言葉のない世界に生きた男

スーザン・シャラー (中村妙子 訳、晶文社、1993)

 

言葉のない世界に生きる。生まれてから一度も言語を習得したことがなく、そもそも言語というものの存在すら知らない人。生まれつきの、または生後間もなくからの聾(ろう)で、まともな教育を受けず、手話を習うこともなく成長してしまった人。

少なくとも文明社会にはそんな人がいるはずはない、と思いますか。ところが、アメリカにもそういう人はかなりいるのです。一般社会にまったく知られていないのは、そういう人たちに手話を教えるのは不可能だと考えられていて、ほとんど何の援助も行われていないからでしょう。彼らの中には何らかの仕事を持っている人もいますが、そういう人も含めて、周囲からは社会の一員として認められていないのです。もちろん、教育制度が整っていない国や文明化されていない社会では、すべての聾者がそのような境遇におかれているはずです。

ある聾者のためのクラス(おそらく公的機関の活動)で手話通訳のパートタイマーとなった著者は、メキシコ出身でアメリカに不法滞在しているらしい、27歳の男性イルデフォンソと出会います。しかし彼は、自分の名前はもちろんのこと、すべてのモノには名前があることを知りません。身振り手振りとマイム(演技)でコミュニケーションをとることはできますが、手話のサインを教えようとすると、単にそのサインを真似するだけ。著者の涙ぐましい努力によって、1週間後、ついにモノには名前があることを理解したイルデフォンソは、その瞬間テーブルの上に突っ伏してさめざめと泣く。ヘレン・ケラーのように感動したからではなく、それまでの27年間、自分が精神の牢獄に閉じこめられていたことを知ったから・・・

クラスを「卒業」したイルデフォンソとの別れの後、著者の興味は言葉を持たない人間の心の世界に向かいます。しかし、著者が調べた限りでは、言葉を知らない人たちに対する学問的な関心は、何人かの「野生児」が発見された19世紀には大きかったものの、今ではほとんど誰も研究していない。ごくわずかな研究者が実際に言葉を持たない大人たちに苦労して手話を教えているが、そのような教育の問題に関心を寄せる同業者はいない。聾者のための大学まであるアメリカでさえ、この有り様です。

言葉を持たない人間の心の世界を知るには、音信が絶えたイルデフォンソを探し出して聞くしかないと心に決めた著者は、いろいろ手を尽くして、ついに7年後に彼と再会を果たします。そして招かれた聾者たちのコミュニティ。それは、言葉(手話)を知る以前のイルデフォンソが住んでいた世界だったのです。