fuki

 

FUKI

依田 仁美のWorkshopPlayground
Yoda Yoshiharu SINCE 1999.11.19
2017.6.29
あなた様は本地球上で実にhttp://cgi.www.ne.jp/cgi-bin/Count.cgi?pad=N&md=10&dd=C&df=index.dat人目のご奇特な方です。
 

violet

BLACKPRINCE

warusa

mail

 ※URLのwalserは“warusa”と“walther”を合成した無意味綴であります.

 
CONTENTS(目次)

⇒WHO&WHERE(ご登場の方々1,384氏)


硬式短歌という提案

   Edge    Enery    Eagerness

Togari     Riki      Kihaku

ごあいさつ

表現というものは、自身の少しだけ前の痕跡であると気づきました。

今日現在の、知情意・生き方・人格が、少少子供っぽい衒いに鎧われて

ならべられたものに違いありません。

微笑を含まれてお遊びください。

また、

このしばらくの間、義侠心から、9年に亘り、さる組織の庶用に身を投じていましたが

今やいかんとも私利私欲の温床、

当年3月末の任期明けを以て休耕田に立ち戻りました。

ふたたび制作に精魂を注ぐ所存です。

頁主

 

新作

予は雉である

 

あさ春は瑠璃紺バディを(しるし)とし歩を確と踏む風を従え

時を割り場所を捉えて悠と反る予は雉である名前は無用

猿は知で犬は仁だと言うときの予の特質は勇に落ち着く

水鏡びらり不動の性自認ナルキッソスも予には及ばぬ

()るにても婦女子の雉のゆたかさや藪にやつして稚なを護る

わさわさと飛翔の前の羽ばたきに(そう)()を絞るわが男前

里山に一大滑空なしとげて(よく)をすぼめて一日を了える

目を閉じて風の節節思うかな竹には竹の自我意識あり

くれたけの予の秘め技を人問わば啼いて撃たせて(たま)を蹴返す

たまさかにへぼ鉄砲で死ぬとても予の花道ぞ悲歎は無用

CIMG0214

 

⇒ケモノ道=わたくしの新作


Yellow Cradle

⇒2000〜2003年刊行歌集

⇒2004年刊行歌集

⇒2005年刊行歌集

⇒2006.7年刊行歌集

⇒2008年刊行歌集

⇒2009年刊行歌集

⇒2010年刊行歌集

⇒2011年・12年刊行歌集


☆☆☆☆Rum Sour☆☆☆

妙に酸い!

 

「立派に死ぬためだ」 須藤徹の晩年

2017.6.29

須藤徹さんが亡くなったのは2013629日、享年66歳。

「ぶるうまりん」34号で松本光雄さんが思い出させてくれた。

思慮深い須藤氏とは一度暖簾を潜りたかった。

松本氏の評論「終焉と対話-須藤徹版晩年の俳句」に興味深い記載がある。

須藤さんが小川双々子に「俳句は何のためにするのか」と聞かれ、

重ねて「立派に死ぬためだ」と言われたというエピソードが紹介されている。

松本氏による須藤徹の当の6月の句から3句。

 

大義あれはすかいに来る薔薇の風

左眼にて右眼を凝視ひきがえる

夜の新樹馬の睫毛に星宿り

 

 

「性自認」の旗幟を明らかに

前記雉の記事に寄せて

 

雄の雉が歩いている。彼の脳内には間違いなく「俺は雄だ」という「性自認」がある。むろん、言語体系はないだろうから、われらとは勝手が違うだろうが、そういう意識はかならず持っている。

あの「新詩社」のあの「明星」はなぜああまで親しみやすいのか、またあの「明星」はなぜああまで輝かしいのか、またあの「明星」はなぜああまで心に残るのか。申し述べるとしましょう。

その第一、いいや唯一の実情は、「性自認」がほぼ中核にあるからなのです。鉄幹、晶子の代表作を思い浮かべても、それはすぐさま明らかになる。

あたかも握り飯の中核に「梅」があって、その「梅干」が握り飯を支配すると同様に、「性自認」が明星を支配していたのですよ。

わたくしは歌を作るときは、ときに「表現技術」を思い切り離れてみることも大切と思っています。「かくあるべし」で固めると、その一首はいいとしても、その個人一代の成す「生涯短歌資産」という観点から見ると、それはさびしいものになるにちがいないのだから。

「表現技術」的には、「性自認」は、恐らく些末なものとされている。その理由としては、たぶん、「軽薄さ」が挙げられるに違いない。

多くの場合、何につけ、「主張」や「看板」は卑しいとされがちなのである。

もうひとつ、ありがちな議論として、「男である前に人間であるだろ」という理屈。しかしねえ、これに対しては「人間である前に男だろ」という反言が成り立つ。わたくしは、限定的な方を優先する傾向を持つから、後者を採る。雉に訊いたら、先ず、疑いなく「俺は雄だ。雉なんてものは眼中にない」と返してくるだろう。生物学的には、一義的には「性」が挙げられ、「種」は二義的になるに決まっている。

なんだかんだ言っても雉の頭には「性自認」しかないのであり、それが故に雉は尊いのである。「種の保存」は、「種の定義」より遙かに重要なのだから。

 もう少し「性自認」に敏感であった方がよい。というよりそうあるべきだろう。「ダンディズム」「男歌」「女歌」などというのも大いに鳴らす価値のある楽器だ。旗幟を明らかにすべき時ではある。

 朝昼夜、過去現在未来、社会はさまざまに役割を分かち合って動いている。両性が多様な役割を分担し協業し合っている。男女は平等というけれど、持ち前が違うから、対立も親和も同性間のものより数等ダイナミックな筈である。

まず、そこに着眼して、梅干の魔力を尊重すべき時機なのである。

 


☆☆☆☆七宝の輝き☆☆☆

 

■『スーパーアメフラシ』 □山下一路(やました・いちろ)

2017.4.27青磁社

 

名づければ「コラージュ体」、

主張のくっきりしたパーツ群に意外性のスプレーを掛けて意味のある形に再構成している。

コラージュの主役のパートには個性的な小生物が配されている。

しかし作中での役務はさまざまである。

第1首目では「受動」、第2首目では「能動」、そして第3首目では「シテ」である。

これらの対象はここでは外的な描写のそれではい。

山下一路さんの「詩的自我」の派生物質にほかならない。

いちにちのはんぶんをかけ樹にのぼり鳥がくるのをまつ蝸牛

目蒲線沿線にスーパーアメフラシあらわれ青でぬりつぶす

下腹部に不在を孕み蟷螂が見まわしている夏の終わりを

生まれつきアゴから上を明るいほうへよじられている向日葵病

チェンソーを胸にあてるモクレンはたくさんのびていっぱい枯れる

ぬんぬんと膨らみながらかき進む夏雲を見るかつての少年

水面をあおいでみればきらきらと断念のような青空がある

第4首目、第5首目はいわに見られる植物となると一段と「自己同一視」が深まってくる。

自己と対象の境界を渾然とさせる不思議な視線である。

ようようここに引いた第6第7の作には一転、清明な自己がかたどられる。

山下一路さんには1976年の第一歌集『あふりか』があるという。

互いの作品を同じ誌上にならべたのはそれ以前のこと。

懐かしく初見の第2歌集に親しんだ次第である。

 

■『男歌男』 □奥田亡羊(おくだ・ぼうよう)

2017.4.17短歌研究社

 

「男歌男」、頁主の言うべくして言い得ない言辞がさらりと掲げられている。

頁を追えば巍巍たり才の連峰。

構成に秀でていて、集の冒頭、第1首目の役割は読者への「課題付与」にとどめられている。

第2首は絵に描いたような見得、

第3〜第5は、氏の標榜する男歌の神髄の提示。

この神髄をふたつのことばで示せば「大柄」と「鋭利」、他の追随は許さない。

男歌の系譜ここにて断たれたり人呼んでわれは男歌男(おとこうたおとこ)

女護島(にょごのしま)に俺が渡ればいっせいに白き日傘のばばばと開く

滝壺に刺さりたるまま二万年身じろぎもせず滝は驚く

舟底へ振り下ろす斧  炎天の光あつめてわが仕事あれ

八朔の落ちてとぷんと海は暮れまた朝は来てやがて百年

ふかぶかと霧に消えては歩み来るあれはたしかに男歌男

金色に緊まりて細く流れゆく俺はいつまで男歌男

この「男歌男」の正体は頁を追って明らかになる。

いうまでもない。それは、奥田亡羊さんの「詩的自我」に他ならない。

そして、上掲のそれぞれが、その「詩的自我」の明快な発露なのである。

奥田さんは「心の花」所属、本集は第一歌集『亡羊』に次ぐ第二歌集である。

 

 

■『晩夏の海』 □岩崎堯子(いわさき・たかこ)

2017.5.26六花書林

 

ときに回想、ときに洞察、ときに分析とその思考はさまざまであるけれど

それぞれことことくが、耳元でささかやれるように頁主の「排他的理解域」に入ってくる。

つまり、よくよく頷かされるのだ。

とくに第1首第2首など聴覚に関する作品は格別である。

誰にも少年期に、この時のことは忘れないだろうと思った記憶はあるだろうけれども

それにして第3、第4の記憶はあざやかである。

これら随所に見える「感想・感懐の挿入の才」はおそらく岩崎尭子さんの天分だろう。

 

朝床にぽんぽん蒸気の音ひびき女漁師になると決めた日

格闘のすゑ()()に折られし豹の首に その音はなほわが胸にひびく

むかしありしよ青空からのいつぽんの紐に吊られて飛べさうな日が

このときを一生忘れざらむと思ひつつひた澄む晩夏の海に浮きをり

石かげにひそみて()にもあらはれぬ鯉の恐怖をおもひみるべし

すっぽりと隣家は布に覆はれぬ変身を待つこの秘めやかさ

玉子もて洗ひきたりきわが髪はいまだに黒したまごは偉し

第5、第6の見えざる部分に思いを致す知性は本集のまさに「葉隠れの花」。

ここでの「恐怖」も「変身」も読み手に捨てがたい「深み」を配賦している。

じつは、岩崎さんは「短歌人」東京歌会2次会の隣組常連、よって健康上の教示もしばしばいただくところ。

なるがゆえにて、第7の作には「番外の輝き」を認めざるを得ない。

岩崎さんは「短歌人」所属、本集はその満を持した第一歌集である。

 

 

 

■『一心の青』 □寺島博子(てらじま・ひろこ)

2017.2.9角川書店

 

一巻を一色で言い切ることはおそらく無礼な行為なのだろうがこの一巻を流れるモードは「奥ゆかしさ」である。

それは、巻頭歌、第1首目と集題の歌、第6首目にそれぞれ見える「わづかに」であり「近づく」である。

「踏み込まない詩精神」は第2首目で薔薇に寄せた「美の瀰漫」をみちびき、

第3首目で「あなたのなかの(愛すべき)ワルガキを「奥ゆかしく」描く。

第4、第5は現代的不安を十分にカバーしている。

地のしづくとなりて跳ねたり鶺鴒はわづかにみどりの残る芝生に

零れゆく時間の粒子、黄の薔薇の咲きたるのちにさらにもひらき

野に出でて菫の花を探しゐむあなたのなかに棲む悪童子

水面にすうつと顔をつけるとき反目してゐるわたくしの消ゆ

鳥一羽(つぶて)となりゆく速さにて喪失感のおそふ水無月

駅頭をさつそうと行くをみなをりゆふべの空を首にし巻きて

草木染のストールまとひ草木の一心の青にわれは近づく.

前節で「カバー」と書いたのはいささかご無礼だったが、真意はこの第6、第7との対比にある。

「空を首にし巻く」、「一心の青」には、それぞれ詩的な「突き抜け」がある。

アフターファイブを目指すか明日への展開を目指すか、空だか雲だかを友とする

女性はこんにち現在の「明日の(じょ)お−」であろう。

おなじく私も草木の生気をストールを介してわがものとする、という。

誠実につつましく生きれば明日は相応に輝くという奥ゆかしい人生をまで言えば言いすぎか。

寺島さんは「朔日」の同人、

歌集に『未生』『白を着る』、評論集に『額という聖域―斎藤史の歌百首』がある。

 

 

■『サバンナを恋う』 □井上孝太郎(いのうえ・こうたろう)

2017.3.10砂子屋書房

 

ドライフルーツという奇妙な食品がある。

みずみずしかるべき果実を乾燥させ、変質させている。

井上孝太郎さんの歌の作歌の工程もそうなのだろう。

1首目.から3首目にそれは顕著だ。

蟻の出現に春の到来を見いだし、ガラス細工にその故郷を想起する。

ポイントはその後の処理の妙、頭の中に時空の尺度を埋め込んでいるかのようだ。

3首目は読者の頭をコツンと触れるよう、驕慢児の面目躍如もそのままだが、見るべきはかかる貴重な抒情だ。

かく、ドライフルーツとは乾いた抒情の謂である。

異常なし(ニヒツ・ノイエス)」蝶の死骸を巣に運ぶ蟻の一群春の前線

高原の町に挽歌の陽はあふれサバンナを恋うガラスのきりん

「皆自明」とのみ答案用紙に書き入れて数学試験の教室を出た

空耳と知りつつ聞き入る風の中童の歌う花いちもんめ

シェットランドに羊を追いしものの()()日向で惰眠むさぼる犬は

怒りの的絞りきれずに鬱々と二十世紀の除夜の鐘聞く

エントロピーは常にせつなく増大す湯を沸かす間も過去振り向くなと

4では「知りつつ」も、幻聴に童謡を思い、5では愛犬に牧羊犬の血統をかぶせ、

6〜7でも、時間時刻に自己を貼り付けている。

高度成長期からその後の期間、頁主と同じHITACHIに身を置いていた作者である。

研究職のエトスがどうにもこうにも見えてしまう。

井上さんは「短歌人」所属、本集はフィヨルドの海岸線をもつ第1歌集である。

 

■『同時代』 □福井有紀(ふくい・ゆき)

2016.9.10六花書林

 

読後に哀切感がかぎりなく尾を曳く歌集である。

最愛の夫君に先立たれ、孤独をなぐさめてくれた愛犬も去ってゆく。

そういう終章を控えながらも、しばしば、自己を見据える視線に鋭いものを見せる歌集である

()ぢからの癒しをもとめ濃密にドライブしたりはるのこゑごゑ

歯をみがき今あることに感謝する思考回路がはなはだうれし

カキ鍋をほのぼの食せる充足にああいつまでの夫の生命か

勤勉な人間力に寄り添ひて花火大会ふたり見にきし

花が咲き三年前の夫のゐるしろき祭壇と会話するなり

いくたびもなぐさめくるる犬とゐてさくらの開花にこころはさわぐ

安堵してイナバウアーをするルルがゐし後悔なけれどルルに逢ひたし

第1首の「女ぢから」といい、第4首の「人間力」といい、福井さんの社会や

その社会を構成するものの中に「力」を見出す視線には、本質を見抜こうとする強いものがある。

これは自己の思いを「思考回路」と客観視する視線と通底する。

そんな中で、夫の闘病を見守りやがて見送る日日。

かわって伴侶の役を務めた愛犬との別れ。

悲しい歌を続けて抄出したが第5、6、7首、いずれにも「外に開かれた自我」が見える。

これは、この節の冒頭に書いた「強いもの」と響きあう心の芯でもある。

福井さんは「短歌人」所属、『カウチポテト』『団塊の世代』に続く円熟の第4歌集である。

 

■『九年坂』 □田上起一郎(たがみ・きいちろう)

2016.7.27六花書林

 

ストレートが多い。半速球もコーナーワークも厳密。

本集は手練の9年間の集成。武道なら3段、心身充実の坂を上り詰めたところである。

風の吹く妖しき敷地に入りゆき命かぎりの青葉に会ふも

前席にすわりたる女いつしゆんをこの世の終はわりの顔したりけり

はからずも空はま青に塗られたりありありと立つ鉄塔ひとつ

山の上の白雲ひとつつかみとりたはむれなれどふところに入れむ

公園の時計の針は午後十時ふいと立ちたり 月が病んでゐる

満員のがまんがまんの山手線おれはいま神の右足ふんだ

名優のごと白鷺一羽立ちをりぬきまじめ夕日もの狂ひけり

『九年坂』の第一印象は、那須与一のごとき対象・的への精確な射出である。

ただし、すぐあとに、さらに条件をひとつ付加したい。

刀法には「抜き打ち」という、思い立った時点での決着を旨とする技術がある。

この射出はこれに等しい速射性がある。

例示する。

第1首目。青葉に会ったのが敷地に入ると「同時」なのだ。

決して「入り来て」から、時を経て、ことに気づいたのでなないのだ。

2首目、4首目、6首目はいずれも電車の中での即詠。

2首目では「動体視力」を見せるが、他の作もも「本質を瞬時に見抜けばこそ」の速射ではないか。

総じて「凝り」や「衒い」に力を費やさない「純情正統派」だが

本質に迫るときには「思うがまま」の喩をぐいと押し出すことに躊躇はない。

田上さんは「短歌人」メンバー、これはその9年に及ぶ仕事の集成たる第1歌集である。

 

CONTENTS

ごあいさつ

Yellow Cradle

頁主今月の作品

0.RUMRUM Rnunning

0-past間歇斜説Spurts

 1−1.俳句Galaxy

1−2.歌詠みの俳句読み

 2.殿堂・短歌Mirage

2−2.七宝の輝き

 3.新刊歌集/歌書Cores

1999〜2003

2004年刊

2005年刊

2006〜8年刊

2009〜10年刊

2011年刊

4.クルージング現代短詩

5.狂歌Asukaの里

6.辞世Savanna

7.道歌Still

8.男道ばなし

9.連載・語性論試論

 10.漂論 Jaguar

11−3.ぶち抜ける歌群或いはEEE短歌十番譜・短歌はどこまで尖りうるか(

11−2.石川恭子十番譜或いは白月・黒月抄(完)(2006.11.6)

11−1.高瀬一誌十番譜或いは高瀬一誌走犀灯(完)(2006.7.8)

12.demon 邪論・現代短歌出門(2001.6.9完)⇒しばらく休止します

 13.わたくしの新作

14.銘酒十選;きよみきseries(完)

番外:騒音危険Dummy Doors

『骨一式』全作品

『乱髪-Rnm Parts』全作品

『悪戯翼』全作品

依田仁美短歌作品集『異端陣』紹介

☆電子出版;ダウンロード購読

★単行本;文芸社刊「異端陣」

異端陣・別冊付録・「狭辞苑」

文芸社エッセイ アウトサイディングと「形」

WHOWHERE(ご登場の方々)

 

Jata1

                                                                                                          Jata2

 


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 ※URLのwalserは“warusa”と“walther”を合成した無意味綴であります.