ぼくらはみんな生きている

―18歳ですべての記憶を失くした青年の手記―

坪倉優介 (幻冬舎、2001)

 

記憶喪失という障害は小説や映画でよく使われる設定ですが、現実にはなかなかお目にかかることはありません。しかも、小説や映画の登場人物は、物語の展開に都合がいいように設定されているので、あのような症例は実際にはほとんどいないともいわれます。しかし、脳のどの部位が損傷やストレスを受けるかによって、いろいろなタイプの記憶喪失があるようです。

彼は大学に進学した直後(1989年)に交通事故に遭い、ほとんどすべての記憶を失いました。これがどういうことを意味するのかは、なかなか理解しにくいのですが、簡単にいえば、いきなり親から引き離されて未知の場所につれてこられた、ちょうど1歳(12ヵ月)くらいの赤ん坊のようなものかもしれません。言葉はほとんどしゃべれず、理解できず、歩くのもやっと。意味記憶(知識)やエピソード記憶(個人の生活史)はもちろん、手続き記憶(食事の仕方、着替え方、自転車の乗り方など)もすべて失い、自分独りでは何もできないのです。ごくたまに、言葉や友人の名前や過去の出来事の断片が、突然甦ることがありますが、それらがつながって自分の「過去」となることは決してありません。顔つきも性格も、別人のようになってしまいました。

対人関係のストレスと生きることの目的が見出せない無力感に押しつぶされそうな彼を、母親は思い切って大学に復学させます。大阪芸術大学の工芸学科染織コースを5年かかって卒業した彼は、専攻科に進み、卒業と同時に京都の染工房に就職します。2001年、草木染め作家としてデビューした彼を紹介したテレビ番組を、ご覧になった方も多いでしょう。彼がこの12年間の出来事を思いだし、綴ったのが本書です。

初めのうちは、失われた過去を何とか取り戻そうと必死になっていた彼が、やがて新しい人生をしっかりと歩み始め、新しい過去を大切に思うようになります。筆舌に尽くしがたい苦労の末に手に入れた、かけがいのない人生だから。

人間の本能と文化の関係についてもいろいろと気付かせてくれます。たとえば、人の顔を見て、その表情の意味は全くわからないのに、なぜか自分が嬉しくなったり悲しくなったり(嬉しいとか悲しいという言葉も知らないのですが)するということ。他人の表情を読む能力は、すべて学習によって獲得するのではなく、ある程度は遺伝的にプログラムされているのだということがわかります。