情も深い。

楠の老樹に父の影にひとつ滴るごとく時よみがへる

父を焼くけぶりは高きへのぼりゆきただ蝉時雨われに降りくる

わが内耳に棲みゐる蝉あり吾子ゆきしより漂へる闇をなきをり

砂あそびセットはすでに葬られ加速の時をかなでる挽歌

日常のそれぞれの心も素直に留められている。

しやうもなきことに意地張りたれかれを遠ざけて一日(ひとひ)膝を抱きをり

用心にたたく石橋かずあれどたたきこはしていまだ渡れずの経過の中

濱谷美代子さんは『ナイル短歌工房』のメンバー、その第1歌集である。

 


宜春(家原文昭)2008.7.15〔ながらみ書房〕

2008.10.5

 

大昔にお会いして以来、家原さんは東京のお人と認識していたがただ今は九州、

つまり、勤めを退おえて九州で母上を看、動植物と親しむ日々とあとがきにある。

両国の博物館寒明けを観る十宜帳宜春のところ

『宜春』は立春の意、蕪村の画題から引かれている。

帰郷は自己リセットの契機だろうか。自己や周囲の観察は深い。

三叉を振るいて畑を耕せり少年の日より四十余年後

ボンカレーは辛口を買って来よと言う八十六歳母が出掛けに

柘榴の実庭に拾いしものならむ枕辺に置き母は寝ており

そのかみの私塾の庭の青柿の下歩くわれ老書生たり

友死にて通夜よりもどる十三夜涙法師のわれに影あり

カレンダー丸まる癖を直しおり明日より変わる年恃めなく

かつ、観察に徹する家原さんが見える。

雨落つる水面をしばし見ておれどアメンボに雨当たることなし

巻雲も飛行機も風に散り畑に固く空豆実る

目薬を差すとき見えて天井に円歪なる雨漏りの染み

作業着を夕べ戸口に(はた)くときハルノノゲシの綿毛飛び散る

白光に春三月の淡雪が木瓜のくれない励まして降る

鹿垣山の畑に回らして茄子に無駄なき花のむらさき

鶏小屋の南京錠が温もりを持てり二月の朝の日差しに

自己へ回帰する思惟。

酷使して来たる右手の痺るるが快感となりて眠りに入りぬ

酒飲めば死ぬるとぞいう脳細胞毎晩毎晩多く死なする

味噌汁の卵つつけば卵黄が破れてわれの泣きしことあり

定年を経て、何か帰巣本能でも働くように、精神的な「ほんけがえり」のようなものが働くのだろう。

坦々とした日々の思惟。

六十一となりたるわれに初蝶は水仙の黄の花越えて来る

余目(あまるめ)の恋川酒造の恋乃川飲みて人恋うことのあわれさ

猿の仔が雪を固めて遊ぶとう進化ゆるやかなるが宜しも

こころ新たに大地に取り組まれる作品からは、大きな躍動感が伝わってくる。

家原さんは『牙』『地中海』のメンバー、その第6歌集である。

 


歌集朔日(15周年合同歌集)2008.7.28〔朔日短歌会〕

2008.10.2

 

『朔日』も創刊15年という。179名出詠の合同歌集はさすがにずしりと重い。

ひとり20首に小エッセイが付されている。

何とも心に残る作品が多いが

ここでは、着眼という観点から見直してみる。

無論、ひとりの作家がいくつかの分野にわたることもあるが。

大部を味わいながら最も強く感じたのは多くの作家の視線であった。

勿論、ひとりの作家が単一の見方をする筈はないが、

その作家が最もその持ち前を発揮する視線はそのひとの《勝負目線》なのだと感じ取ったのである

【人生眼】

作家自身の人生行路をなぞる視線。生活と密着しているだけに実感があり、それぞれに重い。

いつからが余生といふのか次つぎと夢は生まれる消えては生まる 加藤都

春とともに一斉に芽ぶく草木に追ひつ追はれつわれの歳月 勝呂澄子

うしろ髪引かるる思ひ新築の家を残して任地に急ぐ 高橋栄美

大正の生まれはともに頑張ろう肩叩かれしは昨日のことか 前野義昭

【自身眼】

上記より少し内省的な視線で心情を掘り起こす作家の思いも波うつ。

僕のものと決めて見てゐつひとつ星と高層ビルの窓のひかりを 栗原寛

ひとことにふりまはされればきりがない勝手に赤いトマトでゐやう 中島みどり

いやいやの心に洗濯物を干す日のかんかんと照る庭にゐて 菱沼恒夫

洗濯を始めたい私と長椅子に寝てゐたい私とどちらも私 福田美佐子

跳ね返す強き言葉の出でて来ぬこの歯痒さを何にぶつけよう 山本智恵子

つうーと垂れしミルクは如何なる味だらうフェルメールの絵にそつと入り込みむ 渡辺和美

【比喩眼】

視線がそとへ向くとおりおり絶妙の比喩を生む。比喩眼と呼びたい。

くちなはのごとき生きもの台風は身を太らせて日本に向かふ 上山久雄

()まり過ぎて戻れぬ発条(ぜんまい)があるとすればそれはわたくし一夜眠れず 大久保富士子

いつぽんのボールペンよりちつぽけな者かも知れず海をみてゐる 岸野亜紀

夏風にふくらむ上着つかのまをのがれやすきもの内にかくまふ 玉井淳子

雨のふる予報はづれて持て余す鉾のやうなる蝙蝠傘を 永島道夫

いままさに火焔たたむか沈みゆく夕陽に向かふ山寺に来て 原田桂子

【発見眼】

上記と同様の《見立て》だが、こちらはもう少し形象的である。

みづならの一樹に雪は降り積もり枝はまつ白なゴシック体となる 桜井みどり

樹があるから風は形を成すものと火葬場の待合室で見てゐる 鈴木茂弥

北斗七星水をこぼさぬ安定に位置せり今宵稲かけ終る 瀬戸文子

影とわれと歩めば影は従者にて従者はわれを踏むことあらず 宮本永子

【生物眼】

ヒトと他の生物の差異に触れている。その差はときに微細であり、つねに本質的である。

ほうと鳴きほうほうと鳴く山鳩はみづからに命を絶つこと知らず 外塚喬

ごきげんな猫の尾が触れたんぽぽの冠毛ここぞと春風に乗る 生田澄江

うづくまるわたしの耳のうしろには声になろうとする虫のこゑ 寺島博子

ほんのすこし風が触つただけなのに涙のやうに白花が散る 毛束純子

純白のマーガレットを盛りあげて埋めつくしたり部屋の空洞 中川千鶴

文字通り、圧巻の一語につきる。


夏の終りの(王紅花)2008.8.11〔砂子屋書房〕

2008.9.14

 

王さんの歌集を見ると昔からの友達に会ったような気分なる。

このちょいならず者サイト『不羈』がまだ印刷物の、まだ清潔を意図した個人誌だったころ

王さんも同じように個人誌『夏暦』で走っていた。

むろん、今も『夏暦』は健在。

第2歌集から幾星霜、いや13年。王さんは王さん兼王様になっている。威風がある。

暗き出湯につかり脚伸ばすその脚の上にランプが逆さに燃えて

週末は遊びの予定で埋まつてゐないと働いてゐても落ち着かないのです

地球は洋梨の形であると書かれをり うふふふふふと読みつつ笑ふ

白布にくるまれてワゴンで運ばるる新生児らは巨大蛾のごとし

親子でさへ相性がある、と暗がりで顔見えぬ白き靴の人言う

あらためて纏めて熟読するとわかることだが

王さんはまともなことがらまともな事象をまともに扱うことを恥じるかのようである。

王さんの詩精神がそうなっているのであろう。

夫よ、あなたのやうな種類の人間は絶滅に瀕してゐると言へます

夫は桜木(さくら)を刈つてしまつた 落葉が隣家に迷惑だらうと思ふらしくて

夫はしばしば登場するが、王さんによって再構成された人格の主として

印象深い登場となる。

お互ひに目を合はせぬやう、スマートに品よく生きよう、猫のやうに

をりふしにわが目に止まる炬燵から出てゐるうしろ脚と尻尾が

この森を(すみか)とすれば鳥たちは日暮れまで飛ぶ、鳴く、喧嘩する

貰ひきし犬とわたしが順位闘争に開け暮れて終る黄金週間(ゴールデンウィーク)

わたしが躓いたとき連れてくる犬が「なにやつてんだ」といふ顔をせり

犬はよそにもらはれてゆき部屋隅の空つぽの籐籠に闇たまりゆき

夕暮れのかなかなよりも暁のかなかなのはうがずつとすてきよ

さて、家族としての犬や猫、

そしてその他の生物も性格づけがされていて楽しい。

無論、自分も登場する。

王さんもまた『自分を客観的に見ることのできる人』のようだ。

(後日のために。コレ、辞める総理の棄て科白)

風呂の湯に冬すみれ浮かべ風流な私なんです 午前二時です

草を刈るときも自意識過剰にて、誰かに見られてゐるやうに刈る

わたくしは壊れてゐると思つたが今朝目覚めたらさうでもないわ

あらためて、認めることだが、王さんはつくづく 「機知」の人だ。

また、短歌を「機会詩」と整理している人だ。

その両項の“&”を取るのがどうやら、テーマのようである。

春に目立つ樹、夏に目立つ樹、秋に目立つ樹、冬に目立つ樹があり

わかものが歌ふ鎮魂歌(レクイエム)わかものは死に遠ければ美しき声

振りかへり見し三日月が纏ひゐる金粉(すなご)のごとき淡き輝き

二ヶ月後咲くならはしの桜木にこの夜半も吹雪すさまじきかな

映像を見てゐる人は気づきをりトラクターが刈りゆく叢の雛鳥(ひな)

ここよりは緑の魔界 登山口の草や木の芽がぎらぎら光り

山荘の二階の窓から顔を出す僧少女の顔がばかに青いよ

三メートル近くとなりし茎の先に蕾つきをり 秋深まりて

さて、その挙句、王さんにより、一首に切り取られる「気分」の長さはきわめて適切である。

口語自由律がひょんと出てくるのもおそらくその帰結だ。

きみが植ゑたノイバラ ろくに花をつけないノイバラ 生きてゐるだけのノイバラ

王さんは上述の個人誌『夏暦』により、孤戦。『夏の終りの』はその第3歌集である。

 


即今(大下一真)2008.7.2〔角川書店〕

2008.9.1

 

『即今』は文字どおり「ただいま」のことで禅寺では「即今ただ今」を尊ぶ、とあとがきにある。

これ自体、人生訓を思わせる語であるが

作中に多く、還暦を向かえた名刹の和尚の視線がさりげなく随所にその風格を示している。

それもこれも夢とうこの世に咲き初めて梅花一輪日暮を影帯ぶ

不本意といえど畢竟は瑣事ならん卯の花はじけて五月をこぼる

小賢しきの小はわれよりもたしかなれば心安けく言い分を聞く

怯惰とも狡知とも指されん年重ね掃き寄せ捨つるくれない椿

ほぼ《道歌》といえるものもある。いや、道歌というべきだ。

彼岸会の此岸(しがん)の雨に伏しながら秋草宿すおのおのの種子(たね)

装わぬもの清々と夏富士の駿河の海の上に立ちたり

短歌作家としての大下さんは機知・ウィット・機微の人でもある。

仕方なく雲からこぼれて来たような雨いつかやみ春の夕暮れ

筋道のさはさりながら人間に出会いて蛇の溝に逸れたり

(みんなみ)に向きてひたすら風走る九十九里浜のここは何里ぞ

学名はリョウメンヒノキ人呼んでなんじゃもんじゃのなんじゃの高さ

秋というやや刃物めく冷たさを持ちて夜更けを雨の降り出づ

<われ思うゆえ煙草あり>人間は煙草吸いつつ考える葦

さらに独特の人間くささ。ときに可憐ですらある。

ホップ・ステップ・ジャンプせんとし挫けたるような思いに耳描いている

旅の身は列車に酒を飲みながら会いし夕日に透けてゆくなり

交したる名刺にかさばる名刺入れ持つも可笑しき僧の歳晩

こちらは寧ろ厳しい表情の現代人の顔である。人間洞察は鋭い。

人間は闘いなれば闘いの眼愛されオリバー・カーン

人間の用失せたれば突堤の芥に混じるボトル ビニール

笑いとは人間のみのものにして使い分くるを知者となし来ぬ

冒頭にも挙げたが、植物との接点も《即今》の境地なればこそという。

脱ぎし皮あまた散らばせ竹の子は竹となりゆく五月の空に

長かりし夏の終わりを降る雨か芙蓉の白き花を透かせて

しだれたる先より無尽数の花こぼすひそけき桜の長き夕暮れ

怨憎(おんぞう)は冬解脱(げだつ)は春 笑いつつ桜がこぼす万の花びら

つゆくさはまことつゆくさ露あまたを呼びて朝の光に化粧(けわ)

一個の男の歌。自己確認、死者とのほのとした対峙も自己確認であろう。

重ね来し思いの幾つにれがめばほのかに甘く壮年はあり

亡き人と気づきしがさらに(はなし)しぬ夢より覚めてほのぼのといる

デモに行きデモに飲まるる恐さ知り四十年後の今も一人ぞ

君の訃を聞きしは信州松本の蕎麦の畑の白無垢浄土

本著は『角川短歌叢書』シリーズに列する。

大下一真さんは『まひる野』のメンバー。

先の『足下』から4年、いよいよその第4歌集である。


冬の昼顔(小谷博泰)2008.6.25〔和泉書院〕

2008.8.23

 

前集『α階のS』から5年、はなやぎから落ち着きへとそのコアは移っている。

桃の苑をまもる老人の見る夢ははるかなコンドル 荒地の死体

死に最もちかき八月 虫がなき鳥がさへづり山のかがやく

《死》への傾斜は前集に増して頻出する。しかし、暗い冥界とはちがう世界が描かれることも少なくない。

廃屋に細き井戸ありて底見えずいつかおいでと誰かささやく

店に傘を忘れてきたがあれはぼろのわが魂といふほどでもない

父母未生、祖父母未生の暗闇にいま狼が遠吠えをする

よたよたと秋の蝶きて蜜を吸ふもはやわが亡きのちの時間か

さらに死のもうひとまわり外側の世界も描かれる。

これも既成の《死の世界》ではなく、小谷さん流のリアリティ持っている。

既成ではないということは、

とりも直さず、深く死を見つめているという事なのであろう。読み手に迫ってくるものがある。

《老い》や身体機能の減退についても直視の視線が弱められることはない。

この厳然たる壮年の眼を、きちんと保有する勇気は今のわたくしにはない。

海の見える坂道にして前を行く少女しだいに遠ざかりたる

よくもまあ今まで生きてきたものと思へば酒を飲まずにをれぬ

こぎれいな店がふえたりこぎたない昔の店にああ若かりし

老いし今もわがうちになほ赤子ありわが正体は泣きわめく赤子

いまさらにはなやぐ命と思はぬがもうしばらくは夢みてゐたい

ゆつくりと空からぼたん雪がふる我に出会ひて逝きし者らよ

ほととぎす雨後をなきをり山道にしてわがからだ消えゆくやうな

ここでの紹介は敢えて末尾にしたが、闘病の歌も真摯至極。

こうなってもこう書ける自信は今のわたくしにはない。

寒き日の降誕図ならぬがん告知 白衣の医師も看護婦もゐて

手術後の夢にぶきみな絵のやうな写真のやうなものあまた見る

どす黒くたぎる怒りに生かされて死のきりぎしゆ帰りきたりぬ

雲はわき雲は流れて秋である もはやどうでもよいことばかり

レントゲン写真にあれど骸骨のわれが何かをみてゐるこはさ

旅先のモカコーヒーのにがくしてゆるり増えつつあらむか癌は

ぼろぼろの人生なりと思へるはわが心にてこころぼろぼろ

ときにはあっけらかんと。しかし、切ないあっけらかんである。

夜ふけ打つケータイ・メールなんでこんなに好きになつてしもたんやろ

おめおめと生きてわがあり夜の闇に咲きゐるさくら散りゐるさくら

千年ののちの景色を見るやうに水輪をゑがく雨を見てゐる

二、三センチずり上がりゐしミニスカのよかりしやあの白きふともも

ワイングラス一杯でもう幸せな気分になりぬ前には港

小谷博泰さんは『白珠』のメンバー、その第5歌集である。


Cicada Forest(北久保まりこ原詩、Ameria Frielden英訳)2008.6.28〔角川書店〕

2008.8.16

 

 

北久保さんとFildenさんのコラボは既に定着しているOn This Same Star ウィル‘WILLが、

本集はますます佳境、新作に加えて、過去の歌集の抄出もある。

ここでは新作から。

@

逸れないために繋ぎし指の間をふとすりぬけてゆけり銀河は

lest we stray

the Milky Way

just happens

to slip between

our entwined fingers

A

たがために咲くわれなるや来し方の照るも翳るも遠く眺めつ

for  whom then

did I blossom?

I cast my gaze

over the light and shade

of the distant past

B

水のやうに素直になりぬゆるゆると耳のカーヴに入る君の声

Ive become

as submissive

as water

your voice filters

into the shell of my ear

C

遠くなる景色の中に立つ友よ地軸ゆがめて陽が落ちてゆく

diminishing

with our distance

stands my friend

while the setting sun

rounds the earths axis

 

対比という身で読み返してみる。

英訳については正直のところ、「なるほどそういうのか」の域を脱せないが

@  Aの克明忠実な再現に対して

A  の『カーブ』、Cの『ゆがめて』が忠実度以上に伝達性を重視して表現されていることに興味を深くした。

それにしても

北久保さんの歌は、いわゆる《短歌短歌して》おらず

とても新鮮である。

発想が《現代社会人》である。

『「さあ、お歌を作りませう』がないのだ。

いつの間に住み着きたるや赤黒く息づきてゐる血管腫瘍

時を売る人あるならば購はむ信ずることのできる時間を

ひと粒の胚から始まる物語つぎにもヒトに生まれてみたし

自身の病状、それと深く関わる人生観は

読み手の心に深い痕跡を刻む。

懇請を刻む。

生まれ出でたしと思はずただ生まれ出でたるままに魚の泳ぐ

寄する肩が時には欲しいわが死後に届く手紙のやうな木枯し

右足の爪先ばかりつまづくはたぶん左と気まづいからか

不安定に陥らない人生はないが

そういう日常と隣り合わせの情緒が《すぐれて短歌的に》表わされる作品も少なくない。

 

その中でのやさしいひととき。

雨の浜も悪くはないね真黒なラブラドオルに耳打ちをする

そんなこと取るに足らぬとボサノバが耳たぶのへりをすべりてゆきぬ

そうだ、このサイトに“ドッグラン”ページを作ろう。

このラブちゃんを1号として、とこれはひとりごと。

北久保まりこさんは『心の花』のメンバーその第5歌集である。

 


 

存在の夏(村木道彦)2008.7.8〔ながらみ書房〕

2008.8.10

 

思いがけずお会いした初対面の村木さんに『天唇』への思いなど我にもなく

べらべらしゃべったのはおそらく20年近く前のように思われる。

「時」との関りは本篇の主調音、あとがきでもきっちり論ぜられている。

重戦車に背後尾後襲はれ「時」といふ無限軌道に轢かれてをはる

「時間」とは鉄路のごとし次々に開かるる駅また閉ずる駅

雲ひとつまひるをながる かうかうと「時」はかりそめのすがたをもてり

村木さんの歌は実に根源的なところから発せられている。

多くの作に、対象物の根源が描き出されているのだ。

主題は巧みに入れ替わるが。

炎天を歩み(こう)じて樹下に()るすずしきかなや影もたぬこと

天空はけだし頭上の蓋なれば閉所恐怖の生ずるところ

脚のむれどつと階段おりてくるみなそれぞれの身体(からだ)ささへて

来てたれも朱に染まりたる声となりなにかものいふ 海はゆふやけ

ありやうは はたけちがひに置かれしかおもひちがひをして生まれしか

やはり。感性、ただ感性というよりも、その抽出の手法。つまり、《彫琢》といえる。

つぎつぎと車が拾いて来るものに溺るるばかり「まう深い秋」

ひととせの排泄としてハナミズキ樹下にちらばふものおびただし

うなばらを一直線にわれにくる(いり)つ光の奔流の束

一睡もわれに許さぬ窓がありしらじらとしまた朝を呼ぶ

卸し金の棘いっせいに立ち上がる 午後のひかりの及べるかぎり

おとがひを向くれば白き眼孔もわれに向きたり石膏像(トルソー)に、春

冒頭の《時間》はむろん《老・死》に接近する。

参列の側からさるる側となり 烈日炎暑 ()れの出棺

生の緒の芯に疲れを思ふときみづからの老い引き受けむとす

おほかたはやぶれてをはる壮年に 剃刀まけのほほのくれなゐ

胸中、わだかまりあり、懊悩あり。知的哀愁の提示となる。

()のあたま泳ぐは精子にさも似たりさねさし相模湘南の海

官能と精神性と—――せめぎあひつつひたのぼる五月の雲雀

洋犬の長く白き尾「戦後」とは異種間雑種のことにあらずや

うつしみの思考回路のいづこへもかへがたくきて啼くあぶらぜみ

犬の歌にはわたくしはのなみなみならぬ愛着がありまして。

<吠え声>とヒトの<言葉>と棲み分けて犬飼ふ家に夏きたりけり

長く曳く影のひとつに近寄れば影は尾をもちおもむろにふる

『存在の夏』は村木さんの久々の第2歌集である。


那須火山帯(波汐國芳2008.6.18〔短歌新聞社〕

2008.8.4

 

前歌集『マグマの歌』2006年の刊行だが、本篇は心情的にそれを継承する。

自身をマグマであると認識するに至った、とあとがきにもある。

 

那須火山帯に連ぬる一つうた魂のマグマ溜りを我が胸に置く

茂吉いま蔵王のマグマ()て行くを見たるい思いす この闇深夜(ふかよ)

マグマという規定は諸姉諸兄ご推察の通りのイメージを持たされている。

つまり、波汐さんは自らの生涯を《反骨》と位置づけている。

そのためであろう、教科書では褒めない天皇家のライバル・蘇我入鹿を惜しむ一連がある。

 

騙し討ち 討たるる入鹿一どきに潰えゆく森の声をあげしか

首塚に蘇我入鹿の首ひとつ()ってくるまで手繰る古代史

(ひい)でたる大臣(おとど)入鹿は討たれたり権力はつね権力を削ぎ

さて、一巻にあふれるのはふるさとの山川。

俄雨過ぎし磐梯清々(すがすが)と余剰()がれて耀う(うた)

古里が何処にも見えねば野焼きの火ゆらゆら立ちて炙り出すべし

雲の帯押し上げ(とお)の奥見せて(つぶ)れんまでに熟るる初陽ぞ

跡継ぎ無き農の小径(こみち)よひっそりと夕陽の中へ取り込まれんか

山峡を分けつつ二輌のローカル車 滴るほどの夕陽も入れ来る

いやな奴、親友、自己、無生物のともだちへの描写はいずれも

ワカゾー、コムスメの至らぬ境地。

托卵の郭公鳴けば目にし見ゆ(ずる)く賢き友の幾人(いくたり)

癌などに負けてならぬぞ逆波(さかなみ)(きお)い立ちゆく君が歌なれ

郭公の鍬振るごとき声も入れ鋤ゆくわれのわがうたごころ

ひまわりの首垂れしまま兵われの命落とさずに済みし八月

稲妻にまくらるる我の顔を見よやがて残らんのっぺらぼうを

風花は我のともがら 白雲のはぐれしままに迷う幾ひら

彼岸花咲き極まりて()()るを死者の王冠 祭りの王冠

この沼に鴨ら泳ぎて光曳く 蜜の如きを曳く春陽(はるひ)より

腕ひろげ我が駆け行くを春潮のざぶりと立ってくる歌なりや

このなかで、随所にある口語脈の優しい作も印象ぶかい。

溶岩流一つは草原(そうげん)に消えました 馬の中へと還ったのですね

波汐さんは『翔』の編集発行人、その代10歌集である。


帰路(一ノ関忠人)2008.5.31〔北冬舎〕

2008.7.6

 

『帰路』を難病と対峙する作家の集名と知る切なさは喩えようがない。

わたくしより数等、若いみそらで。

わたくしも考えて見れば、地獄の釜をぶち抜く日をホームベースと考えれば

既に3塁ベースは回っていていわばホームべースの直前まで来ている。

しかるに暢気なことに《帰路》という認識は全くなかったのだから。

《帰路》を意識したのは環境と精神の所産である。

ベッドをすこし起こしてみる空に赤み帯びたる雲浮かびをり

右脇よりドレインに抜ける濁り水わが胸に棲む夕やけの色

右足首にテープ一枚の識別票此ノ生ノ帰路茫然として

これらの病床詠は滲むようにわたくしに押し出してくる。

逆にいえば、心に《滲ませるように》読んでこそ歌意に到達できる種の作品である。

窓外の夕焼けと体内の夕焼け様のものの対比。

しかし、この胸中の夕やけは率直に書けば、痛ましい、につきる。

ここでの夕やけとはその色彩もさることながら、

一ノ関さんの、たとえば、往路にあった《抜山蓋世》の意気を絞った絞り汁のような

つまり、果ての姿のような、《未達成ながらも感ずる実在感》という

混濁感の色合いを言い表そうとしたのだろう。

ここには、厳然と病者として、表現者としての強靭な《当事者意識》がある。

自身を病者として敢えて規定し、その自己を余すところなく詠おうとする直視は

表現者としての当事者意識が、病者としての当事者意識をまるまる包み込んでいるのだ、といえる。

やがてこの髪も抜け険しき表情にわが笑むときは子よ近づくな

蜻蛉(あきつ)すでに飛ばざる刈り田見ゆたちまちにして過ぎたる一月(ひとつき)

わが病牀六尺の歌頭髪の脱毛始まれば笑ふほかなし

アンパンの臍噛みなにかうれしくて妻と語りぬ冬の夜の部屋

これらのなかに一貫するのは、「失われるもの」と「掌中に残されるもの」との

それぞれの確認を厳密精確に処理である。

その頂点をなす誇らしげな作品。

一畳ほどのベッドがわれの栖なりおとろへたれどわれここにあり

そのほか、なまなましくはだけられた病床の精神から湧き出す瞬間の思い。

ここでは《滲み読み》でない《直観読み》ができます。

なめらかなる女の肌の凹凸が背後よりわれに来てなまなまし

ひひらぎの葉にいわしの頭けふわれは信心すなり疫病よ()

福よ寄れ!鬼よ来よ!こよひ節分の豆撒く声すどこかの病室

次は喩の世界。どちらにも自己の閉塞感を加えた二重の喩となっている。

海底に腐食のすすむ軍艦の砲台に棲むウツボが口あく

<陸封魚>のごとくに矮小化せる日本の古典をさぐる論にてあるなり

随所に見えるはるかな野山への憧れの歌はせせこましさもなく、つまり伸びやかな美しさに迫っている。

チェーンソウの音の響きをなつかしみ山にゆきたし春来る山に

杖つきてねこじゃらし咲く野の春へ往きつ戻りつ痩せたるわが身

子がむかしトトロの森とよろこべる林にてあかるき空を仰げり

どんど場に積みたる去年のしめ飾り燃えやすくして火尖(ほさき)のびゆく

この「のびゆく」には切ない望みが見える。

このほか正直すぎる自注をほどこそた『ひとり歌仙』

『病室にて』なる切ない甘味が残る、集中の箸安めのような小品集もある。

そう、一ノ関さんは正統な表現者であって《歌人》にとどまってはいない。

『帰路』はポエジー21シリーズの第U期第1弾でもある。

 


胡蝶之夢(小久保晴行)2008.5.30〔短歌新聞社〕

2008.6.24

小久保さんもweb site世界のお人であるので、既にお立ち寄りの諸姉諸兄も多かろう。

サイト名は「小久保晴行」まだの方はどうぞ。

 

さて、本集はほとんど1日1首詠。

2007年がこの一巻に姿をとどめている。

短歌を通じた社会への思いにが一貫して流れている。

常に社会と結びつき、当日と結びつく短歌というものには、言い知れぬ価値がある。

わたくしなど、そぞろに日を生き、興がのれば一気に濫作するという自侭な生活ゆえ、

大いに刺激された次第である。

とりあえず、ピックアップを。

 

一月

快晴に恵まれ今朝の四方世阿弥の悟り空気のすがし(元旦・祭・月)

怠惰なる同属経営破たんせしペコちゃんのいま命運やいかに(二〇日・土)

二月

産む機械の発言めぐりて大騒動辞めるも辞めぬもまつてにどうぞ(一日・木)

親ばかの石原都知事身びいきの選挙を前にただ低姿勢へ(九日・金)

三月

ホリエモン懲役二年の判決もタレント気分にテレビ出演(一七日・土)

「無責任時代」を画せし笑い顔植木等もはいそれまでーよ(二八日・水)

四月

安全の国と信ずるまな娘イギリス人の父ぞかなしき(三日・火)

四年ごとこうべを垂れて絶叫す地方選挙のまたも始まる(一五日・日)

五月

よく生きてよき死を迎える穏やかの皐月の晴れの緑の木陰(三日・祭・木)

鮮やかに横綱決まり白鵬に日本のおのこいずこにありや(二七日・日)

六月

俳句馬鹿人生馬鹿の山頭火水無月にしてひとりぼっちの(六日・水)

エジプトの女王のミイラ特定さる色香の漂う腿のふくらみ(二七日・水)

七月

文月に暦替わりて何気なく町を歩けば気だるさつのる(一日・日)

伊勢丹と老舗三越の合併は時代の流れいまし胸うつ(二七日・金)

八月

煮えたぎり蕩ける道路盛り上がり歩めば糊のごとき坂道(九日・木)

毎日のごとく子殺し親殺し妖怪曼荼羅暑さにうだる(二五日・土)

九月

崖っぷち安倍晋三の没落はあわれくずれて皆よそをむく(五日・水)

ビンラディン宣戦布告の映像の世界発信に髭を染めたり(二一日・土)

一〇月

山頭火どこで会っても山頭火いらだちもなく日のくれていく(一〇日・水)

マスコミにおだれたれつつ増長の果てに破滅の亀田親子は(一五日・月)

一一月

突然の辞任表明仰天の逆ギレ小沢のいつも手法(四日・日)

西行の恋歌の多く現世を捨てきれぬ業のすさまじくあり(一一日・日)

一二月

大連立もとの木阿弥ご破算にねじれのままに年越し憂う(二二日・土)

超三流勝ち組にあらず負けもせず豊穣の日々われの日乗(二六日・水)

 

是非、このあとも、献身あって、5年、7年かけることのない、短歌の敷道を建設して頂きたいものである。

小久保さんは歌集多数、巻末のプロフィールだけでも過去に6冊はある。

 


スローライフに遠く(大熊俊夫)2008.4.20〔ながらみ書房〕

2008.5.31

一巻を通じて、ライフワークであった書籍編集という仕事への誇りと執念に貫かれている感がある。

率直切実な言語起用もさることながら、事実を直視し、まともに真向かうファイティングポーズが屋台骨だ。

誤植とは在るべからざるものなれどあれば喜ぶ校正者われは

見落としし誤植ありしゆゑ完璧を求むることはなく生きて来つ

氷雨降る日を籠もりゐて(せぐくま)る思ひに綴れり「終刊の辞」を

そして、企業人生活晩期の悲哀。

退職の勤め拒めばやがてくる人事異動の天の霹靂

退職を強ひられし友退職を解かれし友と黙深く酌む

方針を滔々述ぶる労担の功成りしより万骨枯れぬ

棄てしもの失ひしものあまたあり鬼哭啾々われは定年

波瀾たかが十丈ほどの一生かと思へばさびし誕生日暮るる

生活の糧を得る仕事終へしより入りし歌境に憩ふひととき

歌歴は10年とのことゆえ、恐らくは短歌と無縁であった仕事の全盛期時代がある筈だが、

企業人生活のいわば晩期の思いからその全盛期の残影が見て取れる。

恰も夕焼けがその日一日の烈日のさまを暗示、いや、明示するように。

そういうまなざしによって生産された歌もまた、

対象に遡ってそれぞれの生気を放つ。

空に向けて白き炎を噴くごとく花咲き満つる一樹白木蓮

卵殻をくはえたる烏の不可思議の行為をしばし見つめてゐたり

側壁まで水の翼を広げたる神田川の今朝は翔る鳳凰

山門の仁王に真対ふわれの背を軽く押すごと青葉風吹く

するすると抜けたるドクダミこだはりをもたざる生に似てこころよし

砂原のはたての夢をつかまむと砂いく筋も低く飛びゆく

もちろん、妻女へ、父へ、故郷への思いには大人の深い愛が見える。

わが妻の弁当箱の小ささを洗へば胸に込みあぐるもの

(なづな)振りあどけなき顔ふと見せし妻の幼時は知らず来りき

悩みはてて父の突つ伏しし縁側の赤茶けし色も思ひ出にあり

遺されし工具袋に鑿三本のたましひの宿りて光る

ちちははのかの世の姿かくあらな寄り添へる地蔵無邪気に笑ふ

朝毎に雨具の用意させられき紀州紀の国雨の王国

まだまだ、スローライフはお似合いではないのである。

花衣脱ぎし桜のさはやかさ持ちて歩まむわが六十代

スローライフに遠き日々なり定年後も締切りのある仕事を持ちて

大熊俊夫さんは『星雲』『桜狩』の編集委員、その第一歌集である。

 


永田典子エッセイ集V菜際記(永田典子)2008.4.26〔ながらみ書房〕

2008.5.5

 

永田さんは「砂の花」「永田典子初期作品集」など近年続々作品を世に問い続けているが今回はエッセイ集である。

まことにフルーティーな仕上がりにて、端麗の銘酒『十四代』など思い浮かべながら、

よき酩酊への案内者を楽しんだ。

本編には2002年から2007年までの16編が収められているが、

その中のいくつかには、明らかに予定調和としての「落としどころ」がビルトインされている。

前段で大いに揺れた文意を最後のシャレによってユーモラスに回収するのである。

この点がとても強く心に残った。

実は、このことが、この集全体を、品のよい楽しいものに仕上げたゆえんでもあるので、

内容を紹介したいのはヤマヤマだが、落語のサゲと同じでいわば企業秘密ゆえここでの転載は控えたい。

野球にはフォークボールというのがあって、打とうとするところでスッと落ちる。

あの決め球の爽快感が生命なのであるが、

ただ、野球とは違って、永田さんの変化は読み手に空振りさせるのではなく、ジャストミートさせてくれるようだ。

ぴしゃりと。

もうひとつ、永田さんの博覧がたくまずして、読者に知識を供与するのである。

たとえば、国分寺市の「恋ヶ窪」なる地名は、わたくしにとっては、

会社の研究機関があることから始終出入りしていたので

かねてから、その名の由来に関心を持っていたが、

畠山重忠と遊女夙妻(あさづま)太夫の悲恋の地と知り、大いに心騒ぐところとなった。

さらに、「武蔵」が「焼畑」の意をもつなどという事なども知られて無条件に面白い。

なおなお、永田さんのお仕事が《お習字屋》様とは不明にして存ぜず、なるほどと声をあげました。

とまれ、エッセイは人柄を映す鏡である。

作品とは違った新しい永田さん像を得られたことは僥倖である。

永田さんは『日月』の編集発行人、なお、冒頭記載のほかに3冊の歌集がある。

さて、最後に所収作品から

花の息、木の息絶えて倒れしと茱萸の木を言ふこゑ遥かなり

薔薇(さうび)さながらなれば見つつゐて見飽かぬ「砂の花」と謂ふ石

水引草しづかに立てれ言の葉にしばられてゐる呪縛の峠


シナプス遊行(鈴木諄三)2008.4.1〔短歌研究社〕

2008.5.3

『シナプスは医学用語で神経細胞間または他細胞との接続、情報伝達に関わる接合部の名称である』と「あとがき」にある。

医学者鈴木諄三さんの第7歌集の命名には似つかわしい。

1997年から2001年までの5年間の作からの自選491首が収められている。

【脳生理と医学者の視点】

鈴木さんにとっては、心や自己自身の在り処はどうやら『頭』であるらしい。

脳の機能は常に鈴木さんの《薬籠》中のものなのであろうから、発想の起点や視点が往々次のようになるのであろう。

ある特殊な理知と呼ぶこともできる。

知識的差配の中枢「海馬」なる臓器に効くとて飲む健康茶

()を振れど音のせざるは空白の域増えしかとまたふりてみつ

ひしめける意識の破片侍らせて清まりゆくや眠りの際は

意識下に置くともなきに浮かび来て得体知れねど親しきものら

平凡な語彙のみめぐる()を振りて仰ぐに暑を撒き降る蝉の声

殺めたるネズミ、ウサギの幾千が職退きし夢に顕たぬはさびし@

@の実験動物への罪の意識もまた、研究者には傷痕となるのであろう。

【心裡詠】

心裡詠を躁と鬱を伴奏のように出没させるあたりには、やはり、前項と同じ流れが見て取れる。

Aの蚊の処理という主題や、Bの相槌が哀しみを鍛えるという主題に特に独自の感覚が走る。

つきつめし思い削ぐには丁度良き春一番に打たれて帰る

欝と躁かたみに顕つは生きている(あかし)とおのれを肯う春や

ときおきて欝と躁とのめぐりつつ菜種の梅雨のひかり眩しむ

躁と鬱は交互にめぐり来るといういずれも吾には大差なけれど

余剰なる力余さず打ちし()(むくろ)ひらたく蚊の張り付きぬA

一瞥しあとを無視すること多しなべて優越に繋ぐならねど

相槌を撲つたびごとにかなしみの鍛えらるるや暑のまだ去らずB

【老境詠】

いわゆる《老境》周辺の作品だが、鈴木さんのこの系統の歌には、明るさが付いて回る。

そのように気を引き立てての日常なのであろうか、このあたりの特徴は貴重でもある。

膝の鳴る音かしましく聞くごとし階昇る群に(おい)多ければ

ときめける時期は過ぐれど対の座のミニスカートはおのず眼を射る

エゴという意識優しく添わするに残生すこし輝くごとし

もうそろそろ老いを詠んでもよろしかろ古稀に三年まだ間のあるも

      【描写・観察】

常に何らかの《動》を封じ込めた《活作り》の描写がここでの見せ場だ。

田の面の薄雪(はだれ)を吸うと寄り来たる越年蝶の瑠璃の翅輝る

晩春と盛春、早春逆行の「(とき)」を追いつつ北行く車窓

嬌声のかけらのいくつ落ちいぬか朝静もれる(まち)路地の春

体液の煌う一滴尾より垂り翅開閉す羽化せし蝶は

眩暈(くるめき)のときに兆すは衰えかまぶしみ仰ぐビルの直立

【人生観】

自己観照ともいえるこの系譜は過不足のない自画像として投影されている。

ゆるぎのない大人(たいじん)の自画像。

齷齪と生きていにけり職退けどなお安らがぬこの身愛しむ

人真似にならざる想を得るべしと堅き(なずき)を今日もはげます

敢えていわば一途に生きてきたりしよ諍いさけしきらいはあれど

一日の生の残渣か身めぐりに漂うのみに光らざるもの

先走りばかりしている奴がいる追いかけてばかりいる俺がいる

【酒の歌】

鈴木さんの歌集にはなくてはならぬ一部分であろうか。

「鬼ごろし」勝利は愛し「酔鯨」をわれは好めりとも若からず

飲酒量とみに衰え乗り越して(かん)に身さらす日も絶えてなし

鈴木諄三さんは『白南風』編集兼発行人、日本短歌協会の理事長である。

 

 


蟹の散歩(小寺康平)20083.17〔青木印刷〕

2008.4.7

 

鉄色の布張り厚手の表紙いかめしく、さらに揚言もあとがきも応援もない、

正味73頁のいわば古武士の風貌の一巻である。

作品は、一巻を通じ、小寺さんの、丹念なご観察から導かれている。

 

山の上から離れんとする雲ありてまんじゅしゃげの赤さ孤独なるかも

ゆらゆらと黒揚羽蝶藪を出て蔵のちいさな錠前が冷ゆ

みずうみの鮒に身の色変えさせる秋がなずさう薄き山々

神主が一夜のうちにしらが増え青杉上の冬晴れにけり

葉のかげにぎこちなく付くすだちの実ひよりつづきにうっかり黄ばむ

生みたての玉子をつかみひらく手に草色まじりの土かわきおり

いかめしき弟の肩にさくら散る子にも死なれてぽつんといるを

本当は生きていたいのに死ぬことに尊大のわれひげづらに生く

ひえびえとわが横たわる林道にはやきこぶしをかかぐぜんまい

それぞれに思い入れが濃厚であるが、さらに、手放しのものも心に残る。

おもいきり悲しむための岩にいてきょうの落日嗚呼海に入る

小動物の登場も実に、自然である。

ぺんぺんぐさ風に揺らぐは線路わきけさの黒猫をつれている

えんがわに茶を飲むわれの昼時間蟹の散歩の石垣にあり

あざやかに雨があがりてひらく葉にやがて腹から鳴く蝉のこえ

ここにある諸相には、読み手を味わいの世界に引きこむ強さがあります。

が、それにも増してもじっくりした観察眼のもたらす発見にはしばしばはっとさせられる。

交差点で顔ひきしまるおもいありぬ青くてよなかの東京の空

人はみな愚かにどこかやさしくて隠しきるなりわかき日の罪

さらに、父恋いもひとつのテーマとしてこの歌集を貫いています。次の作品です。

父の家の遠いむかしになりにけり白魚をくいし五人の歌会

この夜のあまり冷ゆれば亡き父の半纏を着てうたを書くかな

どの部屋のどこにも父が居ぬことでくらいひぐれの蚊遣火たく

小寺康平さんは和歌山県在住、その第4歌集である。

 


白を着る(寺島博子)2008.2.1〔本阿弥書店〕

2008.3.6

 

てらしまさんでなくてらじまさんである。

前集『未生』自在な機知と新鮮な感性が横糸、自己自身の存在が縦糸

となって編まれていたがその風は一段と定着した観がある。

一段と穂先は磨き上げられてはいるが。

 

【花との関係】

花の捉え方は、寺島さんの場合、あくまでも生命としての花であって、単なる観賞の対象ではないというのが際立った特色だ。

花と対話をしたり花と息を通わせたりという状況はとても新鮮至極である。

 

わが庭の椿の白とくれなゐが心をひとつに決めよと迫る

水仙のさみどりの茎をなぞるとき脊椎をもたぬいのちまかなし

鋭き矢を放ちしつもりが放たれてわが胸ぞいたき緋の曼珠沙華

【ひとへの思い】

身近な人への距離を確かめずにはいられない切なさを有している。それが印象に残る。

人のことを思うと、不安な切ない思いが募ることがありるが、その点が的確に描かれているのがわかる。

君の横にすわりて言葉交わさざる胸のあたため方もあるだらう

(まなじり)を横切りながらさくら降るいくら降るともあなたに届かず

出立は見送らないよ鳥のごと去りゆくおまへがかなしいからね

【観察眼】

こちらは知性の産物であるといえます。思い切った表現もしばしば見え、

短歌という器の鋭さをあらためて認識させる強みがある。

赤ん坊を道に産み落とすかと思ふまでに産み月のをみなしやべりつづける

月齢を問うたならきつと叱られる青白きかほの月はをみなゆゑ

みづとりの胸に触れられ池の()に消えつつ生まるひかりのつぶは

風のなき午後にすとんとわが胸に落ちたる手紙そを取りにゆく

半島はいづれもかなしきかたちにて涙のひとつ伊豆へと向かふ

せつせつと声を聞かせよ夏の燕わたしもあかきのみどを持てば

流れゆくこころのいろを思ふとき流線型の魚ぞかなしき

【病】

病についての作もいくつかある。

それはしばしば、さまざまなものへの投影となって昇華されている。

 

義母はひだりのわたしは右の乳房病みひそかに羽を編む日を数ふ

漆黒の夜が降るたびはばたきをくり返す羽を袋に持てり

白き蝶の胸の細さをあはれみてノースリーブのワンピースをほす

泣く声は堤を越えておもむろに胸処に至るそを止めはせず

わが(せい)をさみしと思はばなほさらに火のごとさみしからむよ夫は

【自己の思い】

身辺に歌を拾いながら歌ごころを増殖させる名手である。

○印はとくに際立つ。いや、マークはやめよう殆んどについてしまう。

放たれしからには行方もたづねずにひたすら飛びて矢になりぬべし

美しき手紙届きたり声に読まむあやめよ見よやほととぎす聞け

風吹けばこの世の花を散らすゆゑ恋ふるなら死者と心に決めぬ

鏡には古りたる障子とわれが映り白きけものにすこし近づく

半分に欠けたる月をわが肩にのせたるほどに酔うてをるらし

(ほむら)までいたらぬ火種をかかへつつ八朔まるごと食べてしまへり

胃の位置がすこし動いたやうだなと思ふ日はいつそくちばし伸びろ

まつしろなブラウスふはり羽織る日に聞こえる音ありその白を着る

寺島博子さんは『朔日』のメンバー、『白を着る』は『未に続くその第2歌集である。

 


 

ゼロ地点(相良峻)2008.1.11〔ながらみ書房〕

200.1.31

「ゼロ」という地点をおもう抱懐の終点あるいは巣立ちの原点

最愛の伴侶を喪った相良さんは自身をゼロ地点に位置づけている。

終点と起点のどちらでもないニュートラルな状態。

この歌集の中央のくびれに相当する一瞬であったのだろう。

おだやかに積み来し日々と思うなかひそかに妻は壊れゆきたり

すがりつくわれ追い払うごとく医師離婚ができると言い捨てて立つ

携帯電話(けいたい)を購いしわれの留守録にあまた積みゆく助けてコール

小気味よき音たて花叢踏みしだき快感充ちゆく つくづく残虐

扉の奥に火の音重しきみを舐めきみを消しゆく紅蓮(ぐれん)見えたり

奥方の発病から進行の過程、挙句の死から葬儀まで

相良さんの凝視と記録は続いている。痛ましい。

ひとひとり逝かせただけですただそれだけ わたしは仕事に(さら)われてゆく

アルバムに写真貼りゆきこのページめくればもう無いきみの姿は

きみおらぬアルバムにわれの笑顔増えある日突然とことん悲しい

野良猫がわが手に残せる重くして硬き感触「死」にうろたえる

精神にかほど忠実な歌集はそうざらにはないといってよく、

率直なご筆法が迫真の記録となり同時に創作物となっている。

そんな中で第2部の幕が切って落とされる。

そしてこれは相良さんが年齢を詠みこみから判ることなのだが

いつか言われた《夕暮れ》の世代での慕情劇。

日増しに募る恋心は忠実に描き出されている。

指折りて逢う日を待ちおり恋う人を恋人未満の小箱に押しこめ

人知れずきみの背な追うきょうもなお寂しき距離を保ちゆきつつ

わたしだけのあなたかしらと問う人の伏せたる眼差しひしひし愛し

うかうかと隙を見せれば悲しさは眉間に真直ぐ打ち込んでくる

特急が走り抜けゆき面倒がくだけて轟音 散りゆき銀色

手術痕なでつつ探るわが心 突き、刺し、切り傷また裂かれ傷

こまやかに変幻見せいるきみの顔写真にとどめることは無理、無理

独占をされたるきみを遠くみていまにも抜刀しそうなりわれ

「ごめんね」のメールいくたびも読みおればその裏側に「さよなら」の文字

そしてその忠実さは結末まで続く。

三つ切りの長葱ラップを突き破り黄芽伸ばしいる 頑張らな!

たわむれに神はわたしを採集しメランコリーの箱に串刺す

安堵の巣いまだ見つからない直径が一万三千キロメートルの地球(ほし)

このふたつの愛情物語で本編は十分なのだが、

率直な感慨は無論はば広く日常を描き出している。

ビル街のトワイライトに囚われて空仰ぎ見る どこまでも空

ひそひそとわたしに染み入る夜の無音 森は孤独の器である

芋虫がごろりと出でて春までをともに(いね)むと土中にさそう

見上ぐれば深深と空 いずれわが粒子と消えゆく空無限大

相良さんは『韻の会』のメンバー、その第一歌集である。

 

 


解体書(石川幸雄)2008.1.10〔ながらみ書房〕

200.1.22

 

上記のように本著の『心』の文字は斜体になっている。

当然、そういう象徴には全集を挙げて対応している。

世に《序破急》ということがあるが本集は俄然、《急》から入る趣きである。

永い歌歴から最近作に絞った編集とおそらく関係が深い。

温泉を汲みてざぶんと頭から被りて拭う君あどけなき

泣き顔も君だけが持つ表情の七〇〇〇通りの一つに過ぎぬ

石川さんは近い素材を痛打するのがお得意とみえる。

身体の部位が多く詠われる。

無論、それゆえの『解体』の命名であるが

注目すべきは全ての器官がその本来の機能と関係なく扱われていることである。

コンタクトレンズが君の角膜に張りつき動く様をみている

「味わう」は如何にして噛み舌に乗せ舌にからめるかの術である

笑うには筋肉八つ怒るには九つ使う 笑うがやさし

右肺が上になるように眠るのは君に背中を向けるにあらず

手首から肩にかけての流線の抱く形になりやすきこと

石川さんの作品は総じて《歯切れ》が良い。

語の起用、排列とも一貫して緊張感が保たれている。

光合成しているわれとトラックを吹き上げてゆく木枯らし一号

ふり向きて見よやいかにも日本の富士は見えるか そうか見えたか

恵みもたらす太陽も度を越せば行く人の顔どれも険しき

ひと知れず種子は地中に育ちたりこんなところにヒガンバナ揺れ

一転して、槍先の方向を機知・諧謔に転じたと。

恋しき道道ならぬ恋恋の道道の道のわたしの轍

腕枕沈思黙考膝枕おさきまっくら闇に手枕

(カナカナ)は今日かなまさかあしたかなかなしはかなし七日目の朝

そして心のありようは(皆様おきらいな)わたくしの好みの《男歌》の趣向。

平常心装いながら爪先を支点に揺する意思表示法

決して平坦な人生ではなかった 平坦な人生などあるものか

われを待ち求める人のありやなし否応もなくわれはわれなる

まったいらなどなき丸い地球にて平に近いと言える心情

遠花火かすめる橋にさしかかり「あの夏」夏はふりかえるもの

そして、そして、おりおり、無頼の岸に漂着する。いいや、無論、意図的な上陸である。

花頻りに散るを往くとき向かい風 愛恋無縁の無頼装う

欲せること有るやうでなし。啄木よじっと手をみよ金はいらぬか

小説家自死俳人斃死詩人夭死柳家急死歌人老衰

ふくよかな白木蓮は春荒れに脱ぎ散らかして午睡を揺らす

石川幸雄さんは『開放区』のメンバー、その第1歌集である。